カリアラは反射的にそこに向かって駆け出していた。 「子ども!」 目を捕らえて放さないのは、深い溝の傍の幼子。見るからに頼りない足取りで、溝を縁取る石の上を歩いている。周りには誰もいない。気づいているのはカリアラだけ。必死に伸した手はまだ届かない。全力で走っているがまだかなり距離がある。 「危ない、止まれ!」 呼ばれていることに気づいたのだろうか。子どもがふとこちらを向いた。向いたまま、子はあらぬ場所に足を踏み出す。ぐらりと揺れる小さな体が、暗い溝へと傾いて……。 「子ども!!」 それは深くに落ちることなくカリアラの腕に収まった。柔らかい重みが密着して彼にのしかかる。 「子ども……」 ふう、と息をついてへたりこむ。カリアラはそのまま安全な場所まで後じさった。掴む力が強すぎたのか、胸元で呻き声がしていたのであわててほどくと、大声で泣き出される。 「う、うわ、子ども、子ども!?」 呼びかけるがわめき声は増すばかり。顔はみるみるしぼむように赤く歪み、細くなった青い目から涙がどんどんあふれて流れる。口は大きく開かれたまま、喉から直に大声が耳に響いた。引きつったように背を逆に反るので、しっかりと抱いていられずどうしていいかわからない。 「こ、子ども、子どもっ」 おろおろとあちこちを見回すと、すぐ傍の家から若い女性が顔を出した。彼女は驚いて二人に駆け寄る。 「ウェート、どうしたの!」 「子ども、ここ、歩いてて、落ちそうでっ」 「ええっ」 「掴まえたらこんなになってっ。子ども、子ども大丈夫か?」 母親らしき女性は慣れた手つきで泣く子どもを抱き取った。安定した彼女の腕で揺らすようにあやされて、わめきはすぐにぐずりに戻る。それもすぐに消えていき、子どもは穏やかな表情へと戻っていく。まだ涙を浮かべたままで、指をくわえて不安そうにカリアラを見た。 母親は深い溝を覗き込んで、口のなかでああと言う。危険性を改めて知ったように青ざめた。 「ありがとうございました! よかった、危なかった……」 「子ども、子ども死なないか? 大丈夫か?」 カリアラはおろおろと不安そうに、子どもと彼女を交互に窺う。そんな彼と対照的に、母親は落ちついたしぐさで子どもの背を優しくたたいた。子どもは甘えるようにぴったりと身を寄せる。 「大丈夫。こんなのいつものことだから。あ、落ちそうになるのがってことじゃなくてね、泣き出すの。駄目でしょー、こんなところ歩いちゃ」 「そうか。びっくりした」 カリアラは安堵の息をつく。母親はふとあたりを見回し、不思議そうに尋ねてきた。 「ねぇ、うちの旦那見なかった? この子と一緒にいたはずなのに」 「あれ、どうした?」 後ろから声がした。質問の答えと思われる若い男。きょとんとして女性と子どもとカリアラを見比べる。 「どうしたじゃないわよ、ウェート置いてどこ行ってたの! 溝に落ちるところだったのよ」 「えっ! 大丈夫か!?」 「見ればわかるでしょ、大丈夫。この人が助けてくれたから」 父親はさっき女性がしたのと同じく溝を見て、口のなかでひいと言った。 「すみません、ありがとうございます。いや、ワユナがあっちの方にいたからさ、買い物頼んでおこうと思って。ほんのちょっとの間だし、家の前で遊んでたから大丈夫だと思ってたんだけど」 「そういう時はうちの中まで連れて来てよ! もし落ちてたらどうなってたか、考えてみなさい! もー駄目なお父さんねえ」 「ごめんなさい。本当にありがとうございました。ウェートもごめんなー」 だが子どもは顔を寄せた父を避けてそっぽを向いた。彼の顔が面白く歪んだのと同時、女性が出てきた家の戸が開いて中から子どもが顔を見せる。ウェートよりも年上の、女性によく似た女の子。 「おかーさん、隊長まだあ?」 女性は道を見回して、困ったように提言する。 「まだよ。先にご飯食べてれば?」 