第46戦「台詞忘れた!」
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「魔王に逢いたくて仕方がないんだ」
 呟くと、まだ若い部下たちは驚いて振り向いた。一体何を言い出すのかと気まずげに歪む視線。私は切ないまでの感情を心のままに口にする。
「迷いが醒めた時……いや、まだこの世界にいた頃から、ずっと魔王を求めてきた。ほんのひと時でいいからと常に願い続けてきたのだ。なぜだかわかるか?」
「い、いいえ」
 私は喜びのままに笑みを浮かべた。
「その悪を滅ぼすことが、私にとって何よりの幸福だからだ」
 皆の口から歓声にも似たため息が漏れる。緊張に冷えていた部屋の空気がいくらか火照ったようだった。私は、これならばもう心配ないと聖剣を手に立ち上がる。
「勇者様、もう行かれるのですか……?」
「明日は早い。お前たちもそろそろ体を休めなさい」
 不安がる新人たちを勇気づけるのも勇者の役目だ。私は、神のお言葉のままに人々を導いていかなければならない。迷うものには正しき道を。そして悪は滅ぼすのが私の使命であり、全てである。他に必要なものなど何もない。
 私は求める目を向ける若者たちに、次なる導きを与える。
「明日は行き先が変わった。地図を確かめておくように」
 きれいに揃う了解の声が去る私の背を撫でた。

 扉を閉めた私は湧き上がる笑みを止められない。胸の昂ぶりが表情を完全に支配して、ともすれば高らかに歓びを叫びそうだ。魔王に逢える。この手でまた奴を殺すことができる。それだけで天へと駆け上がることができそうだ。浮き立つ足は、すでに明日の目的地に向かいたがる。
 今は廃墟となった聖地。私が、魔王を殺したあの場所だ。
 凶悪な魔獣たちは、我々に決戦を申し込んだのだ。不敵にも郵送で届けられた手紙には、日本語で「果たし状」と記されていた。送り主は魔王の名。内容は、あの場所で待つという一言だけ。
 魔獣たちは愚かにも再び聖地を汚したのだ。天罰を下すため踏み込めば、生き残りの獣たちが大挙して取り囲むのだろう。それならば、我々も全力をもって奴らを潰す。私は明日の編成を再確認するため、作戦室へと歩いていく。
 その足がくらりと揺れた。あわや倒れそうになり壁に手をついたところで、ヤズトゥールが駆け寄る。
「大丈夫ですか」
「ああ、問題ない」
 彼はがさつそうな外見に反して、私のことをいつも細やかに気遣ってくれる。こんなにも良い部下を持つことができて本当に幸せだ。噛み締める喜びのままに微笑むが、ヤズトゥールの不安は消えない。彼は私の肩を掴んだまま、おかしなほどの真顔で告げる。
「迷いは、ありませんか」
「なんのことだ?」
 馬鹿なことを訊くものだ。私は彼の目を見て答える。
「迷いなどあるはずがない。私には神がついているのだから」
 瞬時、彼の瞳が弱く緩んだように思えた。だがそれはすぐに伏せられて消えてしまう。
「……ええ。その通りです」
 子どもを見守るような顔で、ヤズトゥールが浅くうなずく。
 私の頭にはもはや魔王を倒すことしかなく、彼が何を思っているかも、響き始めた頭痛についても考えることはなかった。

