第3話「ビジス・ガートン」
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「それに、この体、シラと同じだ」
 扉の奥から聞こえた言葉に、サフィギシルは足を止めた。
 逡巡して一歩退き、彼らの会話に耳を澄ます。
「おれ、ずっと同じになりたかったんだ。シラはずっと助けてくれた。いろんなこと教えてくれた。シラがいなきゃおれ、今まで生きてこれなかった。でもおれ、魚のままじゃシラになんにもできなかった」
 向こう側で、カリアラはたどたどしく言葉を重ねる。一言ずつ考えて、合う言葉をひねり出しているような、つたないけれど懸命な喋り方。
「だからおれ、人間がいい。今はシラも人間だ。おれも人間になれば、これからはずっといっしょだろ?」
 ピィスの返事は聞こえない。感じたのはかすかな呟きの気配だけ。
「うん。そうだ」
 カリアラは相づちを打つ。ピィスはさらに、ぽつぽつとか弱い声で何か喋っているようだ。サフィギシルは聞き取ることを諦めて、踵を返す。
 散らかる道具を慎重に避けながら、サフィギシルはピィスがカリアラを運んできた時のことを思い出す。ずぶ濡れになって、カリアラを引きずって、必死にサフィギシルの名を連呼していた。サフィギシルはタグで霧が解けた途端、尋常ではない声の様子に思わず飛び出してしまったほどだ。
 そんな彼の姿を見て、一番驚いたのはまぎれもないピィスだった。まるで幽霊でも見るような目をした後で、あからさまに我に返って、気遣うようにごまかしたあの表情。それを思い出すと、サフィギシルはみぞおちのあたりによどみが溜まっていくのを感じた。
 ピィスはよく泣きよく笑う。建前のように掲げられる屈折は、ひどく淡い。突っぱねていてもその奥から本心が嫌というほど見えてしまう。苦手だ。近寄って欲しくない。
 カリアラはもっと苦手だ。透明な瞳でまっすぐに見つめてくる。動物らしい彼の目は、逃げても逃げても追いかけてくるような気がした。サフィギシルはどうしても、同じように見返すことができない。
 それは自分の足場が恐ろしく不安定なためなのだと、サフィギシルは気づいている。義父であり師であったビジスが死んでから、ずっとこうだ。まともに彼らの目を見ることができない。その濁りのないまなざしに負けて、抱える秘密も何もかも吐き出してしまいそうになる。
 サフィギシルは彼らと深く関わるたびに、自分の弱さを悲しいほどに思い知っていた。
 関わりたくない。その目で見つめられたくない。だから彼は目をそらす。
 サフィギシルは、いつも通り沈む想いにため息をつかないよう口をつぐむ。廊下へのドアに手をかけようとして、思い出した。机に戻り、作りかけで放置していたタグを取る。奥の部屋ではまだ話し声がする。サフィギシルはその音から逃げるように、足早に部屋を出た。
 そっとドアを閉めた途端、二人が今いる部屋のことを思い出して何とも言えない気持ちになる。あそこはすべての秘密の始まりの場所。ビジスがこの世を去った部屋だ。遺体を見つけたピィスにとっては、一番近寄りたくない場所だろう。そこで、たった一人きりでカリアラの目覚めを待っていたのか。
「…………」
 罪悪感は言葉にならない。本人のいない場所ですら、たった一言ごめんと謝ることもできない。
 自分自身の気持ちの歪みに胃のあたりを重くしつつ、サフィギシルは居間に戻る。



 部屋に入ると、シラが一人不安そうに待っていた。サフィギシルは彼女を安心させるように笑う。シラはほっと息をついた。
「よかった……」
「行かなくていいの?」
 シラはうなずく。初めは、心配そうに修理の傍についていた。だが途中からはずっとここで待っている。
 ピィスを心配してのことか、とサフィギシルは考えた。
 シラはいつものように青いソファに腰掛けている。サフィギシルが修理を終えて戻ってきた時、彼女の隣にはピィスがいた。小さな体を縮ませて、毛布の中で震えるピィスをシラは優しく励ましていた。まるで子供を安心させる母のように、暖かく。
