「あれは魔獣です」 ヤズトゥールがまたも言う。 「いいですか勇者様。決して情を持ってはいけません」 この台詞を何度聞いたことだろうか。ヤズトゥールも、また勇者と魔王の真実を知っていた上層部の数人も会うたびに同じことを言う。俺はその顔を見ながら、ああこいつも俺を騙していたのか。あいつは俺が死んでから入ってきた奴だけどやっぱり騙していたんだよな。などと斜に構えた目を向けた。泣きすぎたせいで充血は酷いだろうし、第一さっきの醜態を見られているのだから睨んだところで強さはない……のだろうと思えばそうでもなく、事情を知る者たちは、俺への後ろめたさから気まずげに息を呑んだ。 「いいですか勇者様」 「あれは魔獣です。決して情を持ってはいけません」 わざとらしく言い捨てるとヤズトゥールは絶句した。かすかに笑う俺はクソガキのようだったに違いない。拗ねた態度、エミールに会うとごねたこと、皆に腫れ物扱いされているところ。俺はまるで突然に子どもになった気分だった。理屈ではわかっていても、いつまでもむしゃくしゃしたり、苛立ちをそのままどこまでも通さなければ気がすまなくなってしまう。 ああ、そうか。俺はまだ十七歳なのだ。 だが、前の人生ではこんなにも子どもじみた性質は一度も経験しなかった。 同じ俺の魂だというのに、そんなに違うものなのだろうか。 俺は地下牢に続く階段を下りながら、明かりを掲げるヤズトゥールを横目で見る。彼はこれからどうするべきか深く悩んでいるのだろう。ひげに覆われた顔はその深い彫りをさらにきつくして、濃い影を潜ませている。 「魔獣は悪じゃないと言っただろう」 「ですが、敵です」 隣を行くヤズトゥールの声は低い。 「我々を恨んでおります」 吐く息にかすかな怖れが滲んでいた。人間の姿にまで変化して懐に飛び込み、七年も上層部に取りついていたことが彼を焦らせているのだろうか。 俺たちは今、その恐ろしい敵の参謀に会いに行くのだ。奴は狡猾な手段をもって人の知識を魔獣へと流した。呪術を学び、かつての魔王と連絡を取りながら勇者の動向を探っていた。この世界に呼び戻した勇者を罠にはめ、強引な結婚を進めて妻として取り入った。 上下水道の工事に力を入れるよう国に進言をさせ、沼の泥で疫病が再発しないように、努めた。 聖女として各地の街や集落を回り、国中の人々に愛された。 俺はここに来るまでに、聖女様を助けてくれと縋りつく下働きの者たちを見ている。奴は通いの労働者にも、乞食にも、教会内のどんな生き物にも慈愛をもって接していたという。その顔の美しさもあいまって、聖女はもはや教会だけでなく、一般の民草たちにも慕われていたらしい。 俺はそんな奴は知らない。俺が見てきたエミールという女は、愛想がなくて、狡猾で、とにかく魔王が大切で、そのためなら三日三晩新婚の夫をひとり放置するのも厭わない、いやむしろ喜んでいじめにかかるやつだ。 それなのに、到着した俺の前に現れたのは、人々が愛する方のエミールだった。 「申し訳ありませんでした」 絹よりもまだなめらかな銀の髪が石敷きの牢に流れている。女は、その細く白い首筋をあらわにして俺に頭を下げていた。完全なる平伏の姿勢はぴくりとも動かない。俺はどうしていいかわからないまま、一筋のゆらぎもなく床に落ちた髪を見ている。触れると、きっと冷たいのだろうなと考えた。 「わたくしは、これから神の裁きを受けます。その前に貴方様に直接謝罪ができることを、とても嬉しく思います。申し訳ありませんでした。言葉が足りることなどありません。せめてこの薄汚いわたくしを罵ってください」 「お気をつけください」 ヤズトゥールが囁く。 「これが奴の策略なのです。本心は何を考えているのかわかりません」 俺はそんなこと以前にこの「奴」とやらが誰なのかわからなくなりかけていた。こんな女は見たことがない。おそるおそる顔を上げさせるが、エミールは人形よりも整った顔立ちを凛と向け、青みがかった灰色の目を静かに二つ並べている。覚悟を決めた殉職者の表情だ。まるで、どんな責め苦を受けようとも神だけを信じて天へと向かうような……。 あれ、こんな女だったっけ。あれ、こんな奴だったっけ? 「勇者様」 震えるくちびるに呼ばれて心が騒ぐ。 「わたくしは、勇者様を愛しております」 なんでお前泣きそうなの!? なあなんでマジで痛々しいの!? そう尋ねたいのは山々だが、雰囲気がそうはさせてくれない。ヤズトゥールはともかくついてきた男たちは完全に奴に魅入っている。その、鉄の牢獄に囚われた儚げな聖女の姿に。俺は頭の奥で何これ何これ何これと動揺しながら、鉄格子の奥のガラス細工みたいな美女を見ていた。 「この言葉にも想いにも偽りはありません。わたくしは、汚らわしい生き物にございます。このようなわたくしにも、勇者様は愛をもって接してくれた。