ノーサイドエンドレス「戦いの、その続き」
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 教会の裏手には広々とした野原があり、使い道の見つからないまま長い間放置されていた。だがいまやその場所には無数の穴が掘られており、様相は一変している。何よりも広がる色をがらりと違えられている。好き勝手にはびこっていた緑の草は黒ずんだ灰色に塗り替えられ、まるで沼の絨毯を敷いたようだ。
 いくつもの穴は、きめ細やかな泥で満たされている。
 暖かい日差しの下、今日もその沼のプールで黒い獣がくつろいでいた。
「ヤズトゥール様!」
 それを眺めていた男に声がかかる。彼は穏やかな表情のまま、駆け寄る当番の者に笑いかけた。
「ああ、今日はお前だったか。ここの仕事には慣れたか?」
「ええ、おかげさまで。故郷では牛の世話をしていましたしね。でもなんにも言わない牛よりもこっちの方が面白いです。魔獣だなんて言うからどんな化け物かと思ってたけど、結構言葉は通じるし、みんな喜んでくれるし」
 笑う彼は支給された作業服を泥に濡らし、歩いてきたあちこちに足跡をつけている。こすってしまったのだろう、頬にも汚れがついているが、特に気にする様子はなかった。
「ニーテンさんなんて、最近は一緒にチェスしてるんですよ」
「え? あの手でどうやって駒を持つんだ」
「置く場所を口で言ってもらって。まだ弱いそうですけど、どんどん強くなってるんですって。いつか負けたらどうしようって言ってました」
 ヤズトゥールはその光景を想像して笑った。かつて魔獣と呼ばれていた生き物にこてんぱんにされるのは、一体どんな気持ちだろう。見回せば人工の沼地には四十近くの獣が暮らし、それぞれに泥を被ったり、暖かい場所で草を食んだりとのどかな景色を作っている。
 人間の言葉を教えるのも、彼らとの通訳をするのもエミールの仕事だった。彼女は聖女という肩書きを捨て、今は獣と人の仲介を主な仕事として受け持っている。これまでよりずっと気さくになった美しい人に、改めて惚れ直す者は多い。
 そのうちの第一号とでも言うべき男が、息を切らして走ってきた。
「ヤズトゥール様っ。エミールを見かけませんでしたか!」
「あちらに行くと言っていたが……」
 呆れて言うと、ツタハは青ざめて髪を乱す。
「ああもう! 体だけ無防備に残すなとあれほど言ったのに。すみません、探してきます!」
「別に、ツタハさんが見張ってなくても大丈夫なのにねえ。抜け殻になにかした日には、そいつ、みんなから袋叩きに遭いますよ」
「まったくだ」
 エミールに悪さをするものは速攻で粛清されるに違いない。それほど熱狂的な支持を受ける彼女も、今のところは誰かになびく様子はないが。
 当番の男が、つまらなさそうに言う。
「じゃあ、あきらちゃんは今日は来てないんですね」
「今は試験前で忙しいそうだ。どうした?」
 尋ねると、彼は照れくさそうに笑った。
「いえ、おいしいお菓子をもらったもので。あげれば喜ぶだろうなと」
「それはいい。明後日には来るそうだから、取っておいてあげてくれ」
「はい!」
 爽やかな返事に獣たちが喜びの声を上げる。「ごめんな、お前たちにあげるんじゃないんだ」と彼は皆に向けて言うが、獣は菓子に対してではなく、彼らの盟主の喜びに賛成を唱えているのだ。相変わらず慕われているあきらを想い、ヤズトゥールは羨ましい息をつく。改めて泥を被る野原を見て、何度目か知れない感心を呟いた。
「……しかし、日本にはいいものが売っているな」
「ねえ。これがなきゃ、俺たちみんな悪臭で倒れてますよ」
 魔獣と呼ばれていた獣たちは、体温の保護のために泥を被り続けなければいけない。だが彼らが使用していたそれは臭いが酷く、人間に害を成す菌が多数蠢いている。
 それを解決したのが、あきらの鶴の一声だった。ヤズトゥールは先ほどから追加しようと置いていた袋を見る。ビニールで閉じられたそれには、デザイン化された女の体がラベルとして印刷されていた。鮮やかな明朝体で商品名が記されている。

     お肌つるつる泥エステ 業務用

「日本の女は変わった方法で肌を磨くな」
「ええ。想像もつきませんよね、泥で肌を覆うなんて」
 真剣にうなずく男の腕は、作業を続けてきたからだろうなめらかに輝いている。ヤズトゥールもつるりとした己の肌を改めて撫でさすった。

