「とりあえず、これ飲んでみろ」 差し出されたのは水の入ったカップだった。カリアラは言われるがままに含んだ瞬間、びくりと震えてこぼしてしまう。 「何だこれ! へんな味がする」 口からだらりと中身を垂らして抗議するが、ピィスは逆に怪訝そうに、カップを拾って少ない残りを一口飲んだ。 「何言ってんだよ、ただの濃水……うん、味なんかないじゃねーか。口拭け口」 ピィスは床に置きつつ口を拭う動作を示し、雑巾を持ってきて絨毯を拭き始める。カリアラはペシフィロの姿を探したが、彼は今はいないらしい。玄関を入ってすぐのこの部屋は、彼らの居間のようだった。窓から入る午後の日差しが二人を包む。カリアラは薄く伸びる影を確かめるように、無造作に手を動かした。すると影も同じ動きをする。何度も繰り返していると、腕を掴まれてしまう。 「はい、もうしない。今度こそちゃんと飲め。じゃないとそれ直らないから」 ピィスが目で示したのは、カリアラの全身を覆う銀色のうろこだった。首元や手の甲まで広がるそれは、本物よりは立体感がなく、まるで彫っただけの模様のようだ。魚ではなく人間の肌にあると不気味だが、ピィスは早くも慣れたようだ。見つめる視線に好奇心すら覗かせている。カリアラはその目から逃れるように、体を引いて抗議した。 「それ、へんな味がするぞ。さっきの黒いのを強くしたみたいな」 「クロジ菓子? んじゃ甘いってことか。んー、確かにちょっと甘みがあるけど、ほとんど普通の水ぐらいのもんじゃないか?」 ピィスは気にする様子もなく、水差しからカップへとまたその水を注ぐ。カリアラは露骨に嫌な顔をした。 「……それ、サフィの見て覚えたろ。すげーそっくり。ちょっと変えとけ」 カリアラは言われてぴたりと表情を消し、考えて首を傾げる。 「どんな顔すればいいんだ?」 人間との接触が少なすぎたため、カリアラにはどんな時にどのような表情をするべきなのかがいまだによく解らないのだ。シラやサフィギシルのそれを見て体得はしていたのだが、集められる情報が少なすぎて、消化できずにそのまま流用している状態だった。だからこそ現在のカリアラの笑顔はシラのものによく似ている。今日の出会いを経て、すでにピィスのような顔も習得してはいるのだが。 「そうだよな、まだ作られたてだもんな。ま、大抵の人型細工もちょっとずつ覚えていくんだし、別に急がなくてもいいだろうけど……って、あの家にこもりっ放しじゃ学習もままならないか」 「サフィが出してくれないんだ。おれ、もっと人間見たいのに」 「そっかー。あいつ外ダメだからなー。いやダメってこともないんだけどさ」 喋りながらもまたカップを渡される。カリアラは受け取って、困ったようにそれを見つめた。動かすと、中の水はほんの少し重く揺れる。濃水と呼ばれるそれは、自然水から魔力を濃く抽出した人型細工の栄養源だ。食物や循環だけでは補いきれない動力を、飲むことによって補充できる。この体になって以降何度も飲むよう言われたもので、カリアラは実際ひまさえあれば飲んできた。だがこんなに強く味がしたのは初めてだ。少なくともカリアラには、いつもは薄くほんのりとしか風味を感じなかったのに。 「あ! そうか」 唐突な音量に、カリアラは思わず体を引きつらせる。水槽を叩かれたような反応に苦笑しつつ、ピィスは彼に顔を寄せた。 「もしかして、魚って味覚に敏感なんじゃないか? さっきは人間程度の感覚しかなかったから、クロジ菓子もそんなに甘くなかったとか。ちょっと待てよ」 立ち上がり、菓子を取って彼に投げる。カリアラは舐めろと言われて素直に応じ、途端にそれを引き離した。強烈な味に舌を出して心の底から嫌な顔をする。瞬間的に、他の誰のものでもない自分自身の表情として、表情筋に記憶した。 「やっぱな。さっきより味が濃くなったんだろ。