 今は空いたその場所を、シラがそっと手で示した。サフィギシルは吸い寄せられるように近づいて、なんとなく座ってしまう。触れた布地はほんのりと暖かかった。すぐ側のシラの纏う雰囲気は、それよりもまだ穏やかで暖かい。
 サフィギシルは大きな息を一つついた。疲れよりも安堵から来るものだった。
「ありがとうございました」
「どういたしまして。……もう駄目かとも思ったけど、凄いね。あの生命力」
 緊張して身じろぎすると、肩が触れあいますます落ち着かなくなってしまう。ちらりと見ると、シラは優しく微笑んでいる。綺麗だ、と思った。 
 人型細工は大抵美形に作られる。より人間らしさを求めたビジスは違ったが、理想の姿を求めるあまり、いかにも人形のような顔ばかり作る魔術技師は数知れない。そればかり目指した末に、究極美に限りなく近い顔型を生んだ者もいる。
 シラは、それに近い美しさを自然に生まれ持っている。人魚はみんなそうなのだろうか。おとぎ話や伝説からそのまま抜け出してきたように、彼女の外見は綻びなく華やいでいる。そして触れるだけでぬくもるような暖かな内面が、その表情に人間らしさを添えていた。
 冷たく近寄りがたいとされる技師作品たちとは違い、どこか気さくな親しみが感じられる。空想じみた人魚という生き物が、確かに今ここに生きているのだと、サフィギシルはどこか不思議な気持ちになる。
 そしてふと思い出した。
「そういえば」
 緊張からうわずる声を、抑えながら話しだす。
「修理してる時、あいつの記憶みたいなのが見えたんだ」
 シラはぴくりと反応した。サフィギシルはその意味も考えず、ただ口早になり過ぎないよう気をつけながら話を続ける。
「夢みたいなものかもしれない。よく解らないけど、何回も同じ景色がこっちの頭に浮かぶんだ。赤色の揺れる卵。あれはカリアラカルスのかな」
「……ええ。丸くて、水草に産みつけられた……たくさんあったでしょう」
「うん。多産なんだね。それで、記憶の中のあいつはその卵の中に潜みながら、前を見てる。視線の先には死んだ魚と君がいる。君はこっちに手を伸ばす。そこでおしまい。ずっとそれの繰り返しだ」
 サフィギシルはふとシラを窺った。彼女は静かに目を伏せている。どこか陰りを含んだ表情。
「……シラ?」
 呼びかけると彼を見つめる。困ったように微笑みながら、頬にほのかな色を乗せた。
「いえ、少し懐かしくて。きっと、初めて逢った時のことですね」
 サフィギシルはかすかに安堵を感じつつ、その表情に逆に照れて頬をゆるめる。
「そっか。じゃあその時からずっと一緒なんだ? 育ててくれたって言ってたよ」
「ええ。カリアラカルスは強い魚ですが、仔魚のころはその力はありません。魔力が多いために、他の生き物たちから格好の餌として狙われてしまうんです。だから、大きくなるまで……と思いながら、お互い別れられなくなって、そのまま」
「あいつの方は人間になってまで追いかけて」
「ええ。……ずっと一緒にいようって、約束したんです」
 シラの顔に複雑なものがよぎる。だがそれは一瞬ももたないまま、いつもの笑顔に取って代わった。
「ありがとうございます。サフィさんがいなかったら、私も彼もどうなっていたか解りません」
「あ、いや。別に……うん」
 輝くような彼女の笑顔と感謝の言葉に、サフィギシルは顔が勝手に笑ってしまう。ごまかしたくて目をそらし、意味もなく手の中のタグをもてあそんだ。
「それで……」
 口を開くがその続きは消えてしまう。シラは目を廊下に向けて、何も言わずそのまま駆けて行ってしまった。サフィギシルはぽかんとしてそれを見送る。一体何を言いかけたのかも忘れてしまい、ただ廊下の奥を見た。
 ドアの開く音。ピィスが作業場から出て、シラと一言二言交わす。シラは飛び込む勢いで作業室に姿を消した。ピィスは毛布を畳みながら居間に向かって歩いてくる。サフィギシルの視線に気づいたようで、気まずげな顔をした。サフィギシルはソファを立ち、テーブルの上の袋を取る。開け放していたドアからピィスが入り、畳んだ毛布を両手で差し出す。
