じゃく、と小気味のいい音がして、白い髪が落ちていく。 「うわ、切りすぎてない?」 動かないよう言われていたが、膝に落ちる髪の長さが気になってしかたがない。サフィギシルは振り返ろうと試みるが、耳元ではさみの音がして、首を元の位置に戻した。 「だって、短い方が楽でしょう?」 そう言いながらはさみを操る彼女の髪は、ゆるやかに波打ちながら腰のあたりまで伸びている。それよりはまだ短かったのに、とぼやくサフィギシルの髪を、彼女――元気になった人魚の女性は遠慮もなく切っていく。楽しげに刃物を操るたびに、床に敷いた青い布には白い髪が散らばった。サフィギシルは彼女にとっては窮地から救い出した恩人であるはずなのに、他愛もない彼女の遊びに反抗するすべを知らない。彼はただ困ったように椅子の上に縮こまる。 「あんまり切りすぎると別のやつになるだろー……」 ため息のように言うが、彼は既に諦めていた。 彼女を助けてもうひと月が経っていた。長い昏睡から目を覚まし、現状を受け入れた彼女がすぐさま頼んだのは、仲間を連れて来て欲しいことと、ひとまずここに置いてほしいということだった。ひとつ目は、魔術師であるペシフィロが得意とする転移魔術で探しに行った。数週間前、杖をなくしたので遅れる旨の手紙が来たが、そろそろ到着するはずだ。 どういうわけかサフィギシルたちと同国の言葉を使う人魚はシラフリアと名乗り、事情の割には警戒を見せることもなく、いつもひなたを眺めるようなやわらかい笑みを浮かべている。人の髪を嬉しそうに切り始めたのは、慣れすぎのような気もしたが、そんな戯れにも喜びを感じるほど、サフィギシルは彼女に惹かれていた。 「はい、これで半分終わりました」 「えっ」 既に全身は切り落とされた髪の毛だらけになっている。サフィギシル疲れを感じながらも腕に乗った髪を払い、彼女が切りやすいようにと姿勢を正した。 「珍しいですよね、お若いのに白髪なんて」 「人魚よりは平凡だよ」 くすくすと至近距離から笑い声。彼女の声はそれ自体が何か力を持つような、不思議な音で耳に響く。彼女が喋るたび、サフィギシルはまるで心地良い音楽を聴いているような気分になった。顔つきがうっとりとゆるみそうになるのが恥ずかしくて、あえて気のない声をつくる。 「……人魚、ねぇ。いるもんだな探してみれば」 「あら、おとぎ話の絵空ごとだと思ってました? あなたのしていることの方が、人魚よりもお話みたいじゃありませんか」 「まあ、そうかもしれ……」 言い終えるより早く、部屋の空気がうなりを上げた。 「やっと帰ってきたよ、あの人」 サフィギシルはため息をつこうとしたが、入り口に駆けていく彼女の背を見てそれを忘れる。美しい人魚は断りもなくあっという間に部屋から消えて、残されたのは自分だけ。 「……魚だろ?」 サフィギシルは中途半端な髪をかき、面白くなさそうに呟いた。 「カリアラさん!」 ドアと共に口を開く。驚いているペシフィロを気にかけることもなく、彼女は彼の抱えた入れ物を覗き込んだ。間違いなくカリアラカルスがそこにいる。銀色の魚は彼女を見つけて嬉しそうにぴしゃりと跳ねた。 「もう逢えないかと思った……! ありがとうございます!」 「あ、はい。いやーすみません遅くなって」 今までにないふたりの様子に戸惑いつつも、ペシフィロは入れ物を彼女に渡す。彼女は愛しそうにそれを抱きしめた。奥の部屋からサフィギシルがやってきて、さっきまでとは格段に違う彼女の笑顔に寂しげな顔をする。だがペシフィロが苦笑するのを見て、気に障ったのかそっけなくよそを向いた。 