第3話「ビジス・ガートン」
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 そのまましばらく五つ子たちにとって至福の時間が訪れた。カリアラが川の中での話などを語って聞かせ、それも終わりかけたころ。唐突にリウレンが声をあげる。
「あ! あ、あの、ちょっと待ってて下さい!」
 彼は二階に駆け上がる。そしてすぐに、小さな丸い水槽を抱いて降りてきた。
 中には二匹の小さな魚。鮮やかな色の長い尾びれが泳ぐたびに揺れている。
「これ! 最近飼い始めた僕らの魚なんです……あの、通訳とか、できませんか?」
「ああそうか! じゃあ、もしかしたらこの『ササミ』と『なんこつ』の考えてることもわかるってことか」
「ちょっと待てその名前」
「わあ、凄いよ!」
 ピィスの言葉を戸惑うことなく打ち消して、兄弟たちは盛り上がる。揃いの顔を期待の色に輝かせ、水槽をカリアラの前に置いた。
「ねね、やってくれる?」
 だがカリアラは困った顔をして、無言のまま水槽に顔を近づける。水面のごく近くまで口を寄せると、喉の奥からかすかな音を出した。物をこすりあわせたような、どこか掠れたような音色。
 魚はびくりと反応し、まるで恐慌を迎えたように、水槽の中を狂ったように泳ぎだした。
「だめだ」
 カリアラは申し訳なさそうに言う。
「ごめん、この魚、おれも食べるやつだから。なんか喋ったら逃げるようになってんだ」
「ああ……そうか、捕食」
 ロウレンが納得したようにうなずく。
「そうか、そうだよね。僕らだってオオカミが傍にいるって知ったら逃げようとするもんね」
「うん。それに、こいつらほとんど喋らない。言葉とかないんだ。あっても多分、おれにはわかんねぇ。食べ物と話そうとか思ったことないし」
 熱帯魚はまだ怯えたまま、カリアラから遠く離れてガラスに寄り添っている。カリアラは彼らから身を引いた。リウレンは水槽を部屋の奥へと持っていく。
「うーん、自然だねぇ。あれ。じゃあ君はなんで人間語を話すんだい?」
「え」
 ロウレンは眼鏡をかけ直しつつ質問する。
「だって、カリアラカルスにとったら、人間だってある意味食物扱いだろ? その食べ物になるってことは、僕らがニワトリになろうとするようなものだよね」
 純粋に、疑問を解こうとしている目。同じものがずらりと並び、カリアラを囲っている。
「僕らはニワトリとお話ししようとか思わないし、食べるときも罪悪感とかはもう忘れちゃってる。自然の中だったら余計にこう……食べるのが当たり前だから、何か思ったりしないわけだろ? ええと、あれ、なんか話がずれてきたかな」
 カリアラの目は一応は彼らに向かっている。だがどこか遠くを見つめているような、別の場所に意識が離れたそぞろな表情。
 その口許が、ぴくりと動いた。
「……そう。そうだ。そうなんだ。でも」
「カリアラ君?」
「でも、でもおれ、人間だよな。同じ、なんだよな。だから、だからもう」
「嘘おおお!!」
 うつろな言葉をさえぎるように、絶叫に近いカレンの声が空気を奪う。
「ひっどーい! 騙してたのね!!」
 カリアラがハッと顔をあげた。全員が見つめる先にはげんなりと耳を覆うピィス。そして席を立ち上がり、傷ついたように叫ぶカレンの姿がある。
「嘘つき!」
「ちょ、落ち着いて!」
 ロウレンが抑えようとするのだが、カレンはそれには目もくれず、不機嫌そうなピィスを睨む。ピィスは疲れたように言う。
「だからー。オレがいつ嘘ついたよ。言っとくけどひとっことも言ってないからな」
「だってそんな、全然わかんなかったわよ! そんな、そんなっ」
 なだめる兄の手を払い、カレンはひときわ強く叫んだ。
「あんたが女の子だったなんて!!」
 部屋は途端に静まった。
「……え?」
 ロウレンの口からとても自然な言葉がもれる。全員に見つめられ、ピィスはどこか気まずそうにスカートの端を広げて言った。
「ピィスレーン・ポートラード。立派な女の子の名前だろうが」
 流れるのは気まずい沈黙。それを破ったのは、ラウレンのふきだす音だった。彼はそのまま爆笑に突入し、げらげらと笑いながらカレンを指さす。カレンは怒って睨みつける。