※ ※ ※

「違うのだー! なんでそうなるのだっ」
「なんでじゃねーよだからずっと言ってるだろ。ああうるさい。ああやる気なくなったー」
「な、なんだその言い方。ちゃんと真面目に考えるのだ!」
 いつも通りのやり取りに、俺はうんざりと頭を落とす。まったく、なんて文句が多い奴だ。さすが元魔獣は頭が悪い。あきらは逃避する俺の肩をわっさわっさとゆさぶった。
「だから、『ふれあい広場』の方がいいのだ! それにするのだ!」
「ちげーよやっぱ『わくわく牧場』だよ。そういう雰囲気出てるもん」
「牧場じゃ飼育されてることになるのだ! そういうのは差別なのだー!」
「結局飼育と同じじゃねーか。餌は俺たちがやってんだぞ? ほーら飼育だ、魔獣飼育ー」
「ひどいのだ! そんな考え方じゃ、いつまで経っても他の国と和解できないぞ!」
『わたくしたちとしてはどっちでもいいので、さっさと決めてくれませんか』
 論争に付き合わされてうんざりしているのだろう。ルパートは長い頬の毛をふわりと揺らし、俺の膝に顎を乗せた。
『圭一さん、マッサージお願いします。まったく、毎日毎日アホな男どもの相手をして疲労が玄界灘ですよ』
「何様だ。お前は一体何様なんだ」
 だがとりあえず減るものでもないし、と俺は寝そべったミニチュア・シュナウザーの背中をゆっくりとほぐしてやった。あきらが羨ましげな顔をするが、それは見ないことにする。そういうのは後だ後! とりあえずは目の前の問題を解決しなければ。
「もう間を取って『ふれあい牧場』にしよう。はい決定」
「だめなのだ、牧場がいやなのだっ」
 最近の俺たちはずっとこんな調子だった。魔獣という呼び方は印象が悪いので、新しい名前をつけることにしたのはいいが、それがもう決まらないこと決まらないこと。おまけにそちらがまだ解決していないというのに、この馬鹿あきらは獣たちの暮らす場所の名前まで決めようとするのだ。まあ、こちらはほとんど冗談で牧場を推しているのだが。あきらの反応が面白いので、ついついからかってしまう。
 俺たちがこの世界に戻ってきて、もう半年近くになる。一週間程度とはいえ行方不明になっていたのだから、学校でも家庭でもそりゃあもう大騒ぎだったらしい。家出か、駆け落ちか、それとも事件に巻き込まれたのか。帰ってきた途端に俺たちは質問の渦に巻き込まれて、ついでに駆け落ち疑惑が強かったせいでバラバラに引き離されて、うっかりと本当に駆け落ちでもしかねない状況に立たされたりと、とにかく大変な日々だった。
 結局、学校はともかく家庭方面には本当のことを告白している。
 もちろん、言ったところで信じてもらえるわけがないから、何回もあっちの世界に渡って経験してもらって。あきらの両親は特に猜疑心が強くて、一回や二回の転移じゃ信用してもらえなかった。やれ夢だの幻だのと、随分てこずらされたものだ。
 だがあきらがいなくなったことがよほどショックだったのだろう。留守がちだったあきらの親は、今は仕事を調整しては、優先的に娘との時間を取っているそうだ。泥エステの大量購入にも協力してもらったし、そもそも購入資金を生み出すための、教会にある貴金属の換金もすべてやってもらったのだ。うちの親は理解こそ早かったが、そういうのには疎いからな。本当に助かった。
 あきらの両親の協力を得たおかげもあって、獣と人の新たな暮らしはおおむね上手くいっている。百パーセントではないが、まあ及第点というところだ。
 俺たちは今まで憎き敵としていた魔獣たちと和解して、共に生きる道を選ぶ。そして、その生き方を国の方針にまで昇華させ、一度は支配した国々とも平和的に交流し、正常な貿易の中で飢饉による飢えを防ぐ。うちの国はラブアンドピースですよー今まですみませんでした今度こそ仲良くしましょう。というのが、俺たちの目指す国の形である。魔獣と恋ができるんだ。国境なんてなんのそのだ。
 まあ、それはあくまでも理想論であって、実際にどうなるのかはわからない。だがとりあえず今のところは平穏な日々を送っている。問題が起きたらその時に悩めばいいのだ。考えれば、わりとなんとかなるのだから。
「圭一、聞いてるのか? だーかーら、牧場はだめなのだ。せめて『わくわく広場』にするのだ!」
「えー、どうすっかなー。やっぱ牧場は捨てがたいよなー」
『いい加減にしないと反吐を叩きつけますよこのノータリン。まったく、いつまで経っても大人にならないアンチテーゼの住民ですね』
「なんだその文学的な響き」
 そしていつまで経ってもお前はお前のままだなあ。変化の見えないルパートに、俺は安堵のまま更なるマッサージを施してやった。気持ちがいいのだろう、尻尾が心地よく振れている。
「ルパートばっかりずるいのだー……。ふーんだ。圭一なんて台所の包丁でザクッといっちゃえばいいのだ」
「お前それ四回目」
 まったく、自殺の勧めを口癖みたいにしてどうする。まあ、これも愛のある軽口だとわかっているから、俺も元気よくツッコミを入れてやれるがな。
 悔しげにどーも君抱き枕を抱きしめていたあきらが、そうだ、と手を叩いた。
「いいことを思いついたぞ勇者」
「ほう、なんですか魔王様」
「昨日テレビで早口言葉をいろいろ紹介してたのだ。我とお前が順番に挑戦してみて、先にギブアップした方が負けで、勝ったほうの名前を採用。どうだ!」
 ふん、まったくくだらないことを毎日思いつくものだ。俺はうきうきと弾む心を押さえきれず笑顔になる。
「じゃあもうひとつ。負けた方は、さらに海に向かって『お前が好きだー!』って大声で叫ぶってのはどうだ?」
「望むところだ。絶対に我が好きだと叫ばせてやる!」
 あきらも俺と同じ顔でわくわくと笑っている。ルパートが呆れた息をついているが、そんなものはどうでもいい。俺たちは勝敗表を作るため、紙とペンを取り出した。早口言葉か。難しそうだがコツを掴めばそうでもない。今日の勝負は俺の勝ちだな。まあ、あきらもそう考えてるだろうけど。

