第45戦「もしもの話」
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 神に捧げる祈りの歌が施術室を満たしている。教会の離れに設置された、木造の古い小屋。黒ずんだ壁はまるで鳥かごのような網目を持ち、あえて広げられたその隙間からは、聖歌隊の歌声がとめどなく流れ込む。
 ツタハは遥かなる音色に意識を絡めとられそうになりながら、横たわる勇者を見た。医者による治療は既に完了していて、最新の魔術式を利用したそれのおかげで傷はほぼ癒えつつある。
 後は、“仕上げ”をするだけだ。
「……あきら……」
 だが伸ばしかけた手は揺れた。ツタハが驚いて見下ろす先で、勇者は力なく口を動かす。
「あきら……あきら……」
 夢を見ているのだろうか。だが、それならば都合がいいとツタハはかろうじて考える。意識の表層にあればあるほど、潰すのが容易なのだ。あとは最後の術をかけて、この、まだ若い男のわずらう心を失くしてしまえば。
 閉ざされた勇者の目じりから、一筋の涙がこぼれた。
「あきら……」
 ツタハは息を呑む。聖歌がより高みへと上り詰める。人が神を求めて囁く純粋な愛のうた。それに押しつぶされるほどの声で勇者はだが繰り返す。あきら。あきら。手が動けば天井へと伸ばされていただろう。その代わりせめてもの動く部位を彼方に向けて、もがくように彼は呼ぶ。あきら。あきら。あきら。
 うろたえるツタハも、心では女の名を呼んでいた。最後に一度だけ交えることのできた指先に、そっと触れる。だがそれであのぬくもりが戻るわけでもなく、これからしなければいけないことが消えていくはずもない。
「あきら……」
 聖歌はまだ続いている。
 勇者は魔王を呼んでいる。



「……終わりました」
 勇者が施術室から運ばれていくのを背に、ツタハは深く頭を下げる。待ち構えていたヤズトゥールが、聖歌隊に解散の指示を出した。ご苦労だった。みなのおかげで勇者様に神の加護が訪れた。喜びに湧く皆と共にヤズトゥールも笑っているが、ツタハだけは顔を土色にして壁にもたれている。
「ヤズトゥール様……申し訳ありませんが、力を使いすぎてしまいました。部屋に戻ってもよろしいでしょうか」
「ああ。よくやったぞツタハ。これで我らは救われる」
 倒れそうな魔術師を抱きしめて、ヤズトゥールは耳元に囁いた。
「本当に、ちゃんと行ったのだろうな」
 はい。と、蚊の泣くような答えを聞いて、ヤズトゥールは幼子を叱る顔になる。
「そんなに落ち込むな。あれよりもいい女は星の数だけいるだろう」
 はい、と答える彼の肩を叩き、まあよくやったと慰める。
「勇者様と同じく、お前もこれで迷いから放たれたのだ。祝福をしなければな」
 ツタハはかすかにうなずいた。

※ ※ ※

 なぜ足が動くのかもわからないまま、ルパートは森を歩いていた。力を入れているつもりはないのに剣が手から離れない。まるで浴びた彼の血が糊となってしまったようだ。重い武器を引きずるようにして、ルパートは進んでいく。
 行く場所はないはずだった。こんな状態で、仲間の元に戻れるはずがない。噴き出した勇者の血は、消え入りそうなほどに淡い彼女の姿をくっきりと森に浮かべている。深い緑とも、土とも相容れない異常な色彩と臭い。違和感と化したルパートは、頼りなく獣道を行く。向かってはならないと頭が危険を叫んでいた。その先にあるのは魔獣たちの隠れ家だ。引き返さなければならない。それなのに足は勝手にそこへと進む。
「ルパート!」
 悲鳴にも似た呼び声にびくりとする。草を掻き分けるようにして、あきらが駆け寄ろうとしていた。もはやこの色と異臭を隠してしまうすべはない。ルパートは息すらもおぼつかないまま、あきらが来るのを許してしまう。
「どうしたんだ、け、怪我したのか!? 大丈夫かっ。ルパート、ルパート!?」
 平気な顔をしなければならない。何もないと言わなければ。
 だが感情は身勝手に走り出して、ルパートはうろたえるあきらを衝動のまま抱きしめた。
「だ、大丈夫か!? 痛いか、どこが悪いんだ? 言ってみろ」
 震える腕の中であきらはルパートの体を探り、傷がないかを確かめている。昔も、よくこうして心配をされていた。体が丈夫でなかったルパートは、ちょっとしたことですぐに体調を崩してしまう。その度に、盟主は鼻先で毛皮を探り、悪い場所を舐めてくれた。今はもうそんな風にはいかないけれど、あきらは代わりに手のひらでルパートの体を撫でた。
「よしよし。こわくないぞ。我がいるからな。よしよし、大丈夫だ」
 温かい手が青ざめた肌を渡っていく。懐かしいその感触に、ルパートは目の前が霞むのを知った。途端に涙があふれだしてわあわあと声を上げる。驚くあきらに縋りつき、ルパートはまるで子どものように泣いた。
「ど、どうした、何があったのだ。傷なんてないじゃないか。なのに、こんなに血が……」
 ちいさな盟主の体がこわばる。覗き込んだあきらの目は愕然と冷えていく。
「この……血は……」
 ルパートは彼女を抱きしめた。