「ダメだよ、主役がいないと意味ないもん」 「隊長? リドーのことか?」 カリアラが訊くと、女の子は楽しそうににっこり笑う。カリアラもつられて同じように笑ってしまう。 「うん、リドー隊長! 見なかった?」 「リドーならさっき、あっちの方で……」 「いたの!? みんなー、隊長いたってー!」 女の子が外に飛び出す。家の中を振り返り、大きく誰かに呼びかけた。その誰かは沢山の足音をさせて階段を下りてくる。複数の子どもが駆ける騒がしい音。ぞろぞろ外に出てきた十人近くの子どもたちに、カリアラはぽかんと口を開く。 「あれ、まだ来てないの?」 「来てないよ、あの人が見たんだって」 「もうお昼過ぎたのにー」 「どうせまた追いかけてるんだよ。隊長だもん」 「走ってるんだよ、待てーって言って」 性別も年齢もばらついた子どもたちは、口々に喋りだす。カリアラたちの近くまで来てあちこちを見回した。 「お兄さん、隊長どこにいた?」 「あ、あっち」 さっきまでいた路地の方を指さすが、カリアラの気持ちはすでにそこにはなく、子どもたちを呆然と眺めている。開かれたままの口の中で、こども、と呟いた。 「すげー、子どもいっぱい……」 それを聞いて母が笑う。 「騒がしいでしょう。リドーさんが別の職場に移るからって、お別れ会をね」 「子ども、いっぱいいるなー。すげーなー、すげーなー!」 呆けていた表情が喜びに変わっていく。大好きなものを見つけたような、興奮じみた感動の顔。父親は優しい苦笑を浮かべて尋ねる。 「子ども、好きなの?」 カリアラはうなずいた。リドーを探す子どもたちやウェートや、その両親をぐるりと見回す。 「子どもは大事だ。すごいな、いいな」 「あら、じゃあ抱いてみる?」 女性はウェートを差し向けた。だがカリアラは怯えるように同じだけその身を引く。 「い、いや、いい」 「そう?」 彼女はあっさりウェートを抱きなおし、そのままふとある人影に気がついた。 「あら、主役がご到着よ」 道の奥で、心なしか疲れたように見回している一人の男。間違いなく本日の主役であるリドー隊長その人だった。子どもたちが口々に彼を呼ぶ。彼はそこで初めて会を思い出したようで、慌ててこちらに駆けてくる。 「遅いよー」 「お昼にねって言ったのに」 「いや、すまない。ちょっと気になる人型が……ああっ!?」 子どもたちに謝りながら、カリアラと目が合った。 「お前、どうしてここに!」 知られたくない一面を目にされてしまった、とばかりに赤い顔をする。カリアラはその意味もわからずに、ただ素直に説明をした。 「走ってたら、子どもがいて」 「隊長おなかすいたー」 「はやく食べようよ、ごちそうだよ」 「ここに落ちそうになってたから」 「おかあさんが作ってくれたんだよ!」 「走ってきて」 「隊長、出世おめでとー!」 「ちょ、ちょっと待て混乱する!」 子どもたちに手や服を引かれながら、リドーは困った声で制す。 「悪いが、先にこいつを調べなくては。こいつは怪しい人型細工だからな、見逃すわけにはいかないんだ」 ええー、と子どもたちは声を揃えて不満を唱える。リドーはそれに弱りつつも、カリアラを睨みつけた。 「とにかく、ついてきてもらうぞ」 「でもリドーさん、この人別に悪そうには見えないわよ」 母親がカリアラをかばうように前に出る。父親もどうしてリドーがカリアラを警戒するのかわからないといったように、不可解そうに首を傾げた。 「そうだよな、第一この人のどこが人型細工だっていう話だよ。どう見てもその辺の兄ちゃんじゃないか」 なぁ。と顔を見合わせる夫婦。カリアラはきょとんとして、ただ彼らを見つめるだけ。 「ウェートを助けてくれたのよ。なんだか子ども好きみたい」 ね。と女性がカリアラに同意を求めた。彼はよくは解らないが、取りあえずうなずく。 「別に掴まえなくていいんじゃないですか? 