「ま、これで全部解決したってわけだ」 どうでもよく言い捨てて、ふと彼女の様子に気づく。何か困ったような顔。その目の先にはばしゃばしゃと騒ぐ魚。 「何? 魚違いだったとか?」 訊いてみるが反応はない。彼女はただ言いにくそうに、こもらせつつ口を開く。その相手は暴れているカリアラカルスだ。彼女はまるで魚に問いただされているようだった。 「いえ……その……」 彼女は、ゆっくりと入れ物を床に下ろす。サフィギシルもペシフィロも一体何についてのことか理解した。彼女はカリアラカルスに現物が見えるよう、スカートの裾を上げて指をさす。 ――その、白く細い人の足を。 「私……人間になっちゃったんです」 カリアラカルスは呆然として固まった。 |
「無理!」 サフィギシルは声高く身を引いた。 「無理無理無理、不可能だ! こんな魚に耐えられるわけがない」 席を立とうとする彼を、シラフリアがじっと見つめる。哀しそうな、何かを言いたそうな目で。彼は思わず口ごもり、座り直すが繰り返し首を振った。泣きそうな彼女を見つめ、ゆっくりと諭す態度で口を開く。 「だからね、いくら俺でも万能じゃないんだから。確かに人の体は用意できる。かたちだけなら家中に材料も転がってる。ここはそういう工房だ。体造りは不可能じゃない。でも」 ちら、と水槽に置かれたピラニアを見る。魚はまるでこちらの話を聞いてでもいるかのように、回遊しつつ視線を投げかけてくる。サフィギシルは目を逸らし、戸惑いながら話を続けた。 「魚が人間になるなんて……。魂を移植したら、ろくな意識が残らない。耐えるだけの力がないんだ、動物には。人間だって移植はイチかバチかなんだ。魚なんかじゃ記憶も意志も粉々になる」 「でも、彼はただの魚じゃない」 シラフリアが落ち着いた声で言う。思わず寒気を感じるほどに静かな表情。 「カリアラカルスという魚がどういうものか、聞いたことがありませんか?」 「……知らない」 見つめた先で彼女は空気を変えるように、得意そうな顔をした。 「魔力魚と呼ばれていたこともあります。人に匹敵するほどの、大量の魔力を持つ魚です。そして彼は頭がいい。私が教えた人の言葉を、あっという間に覚えました」 「でも、それじゃ逆に難しくなる。思考が複雑になればなるほど、その分壊れやすいんだ」 「あら、人間はもっと複雑なんでしょう?」 気がつくと彼女は微笑んでいた。助けてから毎日のように浮かべていた、いつも通りの優しい表情。 「だけど……」 説得を求めた先で、ペシフィロは複雑な顔をする。困ったように、カリアラカルスに話しかけた。 「カリアラ君は、どうしたいんです?」 ひと月の同行で仲が良くなったのか、ただの魚でないピラニアは、それに耳を傾けるようにペシフィロに近づいた。 「危険を冒し、人間になれるかどうか賭けてみるか。このままずっと……ピラニアとして暮らしていくか。ええと、人間になりたいのなら回ってください。なりたくないのなら、跳ねてください」 サフィギシルはシラフリアが合図を送るのではないかと確認するが、彼女は口を結んでじっと魚を見つめている。カリアラカルスも同じ目で彼女を見つめ返す。 そして、ぐるりと水槽の中で回った。 まるで返答を求めるかのように、カリアラカルスは丸い目でサフィギシルを見る。戸惑ったサフィギシルが視線を泳がせると、シラフリアも彼を見ている。ペシフィロも、困ったように視線をよこす。その場にいる全員が、サフィギシルの決断を待っている。 「…………」 集中に耐えきれず、彼は頭を抱えてテーブルに突っ伏した。 「知らないよ……どうなっても」 こぽ、と歓喜にも似た音を立てて銀の魚が沫を吐いた。 |