第44戦「暇を下さい三分ばかり」
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「惨めな姿だな」
 うなだれた頭にいやらしい声がかかる。ルパートは、檻越しに立つツタハから目をそらした。
「少しは反省する気になったか? お前は長い間我々を騙し続けたんだ。何が聖女だ、ただの小汚い獣じゃないか。あの世界で犬になってどんなに嬉しかっただろうなあ。尻尾を振って、舌を出して。今でもそういう生活がお似合いなんじゃないか?」
 耳を貸さず、肌にかすかな痛みをもたらす石の床を睨みつける。
 こういう表情がこの男には一番効くのだ。ルパートはそれを知り尽くしていた。
 憂いに沈む瞳を上げる。
「そっ」
 唐突な視線に、ツタハがうろたえて足を引いた。
「そんな顔をしても無駄だ。馬鹿な、今さら私が騙されるわけが……」
「ツタハさま」
 かすかに甘えの混じる声。唇を震わせるツタハに潤んだ目を向ける。
「わたくしのことが、お嫌いですか?」
「ばっ、ばかなことを言うな。嫌いに決まっている。だ、騙されない。騙されないぞ」
「ああ……もし、今一度の懺悔が許されるのならばお聞きください。わたくしは、これまでずっと罪を犯しておりました。何よりも重い罪です。わたくしは、自分に嘘をつき続けておりました。作戦よりも大切にしなければいけないものを、種族のためと考えてずっと押し殺してきた……」
 見上げる頬に涙をこぼす。
「ツタハさま。わたくしは、貴方をお慕いしております」
 彼の掴んでいた武器が音を立てて床に落ちる。ツタハの腰もまたその後に続きそうだった。ルパートは、その繊細な面立ちを悲しみに染めて彼を見つめる。
「ツタハさま……」
 冷えていた顔色には薄紅が灯り、吐息も切ない熱を含む。
「だ、騙されるな、騙されるなああっ!」
 悲鳴にも似た叫びは己に向けたものなのだろう。ツタハは抱えた頭を苦しげに振り回す。その足元に近寄るのはルパートの白い指だ。わずかな檻の隙間から彼を求める手を伸ばし、ルパートは涙を流す。
「お願いです。どうか最期に一度だけ、わたくしの想いを受け止めてください」
「う、う、受け止めるとは、どう、どういう……」
「くちづけを」
 ひく、と彼の体が引きつる。動じる目には「嘘だ嘘だ嘘だ」とそればかりが流れていた。赤と青が交互に現れる顔をルパートから離すことができない。ルパートはとどめを刺す。
「わたくしは、あなたのお傍にいることができて本当に幸せでした。けれど貴方に触れることは最後まで叶わなかった。お願いです。わたくしに、貴方を感じさせてください。一度だけで、いいの……」
 震える息が届いたかのように彼はまぶたを揺らした。ため息をついた時にはもう、彼女を見つめる彼の素顔は恋人のそれになっている。
「エミール」
「ツタハさま……」
 とろけて混じりゆく二人の視線。指先が絡み合い、寄せた頬の熱が伝わる。雰囲気に流されるがままツタハはわずかに目を伏せた。