 くだらない遊びをして、俺たちは今日も盛り上がる。
 この部屋には毎日のように元魔王が居座っていて、元勇者の俺の生活は騒がしくて仕方がない。
 おまけに前世の国の問題まで持ち出してきて、しかもそれは一介の高校生なんかに解けるほど簡単なものじゃないのだ。気苦労が絶えないというか、毎日毎日どうしたらいいか考えてばかりで、こうやって誰かと議論をして戦ってみたり、それで喧嘩に発展したり。まったく、絶望と言った司教様の気持ちもなんとなくわかってくる。

 それもこれも、水谷あきらという魔王が俺に呪いをかけたせいだ。
 もう一度逢いたいと、いつまでも一緒にいたいと思わせる、強力な呪いをかけたから、俺はこんなにも幸せなのだ。

 俺は最近、転生というシステムを作り出した神をブン殴りたくて仕方がない。
 そしてその後で抱きついてキスでもして、思う存分愛したいと思わずにはいられないのだ。
 まったく、大変な呪いである。
 まあ勇者としてはゲーム一本ぐらいは使って呪いを解くべきなのだろうが、俺はもうしばらくこのままでいたいと思う。むしろ、解けないように努力をしながら毎日をすごしているのだ。
 まったく、大変な呪いである。

「いくぞ圭一! まずは『なまあたたきゃいかたたっ……」
「はい負けー。罰ゲーム決定ー」
 いきなり破滅したあきらの頭をぐしぐしと撫でさすると、真っ赤な顔で抗議される。
「ち、違うのだ! 今のはナシっ。圭一こそ言えるのか? 言ってみろ!」
「あったりまえだろー。えーと、『なまあたたくわぃかたたた……違う! これはナシ!!」
『いい加減にしてくださいバカ二人。生暖かい肩叩き生暖かい肩叩き生暖かい肩叩き生暖かい肩叩き生暖かい肩叩き生暖かい肩叩き生暖かい肩叩き生暖かい肩叩き生暖かい肩叩き生暖かい肩叩き生暖かい肩叩き生暖かい肩叩き生暖かい肩叩き生暖かい肩叩き生暖かい肩叩き』
「スゲー! 何回言ったんだお前!!」
「すごいのだ、ルパートが優勝なのだー!」
『ふふん、所詮舌の訓練を粗末にする人間ごときが、わたくしに勝てるはずがないのです』
 ちくしょう、なんて隙のないやつだ。俺とあきらは揃いに揃って奴への闘志を燃え上がらせる。
「圭一、練習だ! 絶対にルパートを倒すのだっ」
「おう! なまあたたかいかたたたきゅっ。……なまあたたたたっ」
「なまあたたたかいあたた、……あれえ? あれえ?」
 首をかしげるあきらの肩を励ますしぐさで叩いてやり、俺たちはまた立ち上がる。見てろよルパート、早口言葉の王座は俺たち二人のものだ!
 俺たちはそうして日が暮れるまで懸命に練習を続けた。
 いつもとなんら変わりなく、大好きな時間を過ごした。



[END]



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