第4話「孤独な王様」
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 カリアラは高らかな笑い声を浴びせられた。ぽかんとする彼に構わず、対峙の相手は空気を揺るがすほどの声量で笑い続ける。腹の底に響く音。顔かたちはいつも不機嫌だったサフィギシルのものなのに、今はその口許にも態度にも愉しげな余裕があふれている。彼の周囲に漂う空気がまばゆく色を変えていた。どういうわけか、ソファにもたれる体つきすら一回り大きく見える。
 カリアラは不可解なものを探る目で隅々まで彼を見つめ、顔をしかめた。
「わかんねぇ。お前、サフィじゃない。ビジス爺さんって言われてたやつなのか? サフィはどこに行ったんだ。シラはどこだ?」
「まァ慌てるな、一つずつ話していこう。その通り、わしはビジス爺さんだ。世界一の魔術技師さ。こんな体を簡単に作りあげてしまう」
 ビジスはおどけたしぐさで服をめくった。白肌を割る鋭い傷。引き裂かれたようなそれを、ドアを開くのと同じしぐさで剥がせば中には機械が詰まっている。木組みの部品に囲まれる石と、それらを繋ぐ強い糸。だが神経はあちこちで断ち切られて力なく垂れていた。
 しかし、すべてが外れているわけではない。いくつかはどことなく不器用な繋がり方で、魔石に吸いついていた。手馴れた者が施したとは思えない雑な仕事。まるで、一度断たれた後でつけ直したかのようである。
「まァ容赦のない傷口だ。中も全部人魚にやられた」
 カリアラの顔が曇る。彼は何か言おうと口を開くが、ためらうように閉じてしまった。眉を弱めて、シラが残した悲惨な傷跡を見る。時おり、確かにサフィギシルの体なのだと確認するように、ちらちらと顔を覗いた。ビジスは悠々と笑っている。
「サフィギシルはわしの最後の『作品』だ」
「人間じゃなかったのか」
「そうだ。もう一度子育てをやり直そうと思ってな、三年前に死にくさった馬鹿な息子を人型細工で再現したのさ。人間だった前のサフィと新しいサフィギシル。わからんかっただろう? “このサフィ”にはわしの全てを詰めたからな。ま、あの娘は騙しきれなかったが、それは中身の失策だ。あやつも痛い目を見て、しばらくは大人しくしておるだろう」
 ビジスは左胸にはめられた、ひときわ大きな魔石を指す。
「サフィは今ここにおるよ。この奥に潜んでいる」
 深く濁る青い石に、細々とした糸が一本頼りなく貼り付いている。周りには太い糸が切り取られたらしき跡。短く残る根元が均等に並んでいる。
「これもあの娘が切った。大した女だ、一本の違いもなく正確に路を断っていった。……きちんと、サフィの命を奪わんようにな」
 カリアラは驚いてビジスを見る。
「面白い女だ。人魚にしておくには惜しい」
「シラ、殺そうとしたんじゃなかったのか」
 ビジスは開いた皮も服も元のように戻しながら、目の丸いカリアラを笑う。
「殺してしまえばお前の体は誰が直す? いくら資料があったとしても、素人には無茶な話だ。お前が一生無傷で過ごせる保証もないし、不可測な事態も起こりかねん。そうなってもあの人魚の腕では正しい処置を与えられない。だから、サフィは生かしておこうと、最初から企んでいたのだろう」
 ビジスはすらすらとシラの手の内を並べていく。
「外に出るために霧は解きたい。だがサフィを殺すわけにはいかない。だからあやつは神経を切り魔力が抜け始めた後で、本当に最低限の、わずかな路だけ確保した。傍にある予備の魔石と繋げたんだ」
 彼は右胸に手をやった。中の形を教えるように、指先でいびつな円を描き、弾く。
「そうすれば、なんとか命を繋ぎとめることができる。予備の石を中継にして、動かせないが魂も消えゆかない程度の循環を続けさせる。すると、霧は消えるがサフィ自身は仮死のまま生き続けるという算段だ」
 語る声は平穏で頬も薄く笑っている。だが、目からは笑みが失せていた。
「何かあった時だけ蘇生して使おうとしたんだろうな。サフィが命令を拒むことのないように、恐怖心を植えつけて支配下に置こうとした。……恐ろしい娘だよ。本当に、生き人形にしてしまうつもりだったらしい」
 声も余韻も溶けて消え、残されたのは重い沈黙。カリアラは申し訳なく下を向いた。ビジスの喉からくくっと低い音が漏れる。
