プロローグ「人魚のために」
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 約束の夜が来ても、彼女は『狩り』 から戻らなかった。
 銀色のうろこを舐めるようにして、じわじわと不安がこみ上げてくる。嫌なそれを消し去ろうと、“彼”は過ぎた時間を数え直した。ヒトセ、フタヤとシ分け半。彼らだけの数え唄を奏でると、口の先から小さな沫がぷくぷくとこぼれて昇り、高い高い水面へと去っていく。それが消えて残ったのは、ただただ暗い川の底。聴覚、視覚、水を感じる触覚とそして側線。小さな体を極限まで揮わせて探しても、彼女の気配は近くにない。水は動かず、音もなく、“彼”のもつささやかな目には純粋な夜の闇しか映らない。
 熱帯島、ボウク川の奥深くには、カリアラカルスと名付けられたピラニアの奇種がいる。彼はその一匹だった。磁場を狂わす密林までは人の手が届かない。深い自然そのままの、緑を分け行く川の底で、彼は彼女を待っていた。幼いころから育ててくれた、人を避けて暮らす人魚を。いつも傍にいた唯一の仲間を。
 彼女が『狩り』 をしたがるのはいつものことで、定例の遊びのようなものだった。いってきますと外へ出かけ、望み通りに力を満たして帰ってくるはずだった。その尾びれをいっそう輝かせ、嬉しそうに残り物を携えて。
 だが彼女は戻ってこない。教わった日時の数え方で、そろそろ三日になりそうだった。彼は鈍い銀のうろこを震わせる。まるで何かに怯えるように。

 ―― ヒトセ、フタヤ……ミツシ。

 ぷか、とまた沫を吐く。今度は大きな一つの沫を。
 それが頭上の藻に当たり、絡まるように弾けると、彼はつっ、と南に向けて泳ぎだした。
 彼女の消えた森の外へ。

※ ※ ※

「何やってんの、早く!」
 静まりかえった暗い廊下を二人の男が駆けて行く。
「ちょ、待って下さ……見つかりますよ!」
 互いの声は直に耳に伝わりあう。そのたびに使役される魔力が耳元で光を放った。一人の右手に、それらを操る魔術師の杖。二人は共に黒色の服で姿を闇に紛らわせ、目の他すべてを同色の布で覆い、その姿を隠している。だが足音を消すすべはなかったのだろうか。老朽化した木敷きの廊下は彼らの動きを嘲るように、靴音を響かせていた。
「大丈夫、誰もいない」
 先を行く青年が囁いた。若い彼に遅れながら、魔術師もあたりを見回して言う。
「そんなはずは。確かに聞いたんです、今夜こそ決行すると」
「今やってるのかも。手術室どっち?」
「右です」
 言うと同時に青年は確認もせず右に曲がる。警戒する魔術師の注意も耳に入れず、布からのぞく青い目がドアの札を確認した。望み通り、『手術室』と書かれている。
「ここ? ……静かだな」
 役割の割には平凡な木の扉。耳を寄せるが、中からは何も聞こえてこない。
「ペシフさん」
 青年が振り返ると、数歩後ろで魔術師は静かに転んでいた。器用にも声を出さないままに。
「……入るよ。撤退の準備してて」
「き、気をつけて」
 あんたがね。と相手にも聞き取れないほど小さな声で呟いて、青年はひやりとしたノブを握る。かちゃ、と静かな音。細く開いた隙間から、生暖かい液体が流れて彼は息をのむ。足を引くと、それは中の光を浴びて輝きながら飛沫を立てた。夜に響く水の音。
「なに、生ぬる……」
 呟きながらそれに気づき、驚いてドアを引き開ける。新たに視界に入ったのは水浸しになった床、整然とした道具棚、中央に設置された手術台。その上に血まみれの女性が倒れている。
「大丈夫か!? ペシフさん退避! 中に来てこのまま跳んで!!」
 彼女の他には誰もいないと確認し、彼は後方を急かしながら部屋の中に飛び込んだ。ランプの明かりを浮かべた水を蹴散らして、女性の傷を確認する。足を深く斬られている。
 ……いや、正確には足ではない。青緑色のそれは薄いうろこに覆われた魚の形の下半身。
 人魚だ。
 初めて目にするそれにためらい、伸ばした手を取り下げる。だが彼女が低くうめくのを聞き、慌てて傷を確認した。かなり深い。整った人魚の顔立ちは失血のため暗い青を帯びている。苦しげに震える体を伸ばしてやり、そこらに転がる手術器具を邪魔とばかりに床に落とした。水の跳ねる音。とっさに見るが、部屋中に広がるそれは血ではない。生ぬるい水が何なのかと検証する暇はなかった。
「大丈夫、俺なら治せる。とにかくうちに運ぶ。ねぇ呪文まだ!?」
 焦りのまま振り向いた先では魔術師が杖に力を込めている。その口が紡ぐのは撤退をもくろむ呪文。
「――できた、構えて下さい!」
 杖の先から飛び出した光が渦となり魔術師を取り囲む。青年は震える人魚を抱きしめた。
「目ぇつむって、掴まってて」
 湿った手がしっかりと彼の体を掴む。細い喉を震わす呼吸が服越しに男の肌を叩いていく。傷を避けて抱きあう二人に向けて、魔術師は呪文を続けながら杖を振った。緑の光が彼らを包む。魔術師が二人を抱いて鋭く叫ぶ。
「『跳べ』!!」

