猫を呼ぶ光と共に、カリアラの意識は絶えていた。覚醒して感じたのは呼びかけるピィスの声と頬を叩く小さな手のひら、そして身を覆いつくす熱い痛み。カリアラは今自分がどこにいるのかすぐには思い出せなかった。それどころかどんな体をしているのかも頭になく、彼はどうして何も見えないのかとただ不思議がる。 まぶたの存在を思い出したのは少しして。ああ人間だったと理解して、カリアラは以前はなかったその機関をゆっくりと動かした。 とん、と軽い感触。それは点のような重みとなって胸元にのしかかる。彼が何だろうと不思議がるのと目を開けたのはほぼ同時。 見えたのは黒い猫。 カリアラは恐怖に凍りつく。殺される、と感じた。 そしてそれは正解だと言わんばかりに鋭い爪が振り上げられて、カリアラの顔面に向かってくる。 それは昔見たのと同じもの。幼い頃見た黒い物体の、光る爪。 記憶と今とが脳裏で合致した瞬間、すべてがぐにゃりと丸く歪んだ。 円周の景色が縮まり猫の爪が拡大される。 こぽ、と頭の奥であぶくのような音がして、視界は水に包まれた。 |
ピィスは避けようとするが逃れきれず、カリアラの傷口からあふれた水は波となって膝に乗った。だが澄んだそれは冷たくも暖かくもなく、それどころか触感すらほとんどない。服も濡れず、彼の水の中にあってもピィスの体は乾いたままだ。呟きは呆然ともれた。 「魔力……」 カリアラは丸く見開いた目でただまっすぐに上を見ている。その顔にも厚い水。ピィスは手で払ってみたが、滲むようにあふれるそれはまたすぐに溜まっていく。地面にどんどん水が落ちる。だが土に染みは生まれず、気体にでもなったように跡形もなく消えていった。ピィスは確信する。これは、魔力のあらわれだ。 魔力はその力が濃いほどに触感や形を伴っていく。火であれば赤い色を、水であれば澄みわたる透明な形をもって本物のように見せる。これは彼の中から湧き出した魔力だ。ピィスは手で魔力をすくう。わずかに涼しく感じるだけで液体に触れた感覚はないが、見た目には川の水を手にしたような流水の乱れがあった。手の中に溜められた部分は水にしか見えないが、こぼれた端はわずかな光を帯びて、さらさらと消えていく。ピィスはただ目を見張るしかない。昨日も似たような経験をしたが、それもここまで強くはなかった。 ふとカリアラの体に目をやり、ピィスはその状態に息をのむ。 「何それ。すごーい」 屋根の上からカレンがのんきな声をかける。カリアラの表情が、それで意識を戻したようにぴくりと動いた。 「大丈夫か!?」 覗き込もうと身を乗り出したところで、ピィスは飛び起きた彼の体に顔をぶつける。 「カ、カリアラ?」 よろけて座るピィスを見もせずに、カリアラは立ち上がった。直立する体から傷口から滝のように水があふれていく。彼は全身を川として佇んでいる。表情は窺えない。ただ見えるのはとめどない水の流れと、その奥に揺れる輪郭のみ。地に落ちた魔力は土の上を滑って煙となって消えていく。三匹の猫は尻尾を太らせてカリアラを囲った。だが水が流れてくると、悲鳴を上げて後じさる。それを契機に猫たちはそれぞれに逃げていった。 ぽつ、とピィスは頬に水を感じる。細いそれは降りはじめの弱い雨で、針の先で穿つように地面に点を落としていく。 前方から風が吹いた。 カリアラが、ふらりと体を前に倒す。音もなく大量の水が土に落ちる。 倒れる。と思ったのと、予想に反して彼の足が踏み出されたのは同時だったか。 「え」 ピィスの声を掻き消すように、カリアラは上半身を傾がせたまま風に向かって走り出した。彼を覆う水は向かい風に煽られてなびいては空に散っていく。雨粒と同じ色で地に点を打っていく。今にも転倒しそうな姿勢のせいで、彼の靴は奇妙な角度で土を掻いては乾いた音を響かせた。 「お、おい!」 止める声も聞かず、彼も音も水もすべてあっという間に去っていく。ただならぬカリアラの様子に、リウレンたちも道を開けた。ピィスはその光景をわからぬままに見ていたが、現状を理解して、青ざめて立ち上がる。 「まずい」 カリアラが消えた先には表に繋がる道がある。もし、そのまま大通りにまで飛び出したら。