 それからどれほども経たないうちに、ルパートは人気のない丘を駆けている。手の中には気絶したツタハから奪った剣と、大切なものがあった。この二つさえあればもう教会に用はない。後はただ仲間の元へ戻るだけだ。
 心臓は足よりも早く駆けていて呼吸すらおびやかしている。青ざめていくのはしくじったことに気づいたからだ。ツタハを騙して気絶させ、その隙に牢を脱した。もともと、あの馬鹿な魔術師は人払いをしていたのだ。せいぜい熱い夢でも見ていなさいと、頭を踏んで逃げてきた。そして奥の部屋から今胸に抱くこの袋を盗み、盟主たちのいる森に向かう。
 勇者は、初めから捨てていくつもりだった。彼に真実の過去を見せたのも、最後に殊勝な態度で別れを告げたのも、あらかじめ定められた計画の一つである。ルパートは、そうすることで勇者が教会に疑念を抱き、反発し、さらには魔獣に好感を持つことを予測していた。今のところ彼女によって立てられた作戦はつつがなく進行している。
 勇者は人間であり続けなければならなかった。彼はなすすべもなく教会に残り、魔獣に好意をもつ貴重な人材としてこれからを生きるだろう。それはルパートたちにいい結果をもたらすはずだ。勇者は魔獣の味方をしてくれる。多くの人々の批難や罵声を受けながら、それでもあきらを想うあまりに彼は必死に戦うだろう。それが、ルパートの計画だった。
 罪悪感はない。そうすることが皆にとって大切なのだとわかっているから。
 だが草を踏む彼女の目には、楽しげに笑う彼の顔がこびりついて離れない。
 走る地面にもうひとつ、履き古したスニーカーが見えてきて首を振る。考えるな。もう、あんな風に散歩をすることなどないのだ。彼がくれた首輪のきれいな赤色も、嬉しげに覗きこむ顔や毛並みを割る大きな手も、人間と魔獣に分かれたこれからには存在しない。
 気を取り直さなければいけない。そう、思い直して上げた顔が大きく歪む。近くに人の臭いがあった。しかも、数は少なくない。毒を含む鉄の気配がルパートの足を止める。
 先回りされていた。――いや。初めから、囲まれていた。
 目の前に広がる森には武装した兵が隠れていた。ヤズトゥールが配していたのか。初めから逃げることを見越していて、あえて逃がして魔獣の住処を突き止めようと考えて……。
 青ざめる肌が震えるのを必死に堪える。ルパートは懸命にこれからの策を考えた。どうする。もはや逃げる道はない。殺されるだけならいい。だが、このまま捕まれば非道な手口で案内を強いられるだろう。仲間たちの場所が知れれば未来はない。獣たちも、孫も、あきらも皆人の手に落ちてしまう。
 頭の奥で嘲笑う声がする。所詮は獣の浅知恵だ、人間に勝てるはずなどない。木々の奥で息を潜める皆が嗤っているような気がする。ほらあれが愚かな獣だ。見てみろよ、どうすればいいか情けなくうろたえているぞ。
 暗がりと化す視界の奥に駆けてくる馬を見つけた。ヤズトゥールが、自ら追い詰めるために情報を受けてやってきたのだ。引き連れた部下たちは、十をとうに越えている。皆精鋭の者ばかりだ。彼らが持つ力をルパートは知っている。到底、自分が敵う相手ではないことも。
 長く伸びた草が膝に触れて、ルパートは腰が崩れたことを知った。たちまちに人間たちが立ち上がり、武器を構えて少しずつ距離を詰める。警戒する顔が見えた。術を使わせるなとヤズトゥールが指示を出すのも。冷静な声が奥に立つ。
「先に、手傷だけ負わせておけ」
 弓兵が、ルパートの足に狙いを定めた。

 もうだめだと彼女が目を閉じたところで、雄たけびが地を駆ける。被さるのは怒涛にも似た馬の足音。ざわめきが広がっていくのがわかる。誰かが悲鳴を上げた。だがそれすらも押しつぶすわめき声が、こちらに、近づいている。
「どけどけどけどけええ!! 轢ーかれーるぞーおお!!」
 暴れ馬だ。それ以外の何物でもないように見えた。鞍ですら付けられていない馬が兵士たちを散らしている。皆がわあわあと騒ぎながらそれを避け、誰も止めることができないまま、馬はルパートへと直進する。
「どっせーい!」
 妙な掛け声と共に、馬上から人が落ちてきた。馬はそのまま森へ向かい、逆側の兵を蹴散らしていく。ルパートは足元に転がる男を見た。受身の姿勢をほぐして全力で息をする背には、ぐるぐるとシーツで剣を巻きつけてある。彼はルパートの足元でしばし衝撃と疲労に悶えていたが、飛び上がる勢いで立ち、得意げな笑みを見せた。
「勇者長谷川圭一只今参上! ……ってな」
 へへへと恥ずかしげに砂を払う彼を見上げ、ルパートは呆然と口を開いた。