そういう味覚を『甘い』って言うんだぞ。覚えとけよー」 楽しそうに笑いながら、ピィスは「ほら」と急かしてくる。 「それの後ならそんなに甘くも感じないだろ。一気にいけ一気に」 カリアラはためらうが、勢いに押されるがままにカップを傾けて、喉に注いだ。一口目は甘味と共にわずかなとろみが舌に乗る。だがその後は空気のように、ひどく軽く溶けて染みた。飲み干した感触はない。体にそのまま吸い込まれたようだった。全身を清涼感が滑り降りる。 カップを下ろすと息をつく暇もなく、ピィスに手を調べられた。 「……うわごめん、ウロコ酷くなっちゃった」 「…………」 大部分で肌の色を透かしていたそれは、今や完全に不透明な銀色と化していた。光を鈍く反射させる、カリアラカルスの生まれ持つ色。ピィスは気まずそうな笑みを浮かべてこめかみを掻いていたが、止めた。 「そっか。だからか」 考えを確定でもするように、うん。と小さく頷く。 「何がだ?」 「鉄を噛み砕けた理由だよ。いくら歯やアゴが強いって言っても所詮は魚、鉄までは砕けないだろ。多分あれだ、体が大きくなったから、それに合わせて同じだけ力も強まったんだ。きっと感覚も同じように鋭くなったんだろうな。濃水が不味くなったのも、どっちかと言えばそのせいかも。すごい体になっちゃったなーお前」 ピィスは興奮を頬に浮かべてカリアラを見回すが、五感も力も強化された本人は、指先まで進行したうろこを見ては困ったように問いかける。 「これじゃ、もう人間じゃないか?」 「あー……」 ピィスも同じ顔で彼を見つめ、口を閉じたままにうなった。 「まあ……ほいほいと人に見せられる体じゃないな。でもほら、直せると思うよ? ええと、何人か腕の立つ技師知ってるし、その人たちに見せれば……なんとか。ギリギリ、かな」 やけに濁る言葉と顔が伝染し、カリアラも同じように弱気な顔になってしまう。それでも何かないものか、とわかる範囲で案を出した。 「サフィは直せないのか?」 だがピィスは複雑に顔を歪めた。様々な思惑の混じる表情。 「あいつに出来るようなことかなー……原理は単純なんだけど。説明しようか」 カリアラは素直に頷く。ピィスはそれを確認すると「まず、」と口を切った。 「大抵の生き物には、大なり小なり魂が存在する。魂は知能が高ければ高いほどしっかりとした形をもって、取り出したり移植したりが可能になる。お前は魚の割には頭が良かったから、そうやって上手く取り出すことができた。頭悪いと輪郭がぼやぼやしてて、半端にしか掴み出せないからな。そういう奴は、さっきの馬の魂みたいに本能しか残らない。操ることはできるけど、本人の意志では動けない……というか、その意志自体が壊れて使いものにならなくなるし」 ついて来れているかどうか、気にするようにカリアラを見た。彼は静かに続きを待っている。ピィスは揺らぎない彼の目を捕らえながら、よりゆっくりと語りだした。 「で。それぞれの生き物の魂には、生まれた姿に戻ろうとする力がある。帰力って呼ばれてて、まあこれも本能みたいなもんだ。だからさっきの馬魂は、木の荷車に移植されたにも関わらず、力ずくで馬のような姿になった。肌も毛とか出てきてただろ。でもあれは大方が魔力製で、その本体はただの毛羽立った木だ。お前のウロコも本当の魚のものじゃなくて木製だから、剥ぎ取ったりは出来ないはずだ。表面がそれっぽい模様になって、魔力で見た目を完成させてるだけだからな」 カリアラは気にするように腕に触れ、うろこをなでて確かめてみた。確かに一つ一つが離れ離れになりそうになく、腕から剥がせそうもない。 「今までは、お前の理性が帰力を押さえつけてたんだ。人間だと思い込んで、無意識に帰力を忘れようとしていた。で、更にサフィも術を使って押さえてたんだと思う。混乱して跳ねたりしても、うろこまでは出なかったもんな。