最悪の予想に心臓を鳴らしつつ、ピィスは足を踏み出した。 「猫が怖くて滝になって、どこかに逃げて行きました、か。大変ねぇお魚は」 馬鹿にした声がそれを止める。いつの間にか下りてきていたカレンが、カリアラの去った方をつまらなさそうに見ていた。 「なーに突っ走ってるんだか」 他人事を眺める嘲笑。ピィスは彼女に駆け寄った。カレンは焦点の霞んだ目で怪訝に見返してくる。 その頬を、強く打った。 カレンはよろけてへたり込む。リウレンたちがあわてて彼女を囲む。 「いい加減目ぇ覚ませ、このバカ女!」 「なっ」 カレンの目が瞬時に敵意を見せた。ピィスはそれを無視してカリアラの消えた方へと走る。 「待ちなさいよ!」 カレンの罵倒が背中にかかる。振り返らずただ走る。 川だ。そう思った。ここは川だ、そして自分は魚なのだと疑問もなく感じていた。 カリアラの意識からは人の要素が消えうせて、ただ流れに逆らうように風に向けて走り出す。足を動かしている自覚はない。自分は今川の中を泳いでいるのだと、当たり前に考えていた。 視界も体も水に包まれ、視覚も匂いもすべてそれを通して伝えられる。風にあたると水はなびく。ここは川だ。水の中だ。そう考えたカリアラは、本能のまま流れに逆らっていく。まさか自分の動きが流れを生み出しているとも気づかずに。 カリアラは、ふと空腹を感じる。それは魔力が外に出された結果だが、そんなことは思いもしない。彼はただ餌を取らなければと、切実に考えただけ。肉の匂いはあちこちでする。多すぎて逆に無茶だと感じるほどだ。今日は何かの群れが多い。しかも大きな生き物だ。人間? まさか。この生き物はどうしてこんなに騒がしいんだ? 彼は水を通して濁る言葉を聞き取ろうとも思わずに、ただ流れに逆らっていく。 前方から血の匂い。死んだ肉から漂うものだ。川に流れ、抵抗もなく食べられていくだけの肉。それが運良く近くに転がっている。カリアラは迷うことなくそちらに向かう。 ああ、牛か。カリアラは匂いから判別する。こっちだ。曲がって奥の、この穴を潜り抜けて……あった。 空腹の鼻先にそれをみつけて、彼は迷わず食いついた。 |
ハンクは肉屋の主人だった。客の相手を妻にまかせ、足りなくなった肉を切ろうと塊を台に乗せる。包丁を取ったところでドアが開いていることに気づき、閉めなければと考えた時。 そこから、水が飛び込んだ。塊となったそれは骨付き肉に喰らいつく。ハンクは驚きのまま退いた。壁につく手も足も背まで震えて力が入らない。崩れ落ちそうな目の前で、水を纏った謎のものは手をぴたりと胴につけ、口だけを突き出して肉塊に噛みついてはちぎり、のむ。生々しい食事の音が部屋の中を満たしていく。 ハンクは侵入した物体が人間であることに気づいた。水の奥に髪の毛が見えたのだ。よく見ると、うつむいてただひたすらに肉をむさぼるのはただの人の男だった。手をきっちりと身に添わせ、足でさえもまるで二本でひとつのように隙間なくあわせている。うつ伏せに近い無理な姿勢でみるみると肉を減らしていく。 人間なのだとわかってしまうと、おそろしさは幾分薄れた。だが不気味なことに変わりはない。同種だからこその気持ち悪さにハンクはまた一歩逃げた。 骨の折れる音がした。水に包まれた者は歯で骨を外へ落とし、また新たな部位へと食いつく。動きに影響されたのだろうか、男の姿を囲う水が足元へと流れだした。水はかさを減らしていき、床に落ちた部分から煙となって消えていく。水の中から現れたのは服を着た人の背中、色あせた金の髪。 ハンクは目をみはる。体の線に添わされた腕が、鈍い光を乗せているのだ。注目すると、現れた肌はびっしりと銀のうろこに覆われていた。 「う、うわあああ!!」 生き物が、悲鳴につられて顔を上げた。そこにもうろこが隙間なく生えている。銀色に囲われた目は、魚と同じ大きな真円。それがぎょろりと主人を見つけた。ハンクの恐怖は声にもならない。生き物が、上半身をゆっくりと起こす。古布のように裂けた服の奥に、鮮やかな赤い色。燃えるように渦を巻くそれはたちまちに銀色の喉を昇り、耳元までを覆っていく。まるで、口許から血を流しているかのように。 