血の匂いに一瞬意識が遠のいた。カリアラは生臭い水を被ったままふらりと足の位置をずらす。目の前が真っ白だった。だが、熱い感覚と共に少しずつ景色が形を取り戻す。それと同時にむず痒い感覚が後頭部を這うようにして昇りつめた。 強い力が心臓部で暴れ始める。風音にも似た魔力のうなりが震動を手足の先まで伝えていく。目に映るものは意味を成さない。ただ感覚を支配するのは血の味と、魚の味。獲物を掴んだ昂揚感と、さらなる命を要求してくるどうしようもない空腹感がカリアラの意識を飲み込んでいた。 カリアラカルスの本能が、閉じ込められた木組みの体を支配しようと暴れている。カリアラは必死でそれを抑えようとするのだが、意志も霞む空腹感のすぐ傍から血の味が響いて身動きが取れなくなった。 血の味は餌の味。生きるために必要なものがここにあると伝える信号。本能はひたすらそこへ向かうようにできている。それを狩れと訴える。 「カリアラ?」 異変に気づいたピィスがこちらを見上げる。 餌だ。と咄嗟に思った。カリアラはすぐに打ち消してそれを閉じ込めようとする。 (だめだ) だが嗅覚は最大限に研ぎ澄まされて、餌の位置をしっかりと伝えてくる。飢えを凌ぐ肉がたくさん。こちらの狙いに気づきもせずに、警戒心なくそこら中に。そう、口を向ければ届くほどすぐ近くにもいるではないか。 (だめだ、だめだ、だめだ) 被った水と恐怖心が木製の肌を冷やしていく。だが内からは強い熱。術をこじ開け、解放をもくろんでいる魚の野生への帰力だ。温度差が気持ち悪い。 「おい、どうした? おい!」 せめぎあう二つの力に震えがずっと止まらない。上手く体が動かせない。だがそれでもなんとか近寄るピィスを拒絶した。これ以上傍にいては。その、うまそうな匂いを近づけては。 (だめだ、だめだ、だめだ) 遠い声が喰えと言う。カリアラは震えながらも首を振った。だめだ、だめだ。それだけは。これだけは……。 (子どもだ) 傍にいるこの人間は、子どもなのだ。カリアラはねじまがりそうな体を押さえてうめく。深呼吸だ。呼吸、呼吸、息をするんだ。だが意志と体はすでに離れ、吸った空気は鼻や口から出て行かない。体は勝手にえらを求めて大気は木組みに閉じ込められる。 「そう、カレンは召喚術師なのさ!」 その声に怯えたのかピィスがカリアラの腕を掴んだ。ごく近くからの肉の匂いが本能を強くくすぐる。 ここに餌が。 理性が吹き飛ぶ寸前で、なんとかピィスを突き放した。カリアラは身を引いて、離れる。 「え」 向けられた戸惑いの顔は苦しいほどに無防備で、カリアラはどうしていいかわからなくなる。身動きが取れなくなる。目を離せない。体はそれを求めている。食べ物だ、生き延びるために取り込まなくてはいけないものだ。でもこれは。 幸いにもピィスの意識がよそを向いた。 「やべぇ、来るぞ!」 その声に合わせるように、体は勝手に口を開く。何か言おうとしたのだろうか、それとも求めていたのだろうか。わかる前に、遠くから声が響く。 「召喚! ご近所の猫ちゃんたち!!」 そして光がすべてを消した。 |
「あっ……」 近くからしたシラの声に、サフィギシルは片付けを止めて顔を出す。 「何? どうしたの」 シラはいつものソファに座り、まずいことでも見つけたように片手を口にやっていた。近寄りながら尋ねると、シラはぎこちない微笑みを浮かべる。 「いえ、その……もしかして、街って猫がいたりします?」 その膝には猫の絵が並ぶ画集が広げられていた。伏せられた彼女の視線を追うように、サフィギシルもそれを覗きこむ。建物の影に横たわる、目を閉じた小さな黒猫。 「そりゃまあ、いるんじゃないの。何、あいつ猫だめなの?」 「ええ。尾びれの近くに大きな傷があったでしょう。あれ、猫にやられたんです」 サフィギシルは思い起こして「ああ」と言う。確かに、カリアラの魚体には傷跡が残っていた。引きつれたそれは完全に肉に埋もれていて、随分と古いものだと思ってはいたが。 