「ありがとう」
 声が少し枯れていた。目も赤くなっている。サフィギシルはそれを直視しないよう気をつけながら、無言で毛布を受け取った。代わりにその袋を渡す。
「まだ乾ききってないから、帰って干しとけ」
「うん」
 川に落ちて濡れてしまった服だった。ピィスは今はこの家の服を着ている。多種多様な作品たちに着せるため、衣装類はは嫌というほど置いてあるのだ。
「もうそろそろ、ペシフさんも来るだろ」
「うん」
 ピィスは食卓の椅子を引いて座った。もう、夜も遅い。あの心配性の父親のことだ、不安そうに尋ねてくるのは間違いない。問題はそれがいつになるかだが。
 封印の中の家に、外の音は聞こえてこない。静けさが居心地の悪さにとどめをさす。
 会話はなく、ピィスの表情は暗いまま。サフィギシルは自分も同じような顔をしている気がして、また一人ソファに座る。
「サフィ」
 背後ろからどこか虚ろに響く声。
「なんだよ」
 振り返らずに答えた声は、やはりどこか同じような音だった。
 耐え難い状況に苛立ちを覚えつつ、サフィギシルは作りかけのタグを手に乗せる。続く言葉を待ちながら、呪文を使わずに魔力を込めて、術が上手く入るよう板の調子を整えた。
「……髪、短いのも結構似合うな」
「どうも」
 シラが切った白い髪。ピィスの視線がそこに集中しているようで、うなじの辺りにぴりぴりとしたむずがゆさを感じる。胃が重い。
 タグは魔力を浴びて輝く。青いそれが鋼の中に吸い込まれ、完全に消えたあたり。ピィスがぼそりと呟くように、抑揚のない声で言った。
「お前、生きてるよな」
 手が止まる。サフィギシルは見張る目をタグに向け、握りしめた。
 ピィスが引きつった声で笑う。
「いや、冗談冗談。……ほら、最近お前ちょっと顔色悪いしさ。な」
 サフィギシルは身動きの取れないままに、うわずるピィスの声を聞く。何か言葉を返さなくては。そう思うが声にはならず、時間だけが過ぎていく。たっぷりとした沈黙の後、ピィスの声が部屋に響いた。
「……なんで、何も言わねーんだよ」
 体は勝手にびくりと揺れる。ピィスはそれに背中を押されたように喋りだす。
「なんで黙ってんだよ」
 サフィギシルは答えない。口を開くことすらできない。
「何があったんだよ。オレが帰った時は爺さん元気だったじゃねーか。ちょっと風邪みたいだなって、明日はずっと大人しく寝てるって言ってたけど! でもまだ全然元気だったよな!?」
 ピィスの声は感情に煽られて荒れていく。
「丸一日と二晩。オレが帰った後から大雨の日挟んで次の朝まで。その間何があったんだよ。何で爺さん死んでたんだよ。なんで……っ」
 感情が上り詰めたゆえの沈黙。続いたのは、泣きそうな声。
「なんでお前、その横で倒れてたんだよ……」
 うなだれているのだろうと思った。目に見えるようだった。
「なんでそのまま、四日も目ぇ覚まさなかったんだよ……」
 ピィスは弱々しく続ける。
「死んだんだと思ったよ。呼んでも揺すっても起きなくてさ、もう駄目だと思ったよ。親父からお前が目ぇ覚ましたって聞いて、オレ、すっげー嬉しかったのに。なのに、なんで家に入れないようにして、こそこそと隠れたりするんだよ」
 追求はさらに続く。サフィギシルは何も言えず体を固くしているだけ。
「なんか知ってるからじゃねーの。爺さんがなんで死んだのか、知ってるからここに隠れてるんじゃねぇの。なあ、なんで急にカリアラとか、シラの足とか凄いもん作れるようになったんだよ。おかしいだろ、変じゃねーか。だってお前」
「違う!」
 言葉は思わず口からこぼれた。叫ぼうとしたわけではないのに、気まずいほどの大きな声でピィスの言葉を止めてしまう。サフィギシルは振り向けない。続く言葉も見つからない。ただ黙り込んでしまうだけ。
「……否定するってことは、どっか後ろめたいことがあるからじゃねーのかよ」
 静かな声に、またしても体がぴくりと反応する。
「オレ、まだ何も言ってねぇのに。何が違うんだよ。言ってみろよ。こっち見て言ってみろよ!」