「く、来るな!!」 その魚めいた生物は、ハンクを見た。いや、向いた、という方が正しいのかもしれない。真円の眼はたしかにハンクの顔に向けられているはずなのに、意志が繋がる様子はない。ただ顔面と向かい合っているだけで、相手の思考や感情が何ひとつ伝わらない。 銀色のうろこに覆われ、その半分を血の色に染めた顔。ハンクは物言わぬそれに耐えきれず、持っていた包丁を投げる。外れた。相手の目は離れない。ただ表情もなくハンクを見つめる。 ハンクは部屋中の物を投げた。意味のないわめき声を上げながら、手のひらが触れた物を掴んでは相手に向かって投げつける。大きな肉切り包丁が、その生き物の鎖骨のあたりに突き刺さった。 包丁は自重で落ちた。生き物はよろけて外に後じさる。 反撃をされないようにとさらに物を投げていく。生き物は開いた傷から薄白い煙を流し、建物の外に倒れこんだ。 ハンクはドアを強く閉める。 そして思い出したように、すべてを込めて悲鳴を上げた。 痛い。痛い、痛い。どうしたんだ一体何が起こったんだ、この鋭い痛みはなんだ。 彼はそれを理解できず、ただ地面に転がった。水がない。なぜ、どうして。 いつの間に陸に打ち上げられたのだろう。わからないが水がないのに変わりはない。水がなければ魚は呼吸することができない。彼は苦しみから暴れた。固い地面が傷を広げてよけいに痛みをひどくする。だが彼はその仕組みに気がつかない。ただ全身で跳ね、暴れるだけだ。 聞こえるのは人のざわめき。人間が沢山いる。なんで、どうして。一体何が起こっているんだ。 暴れる彼に、細々とした雨が落ちてくる。水だと思うが量が足りず何にもならない。 痛い、苦しい。痛い。苦しい。痛…… 耳元に鋭い人の声。何か必死に叫んでいる。 人の手が、体を揺さぶる。彼はふと動きを止める。 「カリアラ!」 その名前を聞いた瞬間、彼はすべてを思い出した。 「……人、間」 カリアラは潰れた声で言う。ピィスは大きくうなずいて、彼の頭を暖かく叩いてやった。 「そう、人間だ。カリアラ、これは何だ?」 彼の耳を軽くつまむ。答える前にすぐさま続ける。 「耳だ。これは? 鼻だ。 これは? 手だ。これは? 足だ」 ピィスはそれぞれの部位に触り、ひとつずつ答えを告げる。その度にカリアラはそれらの動かし方を思い出した。腕を使い、足を使い、横になって倒れていた体を起こす。 がくんと大きく力が抜けて、また地面にぶつかった。ピィスがそっと肌をさする。 「大丈夫、あわてるな。慎重に動かせばいい」 カリアラは肘を張って上半身をなんとか浮かせた。頭が重くて上げられない。体に力が入らない。 「おれは人間だ」 サフィギシルに言いつけられた合言葉を口にする。 「おれは人間だ、おれは人間だ、おれは人間だ」 少しずつ力を込めて、慎重に体を起こそうとする。 「おれは人間だ、おれは人間だ、おれは」 だが目に映る自分の腕に、カリアラはぴたりと止まる。 銀のうろこに覆われている。それだけではなく、よく見ると、指が全て膜のような水かきで繋げられてひれのようになっていた。爪も消えて、手の甲はただ線が走るだけとなっている。 カリアラは顔を上げた。そしてあたりの状態を見た。 街の人々が、その顔を恐怖に歪めて遠巻きに彼を見ている。カリアラが目をやるとそれぞれに悲鳴を上げた。逃げる者にかばう者、硬直して恐れから泣き出してしまう者。その中に、怯えきったウェートの母と、彼女をかばう夫を見つけた。さっき見たのと違う子どもがあちこちで泣いている。カリアラを恐れて泣いている。 「おれは」 口はそのまま動きを止める。 人垣の奥に、見覚えのある顔を見つけた。五つ子だ。その中のカレンは何故か怒っている。カリアラは腕を掴まれた。ピィスだ。そのまま引かれ、立たされる。 「逃げるぞ」 かすれていく囁き。ピィスがどんな顔をしているのかはうつむいていてわからない。カリアラの返事を待たず、ピィスは腕を引いて走った。たどたどしくそれに続く。五つ子たちが追ってくる。 他の人間たちは悲鳴を上げて二人を避けた。広がるのは無人の道。暗いそこをただひたすらに駆けていく。 冷たい雨が、銀のうろこを濡らしていく。 |