「な、何よ! あんただって間違ってたくせに!」
「っははは、あはは、だってカレン、完璧に口説きにかかっててっはははは」
「ま、僕は薄々感づいてたけどね」
 その隣でルウレンがにやりと笑った。
「だってほら、僕この人と取っ組み合いになったからさ。何となーくそれからね」
「ひっどーい! あ、カリアラ君も知ってたって顔してる!」
「え? みんななんで間違えてたんだ? 匂いでわかるだろ」
 カリアラは逆に尋ねる。ピィスは深くうなずいた。
「そう、知ってたんだよなお前は。というか服装の違いとか判別してないよな。今日迎えに行った時も、全然何も言わなかったし」
「色が違うよな」
「そこじゃねぇよ」
 ピィスは呆れたように笑う。
「あー、そうか、そういえば女の子だねぇ」
「こんな格好が似合う男がいたら逆に嫌だもんねー」
 兄弟たちものんびりと笑いだす。部屋の空気はなごやかに流れ始めた。ただカレンを除いては。
「何よ何よみんなして! 知ってたなら言ってくれれば良かったのに! 騙すなんて最ッ低!!」
 そう叫んで二階へと駆け上がる。残された兄弟は、口々に謝った。
「ごめんね、あいつが勝手に勘違いしてたのにさ」
「いつもああなんだよ。ちゃんと周りが見えなくなるっていうか」
「よく考えたら凄く失礼だよね。ごめんなさい」
「いや、オレも間違われるのが当たり前になってるし。そろそろ改めなきゃとは思ってんだけどさ。……どうした?」
 カリアラはぼんやりと、どこか遠くを見つめている。ロウレンが不安そうに覗き込むが、それを待たず振り切るように席を立った。
「おれ、帰る」
 不安そうな顔で言う。ごめん、と全員を見て言った。そして外に向けて走り出す。
「え、ちょっとカリアラ君!?」
「帰るってお前、道わかるのか!? 待てよおい!」
 カリアラは振り返り、立ちかけたピィスに叫ぶ。
「ピィスは来るな!」
 ピィスは驚いてまた椅子に腰を落とした。カリアラは気まずそうに顔をしかめ、背を向ける。
「大丈夫、帰れるから」
 そう言うと同時、彼は店を出ていった。窓の向こうで道を戻っていくのが見える。それもすぐに見えなくなって、カリアラは本当に一人で帰っていってしまった。
「来るなって……」
 不可解そうにピィスが呟く。
 続くように、兄弟たちが揃った動きで首をかしげた。

※ ※ ※

 昼食の準備をする時間になったので、サフィギシルは手を止めて作業室を出た。カリアラたちは無事に街を通過できているだろうか。そう考えたところで、久々に見た『正装』のピィスが頭に浮かんでなんとも言えない気持ちになる。
 本人はあくまでも仮装気分で楽しんでいるらしい。いきなりそんな格好をして驚かすのが好きなのだ。彼女の性別から考えると明らかに間違っているが、言ったところで意味はない。カリアラも、一応はピィスが持参した別の髪に替えておいたがどうだろうか。サフィギシルには街のことなどわからない。
 どの食材が残っていたかと考えながら居間に入ると、音楽のような声。
「サフィさん」
「え?」
 見ると、シラがソファに腰かけたままにっこりと手招きしている。その表情はいつも以上に華やかで、サフィギシルは困惑しつつも素直に彼女の隣に座る。すると、軽やかな熱がサフィギシルの頬をくすぐった。驚いて向き直れば鼻先に彼女の微笑み。触れてもいないのに体温を感じる距離で、シラはくすくすと笑みを転がしている。
「ど、どうしたの。なんか、嬉しそう、だ、けど」
 息が相手にかかるのを意識して途切れがちに尋ねると、シラは指をサフィギシルの頬に添えた。
「ええ。思いついたんです。ここをもっとよくする方法」
 シラは笑う。まるで大輪の花が咲いたようで、サフィギシルは目がくらむ。幻を見せられている気がして執拗にまばたきをするが、いくら繰り返しても彼女の笑顔は消えていかない。透き通る水の瞳で、サフィギシルを、見ている。サフィギシルは意識も視線も知らずと彼女に釘付けられた。
 膝が触れ合う。いつの間にか、シラがにじり寄ってきている。彼女の足はそのまま彼の内へと近づく。こわばる腕を暖かい手のひらがなでていく。
「考えたんです。ここはどうして時間が止まっているようなのかって。どうすればいいのか考えて、ひとつ、いいことを思いついたんです。素敵なこと」