※ ※ ※

「ゆ」
 と、それだけ言って絶句したので、俺は爆笑したい気分でへたりこむルパートを見下ろす。くはははは、どうだびっくりしたか。俺が一番びっくりしてるわ馬鹿やろう。ああマジで死ぬかと思った。
「いやもう馬も全然残ってねえし、ろくな武器もないときた。見てみろこの涙ぐましい装備っぷり。シーツちぎって巻いてんだぞ? 旅立ちの勇者少年編かっつーの」
「な、な、な、な……」
「おいおいいつまでびっくりしてんだ、お前らしくもない。ていうか感謝しろよ、こっちは死ぬかと思ったんだぞ? 久々だから馬の乗り方なんて忘れてるし、しがみつくのに精一杯で剣なんて持てないし。っかしーなー、前世ではできてたはずなんだけどな。やっぱブランク長いと駄目だ」
「なんでここにいるんですか!」
 真っ青なルパートが叫ぶのもおかしくてしかたがない。ああ、こいつをこんなに驚かせることができるなんて。俺は感動にも似た手ごたえのままにやりと笑った。
「勇者ってのは窮地に現れるもんなんだろ?」
 お前がそう言ったんだぞ、ルパート。俺はテンションが高まるのを止められない。まるで体中の器官が好き勝手に叫ぼうとしているみたいだ。俺は、今までの俺ではありえない行動にひどくハイになっている。この状態でなら、苦手なカラオケも軽々とこなしてしまえそうなほどだ。
「ったく、考える暇ぐらいくれよな。さっさと逃げちまうんだから」
 さあどうしようか。足元には守るべき女がいる。手には剣。長年のブランクに持ち方すら危ういが、日本で学んだ剣道と前世の記憶を繋ぎ合わせれば、誰にも止められない必殺技が編み出せそうだ。恐いものなんてない。俺は、勇者だ。
「……どうして」
 ルパートはわからない顔をしている。なんだ、こいつ意外に鈍いんだな。俺がここに来た理由なんて簡単なことじゃないか。
「なんでって、そりゃお前らがいるからに決まってんだろ」
 鉱石の色をした奴の目が見開かれる。冷たく思えていたそれが柔らかくなるのを見て、俺は快哉を上げたくなった。心が沸き立つままに続ける。
「教会に残ったら、お前らとはもう一緒にいられない気がした。そしたらじっとしていられなくなってさ、結局ここまで駆けつけてしまいましたってわけだ。あんなんで今生の別れなんてごめんだからな。わかったら俺も仲間に入れやがれ」
 愕然としているのだろう。俺を見上げる奴の顔はとんでもなく無防備で、どこか悲壮ですらあった。ちょっと揺り動かしただけで崩れ落ちてしまいそうな表情。俺は、その顔色の真意が掴めなくて困惑する。ルパートが力なく口を開いた。
「……け」
「勇者様!」
 かき消されて舌打ちをする。振り向けば、ヤズトゥールが遠巻きに睨んでいた。説教をされる前に怒鳴る。
「俺はもう決めたんだ!」
 居並ぶ兵がぎくりと固まる。俺は思うがままに叫ぶ。
「神の意志でもない、お前たちの意志でもない自分の頭で考えたらこうなった! しょうがねえだろこうしたくなったんだから。俺がいないと駄目なんだよ。俺が敵に回ったら、あのバカが泣くんだよ!」
 兵たちを見ながらも俺の頭にはひとりの顔ばかりが浮かんでいる。まるでちいさなガキのように洟をすする、ぐしゃぐしゃに汚れた顔だ。美しいなんて形容詞をどう頑張っても適用できない、だけど醜いなんて絶対言えないよろよろの泣き顔だ。あいつはいつもそうやって泣いていた。
「あきらが、泣いてんだよ……」
 俺の中であのバカがずっと泣きじゃくっているのだ。泣きながら俺の名前を呼んでいる。弱々しくて、今にも掻き消えそうな声で、俺にすがりつこうとしている。それを見てると俺まで泣きそうになるんだ。
「好きな女が泣いてるのに放っとけるわけがねぇだろ」
 理由なんてそれだけで俺にとっては十分だ。ルパートがあ然として口を開いたままでいる。周りの皆も同じような顔をしている。まったく、なんてわからない奴らなんだろう。まあいい、俺はもう決めたんだ。生まれて初めて、俺が自分で選んだ道だ。
 さてこれからどうしようか。とりあえず、奴らが俺を攻撃することはないだろう。何しろ俺は勇者だからな。問題はルパートを庇う方法。そしてどうやってあきらの元にたどり着くかだ。逃げ場はないか。そのまま戻ったら追われるのがオチだよな。ううむ、どうしようか……。
 目の前で弓を構えられる。俺たちが得意とする毒の矢が、音もなくこちらを向く。俺はとっさにルパートを背に庇った。だがそれに合わせて矢も動く。……え。ちょっと待て、あれ、俺を狙ってないか?
 いやそれはないだろう。俺は勇者だ。第一ここでなんで俺を撃とうとするんだ? なあヤズトゥール。
 慌ててヤズトゥールを見たところで、俺は全身が凍りつくのを感じる。そこにあるのは、敵に向ける目だった。倒さなければならない障害を取り除こうとする意志が、ヤズトゥールの体から放たれている。
 ……馬鹿な。だって、そんな、俺は……そんな、俺を殺すだなんて……。
 構えられた矢は俺の心臓に向いている。一人だけではない。五、六……どれかが運良く外れても他が俺を貫くだろう。まるで刑を執行されるかのような光景だ。昔、ドラマでこんな処刑を見たような。