「しかし、なァ。さすがにその予備の魔石にわしの魂が入っているとは想像もせんかったらしい。そりゃ思いもせんか。だがおかげさまで、逆にわしがこの体の支配権を掴んだというわけだ」
 浮かぶのはどこか無邪気な笑顔。だが端々に年寄りめいた色がちらつき、元の顔が若いにも関わらず幼さは浮かばない。今にも皺が見え隠れしそうな、奇妙な表情。カリアラは見知った顔に起こる違和感を眺めつつ、不思議な顔で問いかける。
「ビジスはなんでそこにいるんだ?」
「ま、最後の足掻きとでも言っておこうか。いやわしももう歳だ、死を怖れたわけではないが、あまりにも唐突だった。色々とやり残したことが多すぎたから、無理をして残ったのだよ。この体に居候させてもらってな」
 サフィギシルの手を握る。ゆっくりとそれを開く。ビジスは体の調子を調べるように指先を動かした。つられて同じ動作をするカリアラに、かすかな笑みをもらして告げる。
「今日は久しぶりに思う存分動けそうだ。サフィめ、家の中を好き勝手にいじっておる。封印はともかく、照明の動かし方が違いすぎてこの体では使えやしない。その上人魚だのピラニアだので住人を増やしおって、夜中にしか動けなかった」
 窓からは正午の陽が差し込んでいる。カリアラは手を振って、現れた影を確かめた。黒く伸びる自分と同じ形のもの。ビジスは、揺らしては遊ぶ彼に構わず話を変える。
「しかし、わしの目がないうちにとんでもない相手に惚れたものだ。なぁサフィ?」
 息子の潜む左胸をノックする。カリアラは目を丸くした。
「サフィ、話聞こえるのか?」
「さっきからずっと聞こえておるだろうよ。こいつの中で、わしはお前たちの声を聞いていた」
「じゃあここで喋っても大丈夫か? サフィ、聞こえるか? 大丈夫か生きてるのか、シラがっ」
 カリアラはビジスの示す左胸に話しかけるが、あせるあまりに言葉が絡んで息を詰める。落ちつくためにつばを飲んで、言った。
「ごめんな」
 申し訳なく思う顔。その丸い瞳に曇りはなく、カリアラは言うべきことをひとつずつ確かめるように、はっきりと口を動かす。
「おれ、シラのこと、止められなかった。戻ってきたけど、間に合わなかった。止めなきゃいけなかったのに、できなかったんだ。ごめん。ごめんな」
 まっすぐに彼の居所を見つめる。だが続くのは沈黙ばかり。
「サフィ」
 ビジスが左胸を小突くが反応はなく、父親のため息が不毛な時間の終わりを告げた。
「……すまんな。耳をふさいでしまったようだ。奥深くに潜り込んだよ」
「そうか」
 落ち込んだカリアラに、ビジスは息子の代わりに話しかける。
「人魚を止めに戻ってきたのか」
 カリアラは小さくうなずく。静かな声が問いを重ねる。
「何故、止めにきた?」
 戸惑うような間があった。カリアラは自分の中で解答を探るように視線を浮かし、おぼろげな視線でビジスを見ながらたどたどしく答えていく。
「シラは人魚で、人間を喰う。でも今はシラも人間で、人間は人間を食べなくて、サフィも人間で、だから喰っちゃだめで……。あと、だましたらだまされたほうはすごく怒るから、サフィもそうなったらいけないと思った。だからだ」
 のろのろとした回答を終え、不安な顔で相手をうかがう。
 ビジスは穏やかに顔をほころばせた。
「なかなか順調なようだ」
「なにがだ?」
 カリアラは喜んでもいいものか迷うように彼を見る。
「人間に近づいてきているということさ。さて、話が長くなった。そろそろ準備に取かかるか」
「準備?」
 ビジスは傷の走る腹を指す。
「復讐に燃える人魚姫を、連れ戻しに行かねばならん。そうだろう? このままだと国王が狩られてしまう」
 ハッと息を呑む音。カリアラは急に落ち着きなく体を揺らし、おろおろと部屋を見回す。
「そうだ、止めなきゃだめだ。早く行こう! シラはどこに行ったんだ!?」
「まあそう急くな。大丈夫、すぐに殺しはしないだろう。まずはこの体を直さないとろくに動くこともできん……よし、そろそろ魔力も戻ってきたな」
 ビジスは寄りかかっていたソファを離れる。だが途端に膝を落として床に崩れた。苛立たしげに舌を打つ。
「馬鹿が」
 呟きは忌々しく濁っている。カリアラは彼の傍に座りこみ、心配そうに顔を覗いた。
「大丈夫か?」
 ビジスは青ざめた肌を隠すようにうつむいて、頭を抱える。