「いい、こと?」
 ええ。とシラは囁く。甘い声は彼を呼び寄せるようだった。サフィギシルは、ためらいながらも手を伸ばす。それを受け止めて、シラは彼に密着した。胸の中で見上げる無邪気な微笑み。サフィギシルはたまらず彼女を抱きしめた。自覚はない。ただ突き上げる衝動のままに寄り添う彼女の背を抱く。答えるように、シラの手がサフィギシルの腰に回る。呼吸すら読める距離。目と目が優しく交じりあう。
「楽しいこと、しましょうか」
 シラは笑う。ふわりといい香りがする。
 耳の奥に鼓動を感じる。それほどまでに心臓は脈打っている。視界が霞むのは動揺しすぎているためだろうか。サフィギシルは頭の芯が熱く白んでいくのを感じた。シラは笑う。ねえ、と囁く。その形のまま、くちびるが近づいた。サフィギシルは、ぎこちなく彼女の髪に触れる。シラの手が服をめくり、ひやりとした空気を感じた。息が触れる。目を伏せる。
 そして二人のくちびるが重なりそうになった瞬間。
 サフィギシルは脇腹に熱い痛みを感じた。混乱のままわけもわからず叫んだところで体はソファに倒れ込む。激痛と熱の中に硬質な鋭さを感じて、おそるおそる目をやった。
 刺さっていたのは鉄ばさみ。刃は完全に体の中に沈んでいる。それを持つのは、シラの右手。
 はさみが抜かれる。ひやりとする刃が皮膚にあてがわれたかと思うと、迷いもなく容赦もなく彼女は彼の身を切った。
 絶叫も痛覚も意識すらもばらばらに限界を主張する。物を上手くとらえられない彼の視界で、シラは顔色一つ変えず、無言ではさみを操っている。耳に響く嫌な音。そのたびにまた新たな絶叫がサフィギシルの喉を裂いた。
 一体何が起こっているのかわからない。サフィギシルは涙に埋もれる瞳で彼女を見上げる。シラは笑みの失せた顔で告げた。
「これが私たち人魚の『狩り』です」
 落ち着いた声。冷酷さはない。暖かさもない。当たり前のことを語るような平常な喋り方。
「ねぇサフィさん。これはただの自然の一つ。この場所よりもずっと自然」
 はさみの置かれるかすかな金音。シラの手が傷の中に入れられた。のけぞるサフィギシルの悲鳴にも戸惑うことなく体内を探っていく。その指先が、硬いものに触れて止まった。
「そして、あなたの体よりも」
 ヂッ、と奇妙な音がした。その途端に彼の体は重く沈む。背は内部からしっかりソファに押しつけられた。サフィギシルは今までで一番の恐怖を覚えた。……全て知られている。
 彼は重い頭をもたげて傷口を確かめた。切り裂かれた肌の端から白い煙が抜けていく。流れるように消えゆく魔力。
「サフィギシル・ガートンは三年前に死にました」
 シラの手が、彼の頬をそっとなぞった。馬乗りとなり真上から絶望を覗きこむ。
「“魔力なし”だった彼は養父ビジス・ガートンとの諍いの末、失踪。そしてそのまま事故に遭い、二度と帰らぬ人となった。遺骨はアーレルに運ばれて埋葬」
 淡々と続けられる声と同じく、その顔に笑みはない。だが、冷たさもなかった。まるで日常を語るような顔。おそろしく平坦な目が、恐怖に歪む彼を捕らえて離さない。しっかりと見つめあうままに、囁く。
「じゃあ、あなたは一体誰なのかしら」
 シラは鮮やかな笑みを浮かべた。抑えきれなくなったように、くすくすと笑みをもらす。サフィギシルの白い髪を無造作にかきあげた。
「知ってたの。知ってたのよずうっとね。あなたを初めに見た時から。ねぇサフィさん、こうなんでしょう?」
 触れ合うほどに顔を近づけ満面の笑みを見せる。すらすらとよどみなく告げていく。
「ビジス・ガートンは人間の息子を亡くし、代わりに一体の人型細工を作り上げた。息子とまったく同じ顔の、同じ名前の作り物。世間には秘密のままで、友人とその娘にしか会わせなかった、世間知らずの後継者。……ねぇ」
 熱をもった唇が、耳元で甘く囁く。彼の心を惑わした、音楽のような声音。
「あなたも『作品』なんでしょう?」
 サフィギシルは敗北をあらわすように、固く、目を閉じた。


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