そういう時はお前の代わりにサフィの力が抑えてくれてたんだ」 いつまでもうろこをなでているカリアラの手を払い、ピィスは彼の目に叩き込むように言う。 「でもさっき、お前はそれを吹き飛ばすほどの力を出した。人間の体を忘れ、ただ本能に身を任せた。帰力が全開になったんだ。だから馬と同じように、木組みの体をむりやり魚に変えようとした。それが今の状態だ。……そんなに怖かったか? あれ」 カリアラはこくこくと何度もうなずく。いつまでも繰り返すのでピィスに手で止められるが、気にもせずに真剣な顔で言う。 「殺されると思った」 あー、と力なくもらしながら、ピィスは彼の頭を離した。やわやわと手を横に振る。 「殺さない殺さない。オレ、人が死ぬの嫌いなんだ。……説明に戻るぞ。ええと、この肌をまた人の体に戻すには……どうだろうな、かなり難しいと思う。調整がややこしいんだ。中の魔力の道筋が、かなり変化してると思う。それをまた元の配列に戻すには、そもそもの原理をちゃんとわかってるやつじゃないと」 「いないのか、できるやつ」 「今ろくな技師いないからな。てっぺんにいた天才が死んじゃって、業界自体の元気がなくて困ってるんだ」 「そいつはえらかったのか?」 「そりゃもう。魔術技師っていう職業を作り出した人だったんだから。なぁんでいい人ばっかり死ぬんだろ。ビジスって言う爺さんで、サフィとオレの師匠やってくれてたんだ。あ、師匠ってのは教えてくれる人のことな。覚えとけ」 うなずくのを確かめると、ピィスは窓の外に目を向けた。サフィギシルの家の方角だ。例え近くにあったとしても、見えはしない隠された場所。外界との接点をことごとく切り離す家。 「あの家も、元々は爺さん家だったんだ。サフィは養子に入ったから、後継いで住んでんの。……一緒に教わってた時は全然下手くそだったのにさー」 悔しそうに口を曲げて、カリアラの体を眺める。不思議そうに見返す彼を気にもせずに、ピィスはあっさり態度を変えた。軽い口調と楽な姿勢に切り替える。 「ま、爺さんの遺してくれた材料とか資料とかで、なんとかやってるだけだろうけど。だから所詮、あいつには直すのは無理っぽいと思うんだよな。よっぽどの腕がないと出来ないことだ」 カリアラはさっきのピィスと同じように、悔しそうな表情をする。 「じゃあおれ、ずっとこのままなのか? このままだと、あのいっぱいいる所には行けないのか?」 ピィスはそれを複雑そうに眺めて、眉を下げた。 「行きたいか、街」 「行きたい。人間がいっぱいいるのが見たい」 「うーん……確かにうろこのことをなしにしても、今のままじゃあ人間にはなりきれないしな。表情も言葉も常識も、とにかく中身が未熟すぎる。本当はもっと見本がいっぱいいる場所で、ちょっとずつ学んでいかなきゃいけないんだよ」 そしてまた思い出しでもするように沈黙し、困ったように頭をかく。鮮やかな赤い髪を雑に乱した。 「でもあの様子じゃ難しいな。一回でも帰ったら、もう出して貰えなさそうじゃないか? いっそのことうちに住むとかどうだ」 「でも、帰らないとシラが心配する」 ピィスはまた大きくうなり、大仰に腕を組んだ。 「そうだよな、川に置いてきたお前をわざわざ親父に探してもらったぐらいだもんな。あいつもその人魚のひとには弱いんだって?」 「うん。おれの時と顔が違う」 「あいつも美女には甘くなるか。解りやすいやつだよホント」 やれやれとため息をつき、ピィスはふとカリアラの妙な仕草に気がついた。うろこの生えた指を舐めてはいちいち首を傾げている。 「……何やってんだ」 「甘くないぞ」 「はい?」 怪訝な顔で見つめるが、彼は真面目な顔で訊く。 「甘くなるのは人間だけか? おれもシラといたらそうなるか?」 「……あ、そういうこと」 ピィスは呆れたため息をつく。 「いや何となくそうかとは思ってたけどな。