 俺はどうすることもできない。ただ馬鹿のようにぼうっとして立っている。
 一人の矢が、放たれる寸前まで引かれた。

 その途端衝撃が俺の体をつんのめさせようとする。なにくそと転ばないよう踏ん張ったところで、じわりとした熱と痛みが腹を襲った。はじめは緩やかに。たちまちに、息をも奪うほどの激痛となって俺は体を痙攣させた。霞む視界では皆が驚いて武器を下ろしている。鋭い異物が俺の横腹を貫いていた。硬直した首を回して確かめるとそれは剣だ。
 ルパートが、俺を剣で刺している。
 なんでと問うことはできなかった。声など出るはずがない。取り付いていた銀の頭が離れて刃が抜かれると、血が噴き出してルパートを赤く染めた。俺の血にまみれたルパートは、頼りなく足を引く。俺はその手を引き寄せて抱きしめたい気持ちになった。
 ルパートは、震えていた。うつろに並ぶ両の目はまるでただの穴のようで、今にも崩れそうな顔で俺の方を向いている。剣を握りしめたままの手が硬直したまま揺れている。足も、立っているのが精一杯の状態だった。
 ああ、これは手負いの獣だ。俺はどこか醒めた頭の奥で考えている。
 こんなにも酷く怯えている。なんとかしてやらなければいけない。
 俺は、手を伸ばした。ルパートはびくりと震えて身を縮める。撫でてやらなければと思った。この怯える犬の頭を撫でて安心させて、大丈夫、こわくないとかそういうことを言ってやって。
 でも生憎と俺はナウシカじゃなくて、ルパートも今は人間で刺した傷も深かったから、俺の指先は奴に到達することもなく血溜まりの中に倒れた。俺の体も、同時に草に埋もれていた。
「勇者様!」
 みんなが駆け寄ってくる。ルパートが、その隙間を縫って逃げていく。俺は熱かった体がみるみると冷えていくのを感じて、みんなの声も近づいているはずなのに全然聞こえなくなってきて、終いには柔らかい黒のカーテンを引かれたように目まで見えなくなってしまった。

 えっ。俺、ここで死ぬの?
 ちょっと待てよ、そりゃ前の時も大概あっさりしてたけどさ。
 でも本格的に体が重く作り物のようになって、雪の中のように寒いのに震えることもできなくて、俺はまっくらな闇の中でただただ呆然としている。

 待ってくれよ。いくらなんでもこれはないだろ。
 あきらが。あきらが泣いてるんだよ。ほら聞こえるだろ、ずっと向こうで泣いてるんだ。俺が行かなきゃ。行きたいんだ。逢いたいんだ。なあ、あいつに逢わせてくれよ。頼むよ。三分、いや十秒でいいんだ。頼むから、一言でいいからあいつに伝えさせてくれよ。


 あきら。
 俺は、お前のことが…………








「……きら」
 突然の言葉に、ヤズトゥールたちは息を呑む。意識を失ったはずの勇者の口から、縋るような呟きがもれていた。
「あきら……あきら……あきら……」
 ヤズトゥールの目に動揺が走る。勇者を抱きかかえる腕が、かすかに震えた。だがヤズトゥールはそれを拳に隠して部下に告げる。
「勇者様は、魔獣の呪いを深く受けてしまっている。こんなにも酷い洗脳だとは……。すぐにでも神の言葉を伝えなおさなければいけない。もう二度とこのようなあやまちを犯すことのないよう、かつての勇者様に戻って頂かねば……」
 傷は深い。だが彼にとっては都合がよかった。重症であればあるほどに、洗い直しはやりやすくなる。
「治癒と同時に神の教えを進めてくれ。……大丈夫。魔獣どものことなど、すぐに忘れてしまうさ」
 処置を進める医者たちに念を押し、彼はかすかな笑みを浮かべた。


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第44戦「暇を下さい三分ばかり」