言われなきゃみんな人間だと思うだろうし」 「そ、そうか? おれ、ちゃんと人間になってるか?」 カリアラは戸惑うように自身を指さす。そうそう、と夫婦は頷く。 「十分よ。どう見たって人間だもの。みんなの中に溶け込んじゃってわからないわ」 「……そうか」 戸惑いは、ゆっくりと安堵を含む笑みに変わる。喜びが湧いてきているような、柔らかい笑顔。誰かのものをそのまま真似たものではない、カリアラ自身の素直な表情。 逆にリドーはどうしていいか悩むように、その顔を渋く歪めた。 「だが……」 「それに今日はお休みなんでしょ? 掴まえる権限なんてないんじゃない?」 彼女はリドーの姿を上から下まで確認する。いつもと違う休日仕様の私服姿。 「そうだよ、今日ぐらいお仕事なんてやめようよー。ねー」 「せっかく休みなんだから」 「明日から会えなくなるんだよ?」 リドーは両手を子どもたちに引かれながら、困り果てて頭を掻いた。 悔しそうにカリアラを見る。渋々といった様子で何事かを言いかけた、のだが。 それは不吉な笑い声に中断された。 あはははは、と伸びるそれは確実にこちらに向かっている。人々の悲鳴がその後ろから付いてくる。 響くのは、布が空気を切るような音。 「何だ!?」 リドーは素早く子どもを家へと向かわせる。彼自身もそのまま守るために彼らを抱いた。 カリアラは夫婦が横道に逃げ込むのを確認すると、すぐに道の中に飛び出す。 そして見た。一直線にこちらに向かう、白い大きな物体を。 「鳥!?」 「そうさ、これは僕の鳥さああ!」 声は歪んで近づいた、と思ったとたん、視界のすべてがぼやけた鳥に占領される。とてつもなく大きなそれは何故か線がやわらかく、外見はどこか雑。だがしっかりと鳥の形に鳥の頭に鳥の翼。そしてその中央にしがみつくのは眼鏡少年。 「僕は三男! 人呼んで、魔術技師のラウレンさー!!」 カリアラは逃げようとしたが、大きな鳥はぐんと近づきやわらかく暖かいものがわき腹を突き、そのまま足が宙に浮く。 「わ、わ!?」 傾いた体を強く引かれ、カリアラは鳥の背中に滑り込んだ。しっかり掴むと柔らかく、毛というより布のような奇妙な感触。ふかふかとしたそれはまるで…… 「ふ、布団?」 「ご名答! 僕たちの布団を繋げて鳥魂を入れてみたよ!!」 その布団鳥を操りながら、ラウレンは得意そうに笑う。カリアラは改めて下を見て息をのんだ。 「浮いてる!」 「飛んでるのさ、鳥の魂入りだからね! よし、僕と逃避行しようじゃないかカリアラ君!!」 くぐもった音が鳥の口から放たれる。その体は大きく揺れた。 「う、うわ」 「掴まっていてくれよ!」 カリアラは恐ろしくて素直にしたがう。止まっていた空気が動きだし、風となって二人の体を冷やそうとした。涼しいそれに思わず震え、何気なく下を見ると、子どもたちや父と母、そしてリドーがぽかんと口を開けて見上げている。カリアラは改めて左右を見るが目に入るのは屋根ばかり。それも段々高くなって、空しか見えなくなっていく。 「こ、こらー! 止まれ、降りろー!!」 リドーの叫びが少しずつ遠くなっていく。違反だ、と怒鳴る言葉が薄れて聞こえなくなった。見えるのは空と高い塔の先だけ。民家の屋根は既に下。 「高ぇー……」 カリアラはしっかりと布団を掴む。やわらかな布の下に、暖かい大量の綿。 布団鳥はゆっくりと羽ばたきながら、確実に空を飛んでいた。 「どうだい、空を飛んだ気持ち、わっ!?」 がくんと鳥の高度が落ちた。なめらかだった羽ばたきが、不ぞろいになっている。あちらこちらがそれぞれに揺れ始め、不協さを嫌というほど見せつける。 「あーららら、こりゃ落ちちゃうねえ」 「お、落ちるって、落ちるってお前」 ラウレンはあくまで明るくあははと笑う。 「大丈夫だよ布団だから。いや痛いことは痛いかな? あ、ルウレン発見!」 