「……すまんが、肩を貸してくれんか。少々つらい」
「うん」
 両手を差し出したカリアラにもたれかかり、ビジスはわずかによろけながら廊下へと歩きだした。疲れの滲む声で言う。
「カリアラ、サフィが戻ったら伝えておいてくれ。あんな封印を続けていたら、お前の体はもう何年も持たないとな」
 目は合わない。カリアラは前方を向いてうなずく。
「わかった」
 そして歩きづらさに苦労しつつ、慎重に足を進めた。
 ビジスは低く喉の奥で笑みを鳴らす。口端を上げて呟いた。
「……全く、頭の悪い息子を持つと苦労する」
 胸の中の大きな石は、沈黙したままぴくりともしなかった。

※ ※ ※

 足が痛みはじめていた。シラは兵士の話を聞き流しつつ、時期尚早だったかと後悔を始めている。家から、馬車を待たせてある場所までがまず徒歩だった。歩けますかと尋ねられて自信のままに答えた手前、弱音を吐くのは癪に障る。途中からは馬車となるが、明らかに正式ではない入り口から城門を抜けた後は、広い庭をひたすらに歩かされるはめになった。
 城壁の内側をぐるりと廻って到着したのは、城内に続く大階段。シラは新人らしき兵士たちとしばらくそこで待たされる。階段に腰を下ろすと、体はかなり疲れていると嫌でも思い知らされた。気分が悪く体が重い。そして何より足が痛む。
 ――そろそろ“お伺い”の人たちが。警護に。まだ諦めない。案内は僕にと。
 上方から途切れ途切れに話が聞こえる。何気なく見上げると眩暈がした。目に入るのは空ではなく入り口でもなく、整った石段ばかり。今からあれを上がっていかなくてはいけない。思わず段に手をつくが、砂一つ落ちてはいなかった。ざらつきのない滑らかな冷たい表面。もうここでいいからと、シラは段をなでる。
 何かを告げられた、らしい。音量は十分だったのだが、その形はぼやけたまま耳を通り抜けていた。聞き逃したと気づいた時には、付き添っていた兵士たちはどこかへと向かっている。見えたのは踵を返した彼らの背だけで、現状はつかめない。
「歩けますかー?」
 頭の上からのんびりとした声が降った。仰ぎ見ると、若い男が階段を下りてくるところである。
「歩けますか? 足、大丈夫ですか?」
 近づいてくる顔は微笑みこそしているものの、どことなく疲労が透けて見える。つくろうように緩められた口許も、下がった眉に無効化されて、伝わるのは優しさではなく謝罪や同情ばかりだった。今にも「すみません」と口にしそうな弱い顔。
「少し痛いです。まだ慣れていないもので」
「ああ、そうですよね。すみません無理をさせてしまって。あの……上がれますか?」
 彼は心配そうに顔を覗く。見るからに人の善さそうな人間だった。不審げに眺めると、慌てて名を口にする。
「ええと、僕はブライ・モリアと申します。今から、国王陛下の所までご案内します」
「さっきの方たちは、どこへ?」
「あ、別の仕事に。お昼を過ぎるとちょっと忙しくなるんですよ。あの、ここ上がれます?」
 訴える目で痛む足に手をやると、彼は弱る眉をますます下げた。
「ああ、どうしましょうか。いつまでもここで待って頂くわけにもいかないんですよ。もう到着の知らせが行ったので、待ちきれなくなった陛下がここに走って来かねなくて」
「ここでお会いするわけには?」
「いや、あのさすがにそれは。というかここにもそろそろ“お伺い”の人たちがやってくるので……」
「お伺い?」
 思わず聞くが、あ。という声と共に返ったのは別の話題に逸れた表情。のんきな言葉がそれに続く。
「そうだ、おんぶしてあげましょうか」
「は?」
 突飛な案にうわべも何も通り越した声が出た。ブライは構わず策を語る。
「いえ、僕だけだと非力ですので、上にいる衛兵さんに協力してもらって。ええと、三人居れば大丈夫ですよね。一人が背負って、側面を二人が固めて」
「歩きます」
 シラは反射的に断った。意外そうな彼の視線を払い、できるだけ痛みを悟られないよう平然と立ち上がる。
「大丈夫です」
「そうですか? それでは行きましょうか。結構歩きますが、つらくなったら言って下さい。屈強な人はたくさんいるので」
「結構です」
 げんなりと言った後で、シラは疲労のあまりに猫かぶりを忘れていることに気づく。青ざめてブライを探るが、傍に立つ彼の顔に怪訝そうな色はない。シラの注目に気づき、ふと見返す。