「熱帯島って猫いるんだ」 「いえ、私を追って森の外についてきていて。いつもは川底にいるのに、その日に限って水面で待っていたから……運悪く、旅人の連れた黒猫に」 指で斜めに空を切り、シラはまるで自分の肉が裂かれたかのような顔をする。サフィギシルは彼女をどう慰めるかと悩んだすえに、わざと明るい声を出した。 「ま、別に襲ってきたりはしないだろ。魚の匂いがしてるってわけでもないし」 「そうですよね。あ、すみません邪魔をして」 すまなさそうな顔をされて、彼は慌てて否定する。 「いやいや全然。何かあったらまた呼んでよ」 「はい。ありがとうございます」 シラはふわりと微笑んだ。見るだけで体温が上がるような、花ひらく笑顔。サフィギシルは平静を装いながら台所に戻ろうとして、食卓の角に足をぶつけて派手に転んだ。 |
まぶしさに目をつむり、光の途絶えをどれくらい待っただろう。ピィスは地面に熱を感じて目を閉じたままに退いた。数歩下がると靴底がひやりとする。立ち止まると、先ほどまでいた光の奥からかすかな声が聞こえてきた。 猫の声。それは何匹分も混ざった音で、徐々に強く形を持つ。 光が消えて、ピィスはおそるおそる目を開けた。視界にはこんもりとしたやわらかい影が一抱えほど丸まっている。きょとんとしてまばたきすれば、あちこちに山ができ、谷が生まれ、耳や尻尾が飛び出してくる。それらは個々の形となってまばらに分かれた。 何の変哲もない猫である。心なしか暗さを増した空の下、大小各色さまざまな猫が集結している。 その目が一気にピィスを向いた。 「え? ええ?」 彼らはまるで獲物を狙うように、低く構えてピィスを睨む。その目はどこか酔ったように焦点が定まりきらず、危うげに揺れている。カレンが高笑いのごとくに叫んだ。 「さあ、猫ちゃんたち! 獲物を軽ーく狩っちゃいなさーい!!」 まず一匹が飛びついた。ピィスは避けるがそれですら追いつかないほど次々と猫が体に群がりはじめる。黒に白に茶縞模様に三毛にぶちに灰色まで。生きた毛皮が視界中入り乱れてはあちこちで爪が光った。 「うわ痛っ、だーイタタタタ! バカ噛むな!!」 振っても振っても猫はそれぞれしがみついて、噛むは蹴るは引っかくは。地団駄にも怒鳴りにもひるむことなく一心不乱にピィスの体に喰らいつく。これは、いくらなんでもまともな猫の行動ではない。 「あ! まさかさっきの水!」 猫まみれのままに顔を上げると、カレンはにたりと笑みを浮かべた。 「そ。猫の実たっぷり入れちゃった。魚屋さんの洗い水で効果倍増」 その木の実は猫を惑わす薬とされている。ただ酔わせるだけのものから、眠りや目覚めを操るものまでいくつかの種類がある。そのうちの、攻撃性を強くさせる実がかけられた水に入っていたのだ。 「さあ! 助けて欲しければ言うことを聞いてもらおうかしら!」 「せこいんだよやることが! こんなもんわざわざ召喚してんじゃねー!」 召喚術は大抵の場合、獣を呼び起こすのに使う。とはいえ一般庶民の日常には必要性が薄いため、人間や物を運ぶ転移の術へと応用するのが平和な国での使用法だ。だがカレンは開き直る。 「何言ってんの、新たな活用法を研究してこそ人生じゃない。それにその『こんなもん』に苦戦しながら言わないでくれる?」 「お前だって引っかかれてんだろそれーっ」 「そうよ」 手に貼ってある多数の薬を指さすが、カレンは悪びれもせずに据わった目ですらすらとと語る。 「しかも集会狙ったから昨日から寝てないのよこれっぽっちも。正直な話今ならどんなことでもできちゃいそうだから思わず世界征服しようかしらとか危険思想に走っちゃって、気がついたら旅立ちの支度始めてていやもう大変」 「寝ろ」 ピィスは心の底から言った。そして、そこでようやく連れのことを思いだす。光が落ちた場所を探してみるとそこにあるのは猫絨毯。 「カ、カリアラ?」 一瞬、何なのかわからなくてピィスは目を凝らしてしまう。