びしっと前方下部を指さした後、ラウレンは布団鳥の背をめくる。掛け布団だったそこに、入ってくれとカリアラを手招いた。カリアラは怖々と足を入れる。ラウレンもその横に滑り込んだ。 「添い寝。なんちゃって〜」 嬉しそうなその表情は状況とは正反対。カリアラはわけもわからずただ怯えから硬直する。高度はますます落ちていき、民家の屋根が斜めに視界に入ってくる。 「じゃ、降下します! というかしてまーす! やあっほーぉおお!!」 「と、鳥!?」 前方からピィスの驚く声がした。それはルウレンを含む二人分の悲鳴に変わり、地面を滑る布団の音と交わって……。 「わー!!」 すべてが一つに絡まった。 |
「おかしいよ、お前ら全員おかしいよ!!」 ピィスは涙目で主張するが、ラウレンは鳥が消えてただの布団になった中で、しっかりとカリアラを掴まえているし、ルウレンの興味もカリアラに移行している。 バラバラになった布団の中で、全員が通行人の不審な視線を浴びている。カリアラはもう何が何だかわからなくて、怯えきって硬直したまま懸命に深呼吸。兄弟二人に興奮の目で見つめられ、無意味に何度も首を振った。ぶんぶんと、ぶんぶんと。 「あーもー今日は何が何だかわかんねえー!!」 ピィスもまた頭を抱えてぶんぶんと首を振った。 「あ!」 カリアラが道の向こうを見る。合わせて全員そちらを向いて、同じように嫌な顔をした。 「やっべー、これ完全に違反だぞ」 その通りに「条例違反」と怒鳴りながらやってくるのは相変わらずのリドー隊長。違反者たちは逃げようとするのだが、絡み合った布団に全員が足を取られてもたついた。 「今度こそは逃がさんぞ!!」 「わ、うわ!」 今までで一番恐い怒りの顔がみるみると迫ってくる。もう手が届きそうな距離まで近づき、カリアラとピィスが諦めにのまれた瞬間。 「助けてロウレーン!!」 ラウレンとルウレンが悲鳴を上げた。 「はいよー!」 「来るんかい!」 後方からロウレンの声。リドーが思わず振り返るのと、それが視界を覆ったのはほぼ同時。 「投網!?」 思わず叫んだその物体が、布団ごと色んなものを掴まえた。 「大漁!」 得意げなロウレンの声がひときわ大きくその場に響く。次点はリドーの怒りの声。そしてどこか呆れたような、兄弟二人の声だった。 「ロウレン、ちょっとこれ生臭いよー」 「濡れてるし……うわ、干からびた魚の餌までっ」 「やー、拾いものだったからね。ま、これで全部解決…………」 台詞はそこで消えてしまう。続くのは、あれ、あれ、という困惑の言葉。 「ま、まさか」 兄弟は深くうなずいた。リドーは変わらずもがいているが、余計に網にかかってしまう。 「また逃げられた!?」 網の中に、彼ら二人の姿はない。 ラウレンとルウレンは、同時に大きく息をついた。 |
「もうオレ今日いっぱいいっぱいー……」 「おれも……」 カリアラもピィスもふらつきながら、それでもなんとか裏道を逃げている。 「でも、やっぱりお前と似てたな」 「あそこまでじゃないだろ!? オレはあそこまでじゃないだろ!?」 それだけは。とばかりに力強く問うのだが、カリアラは無言で首をかしげて本気で悩んでいる様子。 「いい。もういい。帰る」 ピィスは塀にすがりつく。だが追い打ちをかけるように、目の前に人影が現れた。眼鏡をかけた一人の少年。息をきらして両手を広げ、二人の帰る道をふさぐ。 「もー、お前らしつこすぎー」 ピィスはがくりと頭を落とした。カリアラが、その肩をつつく。 「んだよ、もう……」 静かに指で示されて、ピィスは少年を見やったところで言葉を消した。 その顔を真っ赤に染めて、緊張からか震えながら道をふさぐ末っ子リウレン。 彼は唇を震わせながら、どもりながらも喋りだす。 「まっ、まま、待って、くだ、さい。聞いて……聞いて、くれません、か」 二人は顔を見合わせた。 |