覚えとけ、この場合の甘いってのは――え?」 その顔つきがぴたりと止まり、考えるように黙り込む。うついたまま、ピィスはそうかと呟いた。 「いいこと思いついた。お前、案外簡単に行けるかもしれないぞ、街」 「本当か!?」 カリアラの表情が一気に輝く。今までにない喜びの顔にピィスもまた笑顔になる。 「ホントホント。でもその前にサフィにうろこが直せるかどうかだけど……ま、どっちにしろそろそろいい時間だな」 ピィスは嬉しそうなカリアラを満足そうに見ていたが、何気なく窓の外を見た。 暗い雲が太陽に迫っている。日差しも薄く翳り始めていた。 「曇ってきた。雨になると面倒だから、今のうちに帰っとこう」 立ち上がり、カリアラをあごでうながす。彼も続いて腰を上げたが、ふと思い出して口にした。 「そうだ。さっき上にいたの、誰だ?」 「は?」 「誰かいただろ、お前以外に。おれ転んだ後押さえられたぞ」 ピィスは部屋の隅に屈み、畳まれた服の山から何かを探すように漁っている。振り返らず背を向けたまま、思惑の読めない声で言った。 「何言ってんだよ、お前が勝手に転んで勝手に動かなくなっただけだろ?」 一枚の上掛けを取り出すと彼に渡し、振り向きもせず外へと向かう。 「着とけ。もし誰かに会ったらちゃんとうろこ隠すんだぞ」 「……おう」 カリアラは素直に着ながら後に続く。一度、中を振り返ったが人の気配は全くない。そこにあるのはただ静かな無人の家。カリアラは不可解に眉をひそめたが、物音ひとつしなかった。 |
サフィギシルがカリアラを連れて作業室に消えてから、半時もかからなかった。ピィスは今しがた出てきたばかりのカリアラを見て、目を瞬かせる。 「直ったぞ?」 ほら、と出されたその腕にもどこにもうろこはまったく見当たらない。作り物とは思えないほどに精巧な肌が広がるだけだ。 「嘘、なんで」 「なんでときたか。直せるものは直せるんだ。お前とは違ってね」 不機嫌そうに嫌味を言って、サフィギシルも居間に入る。椅子に座るピィスを目障りだと言わんばかりに睨みつけた。 「もういいだろ。さっさと帰れ」 カリアラは、ソファに座るシラの隣に腰を下ろす。緊迫した空気で繋がる背後の二人を気にするように、ちらちらと覗いていたが、シラに無言で止められた。カリアラが見ないよう深く姿勢を傾けると、ピィスはうわずる声でたきつけた。 「よっく言うよ、顔色悪いぞ? 長ったらしく封印続けて。いつかバッタリ倒れるんじゃねーの」 「俺が何しようがどうなろうがお前には関係ないね。もう満足だろ、見ての通り俺は腕を上げたんだ。ほら、出て行け」 またしてもカリアラを人質にして入り込み、むりやりに居座っていた客に対してサフィギシルは厳しい態度を緩めない。だがピィスはそれすら楽しむように、にやりと笑う。 「はいはい。ま、明日も来るからいっか。昼前に迎えに来るよ。街行く約束したもんなー」 背を向けるカリアラに言うと、サフィギシルは思いきり顔を歪めた。 「何言ってんだ、こんな魚連れて行ってどうすんだよ」 「お前こそ何言ってんだか。作りたての『作品』を学ばせて、完全に仕上げるのは基本的な仕事だろ? なってないねー僕ちゃんはー。オレが代わりに完成させてやりまちゅよー」 「なっ……誰がお前に」 あからさまに腹を立てて反論しようとしたのだが、ピィスは気にせずサフィギシルの腕を取って部屋の隅へと引っぱった。小さな体に似合わない強い力でサフィギシルを屈ませて、耳元で何か囁く。それを聞いてサフィギシルはあからさまに動揺する。憎らしそうに顔をあげ、ひどく何か言いたそうな、だが言葉が出てこないような顔でピィスを睨んだ。ピィスはそれを涼しげに受け取りながら、悪どい笑みでまた椅子に座り直す。 「じゃ、明日までにオレの“タグ”も作っとけよ。