 絶対に、してはならないことだった。それが皆の希望を絶つことになるのをルパートは知っていた。ツタハは人の記憶を消す術を学んでいる。簡単なことではない。実際に、成功率はかなり低いとされている。死に近しい状態であれば無理なく進められると言われているが、勇者が突然重症を負う理由もなく、教会は記憶の消去を計画から除外していた。
 それなのに理由を作ってしまった。勇者は魔王の手下に騙され、裏切られた挙句に貫かれて瀕死となった。それが間違いのない悪だと知った勇者様は、今度こそ敵を滅ぼすために迷いを捨てて戦いに行く。……そんな筋書きが用意されたに違いない。日本での記憶を消された彼は、勇者として魔獣を滅ぼしにかかるだろう。彼を刺してはいけなかった。絶対に、してはならないことだったのだ。
 だがあのままでは彼は殺されていた。人間たちの向けた矢は、確実に彼を消そうとしていたのだ。それに気づいた瞬間、ルパートは動いていた。自らの行為が、同胞を、あきらを絶望に追いやると分かりながらも、最悪の道を選んだ。

 彼を、死なせたくなかったのだ。
 今までの自分では考えられない行動に、彼女は戸惑いのまま泣き崩れる。

「申し訳ありません……」
 消え入る声で何が起きてしまったのかを伝えると、あきらは絞りだすように言った。
「圭一は、生きてるんだろう……?」
「殺したも同然です」
 もう二度と、彼はあの人には戻らない。
 記憶を消され、前世での非道な勇者そのものになるだろう。
 魔王を殺し、勝利に酔いしれていた、あの男に。
「そんな……」
 抱きとめる腕の中であきらが崩れていくのがわかる。彼女は震える目でルパートを見上げた。
「そ、そんなわけないじゃないか。だって、あいつは結構バカなんだぞ? そりゃ成績はちょっといいけど、でもからかうとすぐムキになって、勝負に乗ってきて……」
 その瞳に涙が浮かぶ。今にもこぼれそうなそれを彼女は必死に我慢している。
「え、NHKが好きだし。いい歳してどーも君のぬいぐるみで喜んでるし。ゲームが得意で、我がわからないところを聞くと、しょうがねえなって馬鹿にして、でもそれでも嬉しそうに遊び始めて。結局自分ばっかり楽しんで先に進めてクリアするやつなんだ。ジェットコースターが苦手で、無理やり乗せられてふらふらになって、そのあと三十分ぐらい立てなくなったりしたんだぞ? わ、我がクラスの男子にからかわれてたときなんて、取っ組み合いのけんかになって助けてくれて、でも弱いから殴られて泣きそうになったりしてて……そういうやつなんだ、あいつは。それなのに戦えるわけがないじゃないか。あいつが、我を殺すなんて。そんな、そんな……」
 頼むから嘘だと言ってくれと震える瞳が語っている。ルパートが首を振ると、あきらはその場にへたりこんだ。
「だって、そんな……」
 青ざめたその顔つきに、警戒が走った。立ち上がるあきらの視線の先には、複数の人影がある。尾行されていたのだ。勇者を刺した敵が簡単に逃がされるはずがない。初めから、こうして住処を探るためにわざと泳がされていた。ルパートはもはやかつてのような力もなく、ただ地に崩れ落ちるしかない。絶望が彼女の身をことごとく土に触れさせた。
 ルパート、とあきらが囁く。それは呼びかけではなく呟きだったのだろう。消え行きそうな部下を見つめるあきらの顔が、みるみると変わっていく。
 あきらは立った。ルパートを背に庇い、その足を踏みしめる。上げられた顔に涙はなかった。先ほどまでの混乱を洗い落としたかのように迷いのない表情で、潜む敵を見つめている。
 ルパートが落とした剣を、さらに遠くに投げ捨てた。
「我々は武器を持たない」
 腕を伸ばし、手のひらを敵に見せる。相手が戸惑っているのがルパートにも伝わった。あきらは静かな声で続ける。
「我らは何もしない。何もできない弱い身だ。お前たちとは、戦えない」
 おそれなく敵と対峙する体は、若い娘のものである。こちらに来てろくな食糧もなかったために手足は骨のようになり、こけた頬には荒れた髪が張り付いている。着替えられない制服は所々が裂け、破れ、晒された素足はいくつもの傷を抱えている。全身に泥の跡が見える、小汚く無力な少女。
 だがその眼は底知れない深みを湛えていた。怒りに燃えるでもない、敵意に堕ちるでもない沼のように静かな瞳。まるで、全てを知っているかのような。
「去れ」
 低い声に敵が揺れた。
「ここは、お前たちの来る場所ではない」
 獣の王は人に告げる。武器を持つ人間たちはおののくように後じさり、やがては駆けてこの場を去った。
 あきらは、吐く息と同時に崩れ落ちる。支えてくるルパートの体を、逆に抱きしめてやった。
「大丈夫」
 力なく涙を流す部下の頭をくしゃりと撫でる。
 かすかに笑う顔つきに、今までのような弱さはない。
 あきらはルパートを胸に寄せた。
「後は、我に任せておけ」
 その目には、絶望を伴にした決意が湛えられている。