 三人の姿が消えた。まるでどこかに吸い込まれていくように、残った光もすぐさま消える。後はただ、誰もいない水浸しの静かな部屋で、ランプが火種を燃やすだけ。



 作業室に移された人魚は、抵抗もなく彼らのされるがままにしている。湿った体は血の気が失せてまるで死体のようだった。
「間に合いますか?」
 深刻な声で魔術師が問う。青年は作業を進めながら答えた。
「大丈夫、生命力がかなり強い。でも、これはもう……」
 人魚を見下ろす顔つきはたちまちに弱くなる。だが強い目が、それを捉えた。
「…………」
 人魚は血走らせた水色の瞳で青年を見つめている。濡れた髪が貼りつく頬には血液が散っていた。人形のように精密な顔立ちは、常ならばとても美しいのだろう。だが色を失い、小刻みに震える今は見るものに怖れを与える凄惨さをもっている。
「……カナ」
「え」
 黒ずんだ唇が薄く開く。
「さかな、を。彼に、教え――」
 人魚は体を折って咳き込んだ。青年が背をなでようかと伸ばした腕は、息を呑むほどに強く掴まれる。
「お願い。“彼”に、私のことを……伝えて。もう約束の夜が過ぎて、不安になっ」
 また、咳き込む。彼を掴む力がいっそう増した。
「伝えて……ボウクのピラニア、カリアラカルス……お願い」
 必死な目が彼を捉える。逸らすだけで打ち殺されてしまいそうな、凄烈なまでの瞳。
「お願い」
 言いきると人魚は崩れ落ちた。青年が慌てて確認すると、息はある。強い意識の支配を解かれて彼は一瞬呆けたが、気を取り直して静かに告げた。意識のない彼女に向けて。
「とにかくまず君を治す。何もかもその後だ」
 慎重に台へと寝かせ、器具を取ると魔術師に目を向ける。
「魔力を」
 魔術師はうなずくと杖を掲げて呪文を唱える。
 淡い緑の光の中で、瀕死の人魚はただ静かに眠っていた。

※ ※ ※

 彼女の気配を探しながら、果てがないと感じるほどに広大な河を行く。彼女を捜すと決意して一体どれだけ経っただろう。わずかな手がかりすら見つからないまま、数え方を知らないほどの夜が明けた。
 彼が水を渡ると他の魚は影を潜める。そのために広く開いた場所で微生物を飲み込みながら、彼は彼女の気配を探っていた。隠れた魚に問いただしてもろくに言葉は通じない。人魚と語る彼とは違い、他のものには複雑な会話など必要ないのだ。この川の中では、生活に根付いた情報以外はすぐに忘れ去られてしまう。
 意識せず食べていた生き物が旨くないと気づき、彼は小さな口を閉じた。好物がどこかにいないかと、意識を初めて彼女以外に向けたのと同時にそれは起こる。
 彼の周りをぐるりと細かい沫が走った。ごぽ、と水が鳴る。景色がぶれたかと思えば視界全てで沫が踊り、明るい光を攪拌して水の中に躍らせる。彼は混乱のままに暴れるが、状況は変わらないまま不思議な心地に包まれた。まるで波に弄ばれたようなそれは浮遊感。遠くから水飛沫の音がする。
 ――下だ。下から、水の跳ねる音。
 抵抗をやめると水の震えが収まった。周囲にあふれていた細やかな沫は昇りきり、残されたのは彼一匹と、透明な澄んだ水。その向こう側には広い広い青が見えた。彼は魚の脳で疑問を覚える。確か、あれは“そら”というものだったはず。いつもは高くにあるものだ。それが、どうして目の前に広がっている?
「見つけたああ!!」
 人の声が腹の底を震わせる。不思議なことに、それは彼よりも低い位置から響いていた。人間の声であれば、常に頭上からするはずなのに。水を通して濁るそれは、懐かしい彼女が喋るものと同じかたちをしていた。だが声色はそれより低く、彼女ではないのだと残念ながら教えてくれる。
「これですよね! これカリアラカルスですよね! ベポニカ!?」
「ポッカ。ポウ、ヤー」
 ぽうぽうと、耳慣れない人間語も耳に届く。
 その二つの音のほうへ、彼は水と共にゆっくりと降ろされた。