今後しょっちゅう出入りさせて貰います〜」 「は!? 誰がそこまで」 「バラすぞ?」 にやりと笑い、あごで軽くシラを示す。サフィギシルは言葉を詰まらせたまま何も言えず、悔しそうに睨むだけ。ピィスはあっさり向きを変えて、カリアラに呼びかけた。 「良かったなー。明日はいっぱい遊ぼうなー」 カリアラは喜んでいいのかどうか複雑そうに、サフィギシルの機嫌をうかがう。作り主はそんなことには気づきもせずに、静かに壁に頭をあてた。行き場のない感情を抑えるように、そのままぐっと押しつける。 「んー、お前のそのクセ久しぶり〜。これからもヨロシクねサフィくーん」 「いつか絶対痛い目に合わせてやる……」 歯噛みしつつも完璧に敗北しているサフィギシルを見て、心底楽しそうなピィスに笑顔で親指を立てられて。カリアラは一つ学んだように、感慨深く言いきった。 「そうか。サフィよりもピィスの方が強いんだな」 「……間違ってはいないでしょうけど」 彼の中で確定された弱肉強食関係に、シラは小さく息をつく。 「多分ペシフが一番弱いな」 「ああ、それは確実ですね」 だが彼女もまた的確に厳しいことを述べるのだった。 ふと、カリアラが床に目をやった。シラも彼に寄り添って覗き込む。 「何かあるんですか?」 「ないんだ」 眉を寄せる彼女の方を見もせずに、カリアラは無造作に手を動かした。 「影。ピィスの家にはあったのに」 シラもそれに気が付いた。霧に囲まれて日光が届かないため、部屋の中を照らすのはむらのない魔術の明かり。光源の見えないそれは、不思議なことにものの影を映さない。 「……明かり」 「シラ?」 思考に浸りはじめたのか黙る彼女をうかがうが、シラはそれをさけるように柔らかく微笑んだ。 「いえ。なんでもありません」 カリアラもつられて同じ顔をする。シラはその顔のままで手を伸ばし、彼の顔をやんわりと修正した。 「嫌だったのか」 「はい」 頬一つひきつらせずに、にっこりと肯定する。カリアラは一人静かによそを向き、ただ無言で顔をこねる。そんな『作品』たちを気にすることもなく、作り手たちはまだ賑やかにもめていた。 |
静かな家の静かな夜更けに足音がひとり分。それはある場所でぴたりと止まり、前置きもなく扉を開けた。広がるのはただ薄暗い作業室。動かない手足や頭が本と共に積み置かれる乱雑な部屋。
その壁に、一人分の黒い影。 「……誰だ」 カリアラは静かに問う。戸惑いと警戒の見える声が廊下に響く。 影はゆらりと壁を動き、その根元に一人の男を現した。 「――サフィ?」 「あ?」 だるそうに身を起こしたのは間違いなくサフィギシル。カリアラはぽかんとして彼を見つめ、不思議そうに問いかける。 「あれ、サフィか? 今、ここにいたの。お前だけか? あれ?」 「何寝ぼけてんだよ。ずーっと俺一人だけ。大丈夫かお前」 サフィギシルは寝そうに目をこすりつつ、伸びをした。カリアラは納得がいかないように部屋の中を見回したが、家主以外は誰もいない。ただランプの明かりが多様な影を作るだけ。 「……そうか。間違えた。ごめんな」 「はいはい、ちゃんと寝てろ。じゃあな」 ぞんざいに手を振られ、カリアラは大人しくその場を去る。最後に一度不可解そうに首を傾げ、自分の部屋へと戻っていった。 サフィギシルは彼が去るとしばらくぼんやりしていたが、唐突に頭を落とし、その体を壁に寄せた。意識が飛んでしまったような、だらしなく呆けた表情。 開かれたまま意志の見えなくなった目に、ほんのりと魔力が宿る。 それが、ゆっくりと歪んだ。口元を引きつるように笑わせて、歌うように低く囁く。 「……誰もいないさ。 だァー、れも」 くつくつと喉の奥を震わせて、ランプの明かりを吹き消した。すべての姿が黒く紛れて、月明かりも届かない完全な夜に支配される。 その深い深い闇の中で、彼は静かに動き出した。 |