だが色とりどりの毛皮をまとうそれは、間違いのない、カリアラの体だった。群がる猫に隠されて彼自身はほとんど見えなくなっている。 「うわーカリアラくぅうん! 猫が、猫がああ!!」 「ごめんよぉ、ごめんよォオ!」 「助けられない僕たちを許してくれー!」 ロウレンたちが壁に隠れて半泣きの顔をのぞかせている。青ざめるそれは面白いほどに震えていた。 「酷いじゃないかカレン! よりによってどうして猫を出すんだよ!!」 「みんなが嫌いなものを出して私がこれから我が家で一番エライ子になろうとか思ったらもう実行したくてたまらなくて昨日からこの時を心待ちにしててついに今大達成で愉快な猫色協奏曲」 カレンは無表情のままで言う。深いくまを提げる目は焦点が合っていない。 「お前、ホント寝ろ!」 「何言ってるのこれからが私の伝説が始まって気がつけばアーレル中が支配下に」 「カリアラ、おい生きてるかー!?」 もう構うのはやめにする。 「とりあえずは旅の剣士を引っ掛けて国をあちこち渡り歩き」 「おい、カリアラ、おーい!」 ピィスはカリアラの体から、吸いつくように離れない猫をはがし、寄る猫を飛ばしては毛皮の数を減らしていく。だんだんと現れてきた彼の体にピィスはつい息を詰めた。そこには大量の噛み傷と引っかき傷が広がっている。 「うわ……」 ピィスはさらに飛びつこうとする猫を引きはがし、引き裂かれた服をめくって彼の傷を確認した。人工皮はまるで廃屋のカーテンのように、無数の裂け目を抱えている。作り物ではあるが痛覚まで存在するのだ。作品の構造上流血こそしていないが、傷口から溶け出した魔力が膿のようなぬめりとなってまだらに肌を覆っている。 「カリアラ、生きてるか?」 ピィスは彼に被さるようにしてかばいながら頬を叩く。カリアラは意識を失っていたのだろう。反応がなかったが、執拗に声をかけると閉じられたまぶたがぴくりと揺れた、その時。 「うわあああ! 怖くない怖くない怖くない!!」 背後から絶叫が聞こえてきた。 「ロウレン!」 弟たちが心配そうな声をあげる。振り返るとそこにはバケツを逆さに掲げ、やたらに震える長男ロウレン。全身を水浸しにして、渇を入れるように叫ぶとバケツを地面に叩きつけた。どうやら、猫の実を混ぜた予備の水があったらしい。 「猫、来るなら来い! カリアラ君を引っ掻くな!!」 「ロウレン……!」 ついていけずぽかんとするピィスを置いて、弟たちは盛り上がる。 「ロウレン、かっこいいよ!」 「凄いよ! 男前だよ!!」 だがその男前は、新たな獲物に目を輝かせて飛びつく猫に、甲高い悲鳴をあげた。 「いやあああ!!」 そして彼は猫を連れてどこか遠くへ走り去る。残されたのは意識のないカリアラと、呆然と座り込むピィス、虚空を見つめるカレンに兄弟。そして猫が三匹だけ。ピィスの背中をひっかき続ける白い仔猫と、カリアラから離れない縞猫と黒猫が一匹ずつだ。 「……なんで、そんなに猫が怖い」 「違うよ! ここは誉めるところだろ!?」 弟たちの強い主張に、ピィスは素直に謝った。とりあえず、身代わりとなってくれたのは確かである。ジグザグに行く路地の奥からロウレンの悲鳴が聞こえた。ピィスの背中は相変わらずひっかれているのだが、仔猫なので傷というほどでもない。少し気に障るだけ。だがカリアラにくっついているのは大人の猫で、深手を産んでしまうのでピィスは何度もそれを払った。 「カリアラ、起きれるか? おーい、生きろー」 彼の顔のあちこちが、ぴくぴくと動き始める。苦痛を絵に描いたような歪んだ表情。そのまぶたが重たそうに開かれる。 「よかった。大丈……」 だがほっとするひまもなく、ピィスの目前を黒い毛並みが横切った。 「あ!」 カリアラが目を開けたのと同時、黒猫が彼の胸元に到着する。影色の前脚を振り上げた先には驚愕するカリアラの顔。思わず開いた彼の口から空気がもれる。 爪が掛かりかけた瞬間、カリアラの体を水が覆った。 |