※ ※ ※

「カリアラカルス!」
 空に浮かべた水球に聞いた通りの魚を見つけ、ペシフィロは諸手を挙げて喜んだ。その手にある魔術師の杖は握りすぎて汗ばんでいる。川の水を何度も何度も採っては浮かべ、どれぐらい粘っただろう。慣れない気候で体はもうくたくただ。これでやっと、国へ帰ることができる。
 助け出した人魚の頼みは言葉にすると短いが、実行するにはかなりの時間が必要だった。人の手がほとんど入っていない、広大な熱帯島の深くから、一匹の魚を見つけ出してくるなんて。しかしそれももう終わり。後は彼女に届けるだけだ。ペシフィロは杖を操り、ゆっくりと空中の水球を下ろし始めた。中の魚が混乱して暴れているが、魔術の膜は破れない。
「ああよかったー、よかったー。ありがとう、ロポムーナー」
 小船を操ってまで助けてくれた現地民に礼を言う。若い彼はにこにこと笑いながら、独特の仕草でそれに答えてくれた。
 だがなごやかな空気を壊すように、ぱちゃ、と水滴が頬に落ちる。見上げると、まんまるく切り取って宙に浮かべた水の端が形を崩してこぼれていた。
「え?」
 言った瞬間、ペシフィロは手の中に杖がないと気づく。
「ナポ」
 現地民が笑いながら川の水面を指さした。見開いたペシフィロの目に映るのは流れていく彼の杖。驚いて声をあげると現地民はおかしそうに笑い転げる。
「ど、どどどうす」
 ハッとしてとっさにバケツを持つのと同時、魔術が消えてただの水になったものと、中の魚が急降下してそこに到着。ペシフィロは激しい飛沫に目をつむるがすぐさまバケツを覗き込むと、魚は中で跳ねていた。びくびくと力強くバケツを揺らす。ペシフィロは慌てて上から網をかけて、手作業で水を足した。酸欠を防ぐために適当な植物もちぎって入れる。
 抱えるほどのバケツの中で魚は激しく暴れている。思ったよりも大きなそれは、両手では掴みきれないほどだろうか。にぶく光る銀のうろこ、その腹のあたりではオスの印である鮮やかな赤色が燃えるように渦を巻き、尾びれの近くには傷の跡が残っている。ぎょろりとした丸い目に睨まれている気がして、ペシフィロは語りかけた。
「大丈夫、だ、い、じょ、う、ぶ。人魚さんの所に連れて行ってあげます。わかりますか? シラフリアさん。あなたの、なかま」
 ゆっくり、はっきり、わかりやすく声をかけると現地民がまた笑う。だが魚は理解してくれたのか、唐突に静かになった。魚に表情筋などあるはずはないが、どこかぽかんとした顔で、ペシフィロを見上げたまま沫を吐く。まるで何かを尋ねるように、魚は鋭い歯を動かしては尾を振った。
「すみません、わかりません。でも、すぐに会わせてあげ……」
 ペシフィロは言葉の途中で気がついて、水面を見渡した。だが流れた杖はその影すら見当たらない。大切な、術を制御するのに必要な杖。人魚の元へ 『跳ぶ』 ための――。
「ご、ごめんなさい」
 魚に向かって謝った。現地民が腹を抱えて笑い出すが構っていられる余裕はない。
「会えるの……ひと月はかかってしまうと思います……」
 熱帯島と、彼の国には正規で渡ると結構な距離がある。その意味を理解できず、カリアラカルスは彼の顔をただぽかんと見上げるだけ。現地民がその光景によりいっそう笑いだした。


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