※ ※ ※

 磨かれた鉄の刃が朝の空気を受けて冷える。あきらは、聖台に置かれた剣を前に立ちつくした。ルパートが執拗にすすいだために勇者の血は跡形もない。だが、あきらの目にははっきりと彼の痕が見えていた。ルパートを覆っていた大量の血。彼の、決して強くはない体から流れたもの。
 飲み込んだ息は冷たい。この建物には暖かさというものがないのだ。かつて人間たちが聖地として崇めていた教会は、今やただの廃墟として静かに打ち捨てられている。壊された扉は泥の這う床に崩れ落ち、壁はいくつもの穴を持つ。窓はないのと同じだった。ただ、高く位置するステンドグラスだけが、誰の手にも触れられないままこの場所を見下ろしている。
 あきらは手を伸ばした姿勢で固まった。これを取ればもう戻ることはできない。武器を持ち、最後に残された手段で勇者の命を奪うしか。硬直していた全身がしびれを受けたように震えた。
 それ以外に方法はないのだ。あきらは彼らに武器を持たないと伝えた。嘘ではない。魔獣たちは戦う術を知らなかった。だが、人間として十六年を生きたあきらは、この道具がどんなにも危険なものかを知っている。
 勇者を殺す方法を、考えることもできる。
 物言わぬ剣は勇者の血をあきらの目に見せている。あきらは、その幻が記憶によるものではなく未来の予測なのだと気づいた。数時間後、この剣はまた彼の血に染められて、そして。
「盟主様」
 扉のない入り口からルパートが現れる。彼女もまたあきらと同じく一睡もできなかったのだろう。力のない目が泣きつかれた色で並んでいる。
「準備は、整いました」
「うん」
 あきらは笑う。一体何を心配するのかと明るく吹き飛ばすように。
 同胞たちは既に他の場所に避難させてある。ここには、もはやあきらとルパートのふたりしか存在しない。
「じゃあ、待とうか」
「盟主様」
 ルパートは喉の奥に痛みを抱える声で、そっと、囁くように言う。
「あなただけでも、ここから……」
 あきらは、また笑った。歩み寄って彼女の頭を優しく撫でた。
「人間たちは気が早いから、結構すぐに来るかもしれない。いつでも発動できるように、ちゃんと構えておくんだぞ」
 爪先立ちで背伸びをして、まるで大人のような顔であきらは彼女の髪を乱す。ルパートはみるみると崩れていく表情を紙一重のところで堪えて、はい、とかすれた声で返事をした。
 あきらは最後に一度ぽんと叩くと、ルパートに背を向ける。聖台に乗る剣を見ると一瞬瞳を揺らしたが、それを伏せてもみ消した。一歩ずつ足を進め、同じ数だけ破滅に近づく。一歩、また、一歩。
 あきらは、息を止めて剣を取った。それを、軽く握りしめた。
「……勇者が来る。迎え撃とう」
 まるで己に言い聞かせるかのように彼女は低く腹を据えた。

※ ※ ※

 まだ明けきらない朝の下を私は兵を率いて進む。人材にも装備にも何ひとつ隙はない。完全なる力をもって、今度こそ、魂すら残せないほど魔王を抹消せねばならない。森の空気は冷えていたが、我々は昂ぶる士気に愉快なまでの熱を持っていた。気配のない山道は、かつて巡礼のために作られたものだ。武装した男たちの行軍が、武器の音が、簡素なそれを賑わしていく。
 私はヤズトゥールを隣に立てて皆の先頭を歩んでいた。その足がはやるのは仕方のないことだろう。一刻も早く魔王をこの手で殺したい。駆け出したいのを長い間堪えてきたが、打ち捨てられた風情の聖堂が見えた瞬間、理性は雪のように融けた。

 私は雄たけびを上げて朽ち果てた扉の向こうに踏み込む。ヤズトゥールの制止が聞こえたがそんなものはどうでもいい。この手で成果を上げればいいだけだ。神によって祝福された聖剣を振り構え、私は絶叫と同じ声で魔王を呼びながら突進する。

 だが中には何もいなかった。魔獣たちがひしめいて待ち構えていると思ったのに。振り仰いでも見回しても、室内はただがらんとしているだけ。
 異臭を感じて我に返る。これは魔獣の毒の臭いだ。腐れた食物のような気配が、どこからか漂ってくる。私はそれをみつけて笑った。

 最奥に位置する祈りの間。
 以前、私が魔王の命を絶った。

 ざわめきと動揺が背後から聞こえてくる。部下たちが恐れながらも建物の中に入ったのだ。私は彼らに待機の命令を出す。他に邪魔をされるわけにはいかない。奴は私が殺すのだ。この手で、憎しみが絶望に変わるのを認めながらとどめを刺さなければ、気がすまない。
「魔王!」
 湧き上がる歓びに私は声を張り上げる。
「私はお前に逢いにきた! さあ姿を見せろ醜い魔物よ。魔王、魔王!」
 扉のない奥の部屋へと早足で歩いていく。たちまちに走りとなって私は中へと飛び込んでいく。

 耳元で空気が揺れた。
 動揺は一瞬で晴れる。憎らしい魔王の部下、女の姿を取ったそれが呪術を施していた。振り向けば扉があったはずの場所には暗い影が張り付いている。壁を作る封印の術か。私を、この部屋に閉じ込めるつもりらしい。
 女は私を睨みつけてそのままに後じさる。まずはそちらから倒してやろうかと考えて、やめた。逆に都合がいいではないか。邪魔が入ることなく、魔王と戦うことができる。その他に魔獣らしき気配はなかった。私は前を向く。神への供物を置くための、聖台がある場所を。