※ ※ ※

 兵たちの宿舎には動揺が広がっていた。反逆者エミールを尾行した男たちが、昨夜、震えながら戻ってきたのだ。彼らはうわごとのように言った。魔王は小さな娘だった。我々と同じ人間の姿をした、まだほとんど年端も行かないやせ細った無力な少女だ。
 だがこちらを見る彼女の眼には、得体の知れない力があった。彼らは、触れてはいけない自然の脅威に触れたような恐ろしさを感じて逃げ帰った。畏れを隠せない彼らの中には二種類の恐怖がある。魔王は凄まじい魔力を持っているのではないか。もしくは、何の力もないただの子どもではないのか。
 もしもその通りであれば、今からやろうとしていることは単なる虐殺でしかない。自分たちは何か大きな勘違いをしているのではないだろうかと、兵たちは怯えていた。
 彼らはまっとうな人間として自然を恐れ、同時に弱者を手にかける可能性に心臓を震え上がらせている。
 これが神の意志なのか、と誰かが言った。全員がその瞬間、神職であるにも関わらず神を疑った。こんなまともではない行為が、果たして善と言えるのだろうか。
 彼らは皆一様に、勇者に憧れて教会に入った者たちである。子どもの頃、魔王を殺した勇者の話は国中に広がって人々の歓喜を呼んだ。これでもう病にも貧困にも悩まされることはないのだと、誰もが勇者を神のように扱った。実際、それを境に国は豊かになっていき、それは勇者のおかげなのだと皆が誇りに思っている。
 だが、今や勇者は迷いの道へと堕ちていた。かつて誰もが尊んだ勇者の姿は、どこにもいなくなってしまったのか。
「……勇者様」
 誰かが呆然と呟くのを聞いて、皆が即座に顔を上げる。扉を開けて部屋に入ってきたのは、この国の正装に身を固めた勇者だった。彫像に残されたものほど体格はなく、顔立ちも若者のそれであるが、凛々しく引き締められた表情に昨日までのようなゆるみはなかった。
「待たせてしまって、すまなかった。もう大丈夫だ」
「勇者様!」
 即座に歓声が上がる。勇者はそれらをやわらかく受け止めて笑った。
「皆、心配をかけたな。異世界での暮らしのせいで、少しばかり記憶を取り戻すのに時間がかかってしまった。だがもう真実はこの身の中にある。魔獣は悪だ。私はそれを何よりもよく知っている。この耳には神の声が聴こえているのだ」
 迷いのない瞳に誰もが魅了されていく。全てを知るかのようにためらいなく進み、人々に行き先を示してくれる存在。神の僕として聖なる言葉を地上へと伝え、救いをもたらしてくれるのだ。輝かしいその姿に、ひとり、またひとりとひれ伏していく。見上げる眼には炎があった。燃え上がる彼らの心を勇者がさらに煽っていく。
「奴らに情を持ってはいけない。例え赤子でも手負いでも必ず命を滅するのだ。奴らはしぶとい。こうして残党が世界を乱そうとしている。一刻も早く対処しなければならない。ひとかけらの痕跡も残さずこの地から抹消しろ」
 雄たけびにも似た声が上がる。あげられる拳が空気を沸かす。
「さあ、準備を整えよう。出発は明日と決まった。我々は急がなければいけない」
 勇者は与えられた伝説の剣を力強く振り上げた。
「これより、魔王の討伐を開始する!」


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