 怒声の後は、恐ろしく静かな沈黙。長い長い、無為の時間。
 その空気に耐えきれず、サフィギシルはそっと振り向く。
 ピィスは泣きそうな顔をしていた。目を逸らす。真正面から見られない。
「なぁ」
 弱々しい声を重ねてピィスは続ける。
「違うんなら違うって、ちゃんと言えばいいだろ。言ってくれよ……爺さんが死んだのは、ただ病気だったからって。何も問題ないんだって。説明してくれよ……何があったか、知ってんだろ」
 ピィスは椅子の背にもたれかかり、青ざめて目を閉じた。サフィギシルは言葉をかける。
「知らない」
 言いながら、頼りない声だと思った。説得力が感じられない。サフィギシルはソファに座り直しながら、それでも同じことを言った。
「知らないんだよ」
 部屋の空気がうなるような音を立てる。ペシフィロが自身の魔術で封印を解いたのだ。玄関のベルが鳴り、返事を待たずにそのまま中に入ってくる。
「あの、ピィスが……ああ、やはり」
 ペシフィロは不安そうに見せた顔をやわらげた。だがそれも、部屋の空気に気圧されたように弱る。遠慮がちに口を開いた。
「どうかしたんですか? 何か……」
「別に。これ持って。帰ろう」
 ピィスは袋を渡して席を立つ。服の違いに戸惑う父を無視しつつ、最後にひとつ念を押した。
「また来るからな。嫌だって言っても絶対に来るからな」
 その手には古いタグ。紐の切れた、使い古しの年代物。
 サフィギシルは未完成のタグを握りしめ、何も言わず目を伏せた。
 ピィスは部屋を去ろうとして、くしゃみをする。サフィギシルはハッとそちらを向いた。顔をあげたピィスと目が合う。
 ピィスは何か言いたげな、哀しそうな顔をして部屋を出る。
「では、あの、ご迷惑をおかけしました」
 ペシフィロが困惑したままそれに続いた。



 霧がまた戻されたのを気配で感じ、サフィギシルは深いため息をつく。ソファに体を沈めると、タグを投げて両手で顔を覆い隠した。彼は弱りきっていた。緊張から開放されて、どうしていいかわからない。思わず弱音を吐きそうになる。
 もういっそ、すべてを晒してしまいたいとすら思う。実行しようとした途端、その気が消えてしまうのはわかっていたが、言ってしまえば楽になるかもしれなかった。

 本当に何も覚えていないんだ、と。大雨の日の前夜から、ビジスが死んだ四日後に目を覚ますまで、まったく記憶がないのだと。嘘ではなく本当に何ひとつ思い出すことができないのだ。
 目覚めた後、強い魔力が自分の中に生まれていた理由もわからない。知識が次々頭に浮かぶ原理も、ビジスがどうして急に死んでいたのかも、その記憶の欠片すら掴めない。
 そしてビジスが死んだ瞬間、自分は何をしていたのかも。
 サフィギシルは思わず震えた。寒気を感じてそっと自身の腕を抱く。思い出せないのはビジスの死した半年前のことだけではない。彼は度々記憶のとぎれを感じている。昨晩のことにしてもそうだ。動いた記憶も、ランプを出した覚えもない。その時間だけ黒く塗りつぶされたように覆われいて、見ることもかなわない。
 転がっていたランプには、火を入れた痕があった。だが自分には炎を用いる明かりなど必要ないのだ。魔術に頼らずわざわざ火をつけるなんて、そんな、“魔力無し”のようなこと。
「まさか」
 まさか、と口の奥で繰り返す。まさか、まさか、そんなはずは。だが推理は泥の沼に呑まれるように、悪いほうへと落ちていく。
(爺さんは何故死んだ? いつ、どこで、どうやって、)
 続きは思考の中でさえ、はっきりと言葉にするのをためらった。

 誰が、殺した?

 サフィギシルは浮かんだ仮説に恐怖を感じる。誰かに否定してほしい。だが疑惑は揺らぎもせず彼の心を侵食する。冷たい水が底から忍び込むように。
「そんなわけない。そんな、そんな……」
 サフィギシルは手を胸に押し当てた。そのまま強く服を掴む。そしてかすかに呟いた。
「あいつが」
 部屋の中はただ静かに重かった。


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