「抱っこの方が良かったですか?」
「……いえ。行きましょう」
 不安を感じた自分自身を恥じながら、シラは痛む足を騙し騙し動かして段を踏みしめていく。虚勢を張って外側だけでも懸命に取繕うが、意識は逆にとりとめなく分散した。ただでさえ長い階段が、どこまでも広がっていきそうになる。息が上がる。
 そんな状態だからこそ、大勢の声が聞こえた時も幻聴かと思ってしまった。そうではないと知らせたのは、確かに聞こえた知人の声。
「落ちついて! 落ちついて下さい!」
「会わせろって言ってんだよ! このままじゃどうなることか!」
「そうそう、こっちは夜も眠れねぇんだぞー! 国王陛下に面会を希望する!!」
「あたしたちはあんたらの顔見にきてるわけじゃないんだよ!」
「皆さん落ちついて下さい、暴力はいけません! リドーも怒らないで!」
 騒がしい怒声を縫って響くのは、ペシフィロの声だった。
「あれは?」
 もめごとは死角にあたる建物の側面で行われているらしく、苛立ちあらわな兵士の声もそのあたりから聞こえてくる。ブライは言いづらそうに説明した。
「その……ここ最近、人事がかなり混乱しまして。それで、不当な免職処分を受けた人も、たくさん。その方々が陛下に会わせろと騒ぐんです」
「毎日、ですか?」
「はあ。いえ、全員が揃って来るわけではなくて、顔ぶれは違うんですけど。ああでも、毎日来る方もいらっしゃいますし、ペシフィロ先生もほぼ日参で止めに来てくれますが。ええと、ペシフィロさんのことはご存知なんですよね?」
「いえ? 私、人間の方に会ったことはほとんどなくて……」
 ブライは不思議そうに首をかしげる。だが深くは気にとめないのか、話を続けた。
「それでですね、あー……なんていいますか。元々は同じ職場の者だったわけですから、ちょっと止めにくいというか、まあ、色々とあって。なので、市街の警備担当だった者を置いて、説得して頂いているんです」
 遠くから、その元警備担当者が退職者たちに手ひどく中傷されているのが聞こえてくる。兵士もまた怒りからかきつく言い返すために、飛び交う言葉は既に罵倒となっていた。
「あの、どうして門の中に入れるんですか? こういうことを防ぐための城壁なのでは……」
「あー、いや、なんというか。あの人たちが悪いわけじゃないんですよ。私も、いつどうなるか」
 顔に浮かぶ疲労が濃くなる。ブライは今にも目にくまが現れそうな様相で、ため息をついた。
「本当に。彼らはいい人ばかりなんです」
 答えにはなっていない言葉を最後に、後は何も言わなくなる。賑やかな“お伺い”騒ぎの声が沈黙を埋めていく。それに背を押されるように、二人は段を上っていった。


 王城の中は広く高くすべてが大きい。シラは壁のごとくに視界をふさぐ巨大なガラスの水槽に、思わず息まで止めてしまった。疑いからまばたきするが、目の前の景色は変わらず動きもしない。
「ここの工事、この間やっと終わったんですよ」
 水槽は部屋と通路の隅に居座り、水路のように長く続く。厚いガラスは一定の幅で接続されていて、融合の痕跡を解りやすく見せていた。ところどころに沫を吹く不思議な箱が置かれている。
「すごいでしょう。いやー、大変でした」
 満たされた水の中では、色鮮やかな魚たちが好き勝手に泳いでいる。ボウクの川でいつも見ていた懐かしい種ばかりだった。赤いあれはカリアラさんが好きだった、ひょろ長いあれは味が悪く……と、シラはつい思い出に浸ってしまう。
「専門の方に、熱帯島から捕ってきてもらったそうです。知っている魚、います?」
「ええ。でもどうしてこんな低いところに? 水も少ないですね」
 観賞用ということであれば、人の目と同じ位置に設置する必要があるだろう。だが水槽は床に直に据えられていて、せいぜいが胸元に届く程度のものだった。水面はさらに低く、見下ろすか、屈んで頭を下げなければ中身はうまく目に入らない。そもそも、上面は板でふたをしてあるのだ。飛び出す魚がいるためかもしれないが、観賞には向いていない。
「いっぱいまで水を入れると、動いた時にあふれてしまうでしょう。あ、あっちです」
「はぁ」
 当たり前のように言われ、シラは意味がわからないまま歩きだした。幅広い廊下の半分を占領しつつ、水槽はまだまだ続く。