 魔王は、ただそこに立っていた。泥に汚れた異世界の服を纏い、棒きれのように細い足で聖地を踏みしめている。薄白く霞む朝のひかりが崩れた窓から差し込んでいた。天高く掲げられたステンドグラスが、泥と砂にまみれた奴のからだにかすかな色を落としている。乾ききったくちびるは一文字に結ばれていた。
 貧弱な姿だ。武器を使わずとも簡単に壊せてしまえそうなほどに。だが私を射抜く両眼は深い力に満たされていた。他の体は乾いて風にでも飛ばされそうなのに、瞳だけがしっかりとその場に根を張っている。
 敵に、不足はない。その信念を打ち壊してこそ滅ぼしたと言えるのだ。

 魔王が、剣を構えた。なんと未熟な姿勢だろう。そんな持ち方では兎一匹殺せやしない。まるで包丁でも持つかのように両手で握り、魔王は石の床を蹴った。私に向かって突進するがやられてしまう気がしない。まるで歩いているかのように見える動きを目で追いながら、私もまた聖剣を構えた。魔王は雄たけびを上げながら全身で向かってくる。私はその切っ先がこの身に到達する前に弾き飛ばしてしまおうと剣を振り……

 それを、下ろすことができない。

 混乱する思考をよそに体は石のように固まり、近づいてくる魔王の頭を呆然と見下ろしている。何故だ、くそ、女が術を使ったのか!? だがそれ以上に頭の奥で切実な叫びが弾け、私は眼をむいたまま、魔王の体が胸にぶつかるのを感じた。



 からん、と武器の落ちる音がした。
 私の手は震えながら聖剣を握っている。
 魔王の両腕は私の背に回っていた。
 私を、抱きしめていた。

 抱きしめて、泣いていた。




「圭一!!」




 何故だ何故だ何故だ。どうしてこの小さな娘は、人の形をとった魔王は俺を抱いて泣いているのだ。わからない頭を混乱させる音で魔王はさらに泣きわめく。
「圭一、圭一、圭一!」
 それは誰だ。お前は何を呼んでいる。
「や、やっと逢えた。や、やっと……圭一、圭一、圭一!」
 なぜ私の胸を涙で濡らす。なぜ甲冑が壊れるほどに頬を寄せ、堪えきれなくなったようにわあわあとわめくのだ。まるで子どものような顔で、魔王は骨ばった両腕で私の背を強く抱く。
「ずっとさみしかった、ずっとずっと逢いたかった! 圭一、圭一、圭一!!」
 私は違う。私は勇者だ。そんな者の名など知らない。寂しかったとはどういうことだ。お前が私を求めていたのか。そんな、そんな馬鹿な。
「こんなのはいやなのだ! こ、殺したり、そんなのはいやなのだ! 我はお前といっしょがいい! 圭一、圭一ぃい!」
 何を言っているんだ。お前が私と一緒にいられるはずがない。お前は魔王だ。私は、勇者だ。お前を滅ぼすために神に使わされた聖なる使徒だ。
「圭一、圭一!」
 それなのに、剣を持つ手が、動かない。
 このしがみつく娘の体を貫くことは簡単にできるはずなのに、どうしても、手が。
「圭一、圭一、圭一!」
 頭痛が私の頭を揺るがす。鳥肌が立つほどの吐き気が悪寒と共に襲う。魔獣に触れた拒絶反応が出ているのか。それとも別の否定なのか? 目がくらむほどの不調に心臓が早駆ける。駄目だ、早く殺せ。この声を消してしまえ。だが腕が動かない。指先が引き攣れた動きで震える。どうして。
「圭一、圭一、圭一、圭一!」
 泣いている。魔王が、真っ赤な顔をぐしゃぐしゃにして鼻水までだらだらと流してわあわあと叫んでいる。美しいなどとは絶対に言えない姿だ。だが、醜いとも。そんな顔で泣いている。
「圭一、圭一、圭一、圭一、圭一いい!!」

 泣きながら、俺の名前を呼んでいる。












「あきら!!」










 あきらは見開いた目で俺をみつけた。その瞳に、またしても大きな涙が盛り上がる。
「圭一ぃ!」
「あきら、あきら、あきら!!」
「けいいちいい!!」
「あきらあああ!!」
 俺は大声で泣いていた。こんなにもひどいのは生まれて以来ではないかというぐらい、全力で泣いていた。自分が今どうなっているのかという自覚はない。ただ、あきらがいる。この場所に。抱きしめる俺の腕の中に!
「あきらあああ!!」
「けいいちいいい!!」
 俺たちは互いの体を壊れるほどに抱きしめながら、ただ相手の名前を呼んだ。
 それ以外の台詞を全て忘れてしまったかのように、延々と、呼び続けた。


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第46戦「台詞忘れた!」