「この水槽、どこまであるんですか?」
 何気なく尋ねると、ブライもまた何気なくそれに答えた。
「陛下のご自室まで。この水路はその部屋にある大水槽と繋がっておりまして、そちらはもっと大きくて快適に……ということだったんですが、今となっては逆に邪魔になりますよねぇ」
 ブライは気苦労を浮かべつつ、参ったように頭を掻く。
「またすぐに取り壊すとか言わないといいんですが。魚の方もとばっちりを受けますし」
「はぁ」
 大変ですね、と他人事のように言おうとして気がついた。
 彼が何を言っているのか。この水槽が何のために作られたのか。

 人魚をここで飼うためだ。

 思考も何も停止した。一瞬後、シラは身を焼かれるような屈辱に爪先から頭頂まで支配される。罵倒でも非難でも出しきれない憎悪と嫌悪。
「どうしました? 足、痛みます?」
 振り向く彼にシラはとっさに笑顔を浮かべた。
「大丈夫です」
 引きつりはしない。不自然さもない。そのかわり、ほのかな香りが滲みはじめる。
 ブライはまたのんびりと歩きだした。シラは微笑みを浮かべたままそれに続く。足取りは穏やかだが内面はそうもいかない。凶暴に蠢く憎しみを抑えながら、彼女はこれからの策を練る。身の底で渦巻く熱とは違う、冷ややかな理知の思考。感情だけでは何もできないことを彼女はよく知っていた。口許に笑みを浮かべ、そっとブライの腕を取る。わざとよろけて体を預けた。
「すみません……足が、つらくて。支えて頂けますか?」
 有無を言わさず体の線を押し付ける。ブライは身を固くして、ぎこちなくうなずいた。不自然な動きで歩き始める。
 シラは鮮やかな笑みを浮かべた。まるで花が咲いたように華やぐ気色。甘い匂いが強く漂う。人を惑わす毒の香り。
 ブライの歩みが危うくなった。シラはそれを逆に支えながら、水槽を沿っていく。
「ああ。でも、やっぱり足が痛むんですね」
 舌が回らなくなってきている。シラは甘えるように身を寄せる。
「痛むのは足の裏?」
「ええ」
 嘘をつく。本当に痛いのは、裂かれた肉と義足との接合部。体重がかかる度に、腿のあたりは彼女の体の不自然さを主張した。
「いっしょだ……昔読んだ本の人魚は、針を刺されるように痛む足で、懸命に……」
 彼の頭に浮かぶのはおとぎ話の人魚だろう。それを思うとどす黒い感情がざわめくが、シラは穏やかな態度を装う。
 感情を思うがままにぶつけたところで、彼らには何も伝わらない。わからなくていい。そのかわりに恐怖と絶望を味わえばいいのだ。騙されたと気づいた時にはもう毒に侵されている。後は、体が溶けていくのを見ながら、狂うように死に行くだけだ。
 シラは隣を走る水槽に目をやった。規模の割には泳いでいる熱帯魚の数は少ない。ご丁寧に、“お友達”まで用意してくれていたらしい。わざわざ遠い熱帯島にまで手を伸ばして。
 すべて人魚を飼う為のものだったのだ。大掛かりな工事を起こし、城内を行き来できる特製の水槽を用意して、重いふたで閉じ込めて。そしていつもは自室の水槽で、生活のすべてを観賞できるようにする。
 殺意を堪え、微笑みを浮かべて国王の元へ行く。足が痛む。不当に斬られた傷の跡が決意を煽る。水槽が壁を抜けて終着地点を示していた。ブライがうつろな声で言う。
「つきました。ここが、国王陛下のお部屋です」
 名残惜しそうにシラから離れ、彼は部屋の扉をノックした。
「陛下、人魚の方が」
 いらっしゃいました、と喋り終える前に勢いよく扉が開く。ブライが顔を打って転んだ。シラの視界には鮮やかな黄色が広がる。両手で抱えるほどの花束が、部屋の中から飛び出していた。
「いらっしゃい!!」
 ブライの足を踏みつけて、巨大な花束をよろけながらもなんとか抱え、国王はシラに駆け寄った。抱きつく動きで花束を押しつけて、彼女の手をぎゅっと握る。満面の笑みで見上げる。
「人魚だよね、人魚だったんだよね! ずっと待ってたんだよ!!」
 顔も声も興奮の熱に浮かされたような喜びよう。汗ばんだ手が強く指を握ってくる。シラは憎悪も何もすべて忘れ、ただただぽかんと彼を見つめた。

 無邪気に笑う、十歳ほどの小さな子どもを。


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