とても嬉しゅうございました。他にはもう、何もいらないとさえ思った……」 嘘つけお前毎晩俺をベッドに置いて外に出てたじゃねえかよ。明け方に帰ってきたかと思うと寝足りない俺を起こして強引にソファに移動させて、自分だけ悠々とダブルベッドのど真ん中でぐっすり熟睡してたじゃねえか。し、知らねえぞ。俺はお前みたいな謙虚な美人知らねえぞ! だがエミールは俺の困惑にも構わず、さらに爆弾を投下した。 「勇者様の熱いからだの感触を、わたくしは生涯忘れることはないでしょう」 待て。 「耳に甘く囁いてくださった言葉たちは、今でもわたくしの胸に残っております」 待て待て待て。おいコラ何言い出すんだみんなの前で! 「もうやめてと言うことすらままならず、わたくしは貴方の腕に溺れました。苦しくもありました。ですが、それ以上に夢のようなひと時で、わたくしは汚らわしい身でありながら貴方を求めずにはいられなくなった……」 やめて! 俺まだ十七歳だからやめて! 色々お断りされる年齢だから! やばい耳まで熱くなってる。どうしようどうすんだどうなってるんだ周囲の面々。なぁ、どんな顔で聞いてるんだ! だが知りたくても恥ずかしすぎて視線を動かすことすらできない。俺は硬直したまま鉄格子の隙間を見つめる。 「貴方の手にわたくしは熱くとろけてゆきました。頭の片隅ではいけないと叫びながらも、身体は素直に快楽に揺さぶられます。足の指の先までも貴方の愛に包まれて、どんなに幸福だったでしょう。わたくしは貴方の虜となりました」 なんだこれ深夜番組のチープなエロコーナーか!? 脈絡とかまったくなくいきなり変な雰囲気にもっていくアレか!? 「照りつける夏の日差しの中、わたくしは焼けついた地面よりも熱くなりました」 外でやったの!? 「取り囲む人々に見つめられながら、わたくしは貴方に身を任せました」 衆人環視!? 「いただいた首輪の締め心地を感じる度、貴方のことを思い出してしまいました」 首っ………… 「一緒に浴びた波飛沫の味を、わたくしは忘れません」 あ。 「共に駆けた景色のすべてを。風を。水を。温かさを。わたくしは、忘れません」 ――ああ、そうか。 お前が語っているこの言葉たちは。 俺は素直に笑っていた。心の中ではこのやろうという気持ちでいっぱいだったけど、それ以上にゆるゆるとした心地よさが俺の全身を満たしていた。 ああ、なんだ。 そうだよな、そうじゃなきゃおかしいよな。 お前は、ルパートだ。 呆れを通り越して感動するほど口が悪くて、どうなっているのかというぐらい態度がでかくて、自分のことを自分でキュートだとかプリティだとか堂々と言いきって、たとえ敵の勇者だろうが味方の上司だろうがあごで使い、再起不能になるような罵倒を次々浴びせながら、自分だけは悠々とお気に入りの座布団に寝そべって、ぱたぱたと俺の膝に尻尾を乗せる、とびきり可愛い俺たちの犬だ。 俺と、あきらの、かわいい犬だ。 ルパートは深々と頭を下げる。 「本当に、素晴らしい愛玩でした」 上げられた奴の顔は、してやったりと笑っていた。俺もまた、合わせて笑った。 真夏の公園を一緒に走った。汗だくになってお前いい加減にしろよと愚痴りながら、楽しげに跳ねる頭を撫でる。お前はいつも俺の足に飛びついてきた。俺はそれを抱き上げて、しょうがないなと呆れて笑った。夕方の翳っていくアスファルトをゆっくりと歩きながら、ひょこひょこと揺れるお前の毛並みや尻尾を眺めた。頬に垂れる灰色の長い毛を引っ張るとお前は怒った。拗ねていても撫でてやると反抗が続けられなくて、尻尾だけは正直に思いきり振れはじめて。 「愛しているよ、エミール」 俺は嘘のない気持ちで言った。 本当は別の名で呼びたかったけど、今ばかりは仕方がない。 ルパートもまた同じような顔で答えた。 「わたくしもです。勇者様」 繋がる目と目に浮かぶのは、共犯者のような感情。素晴らしく憎らしい愛玩犬は、今まで俺の膝の中で見せていたのと同じ顔で、ふさふさの毛を揺らすようなしぐさで頭を下げた。 「どうか、お元気で」 ――ああ、そうか。 俺はここでようやく気づいた。 これは、別れの挨拶だったんだ。 俺は自分の部屋に戻りながらぼろぼろと涙が出てきて、なんだかそれが止まらなくて、みんなが心配するのも無視して声もなく泣きつづけた。息が苦しいのは胸が押しつぶされそうだからだ。ばかやろう、と何度も毒づく。あんな顔をしていたルパートに。あいつが告げた別れの言葉に。 俺はそれがあいつにとって嘘のない一言なのだとわかっていた。喋る台詞の何割が真実かわからないような、あんな策略めいた奴の口から出てきたとは思えないような、本当の言葉だったのが悲しくて悔しくて、どうしようもなくやるせなかった。 あの犬と別れることが何を意味するのか、今の俺は正確に理解している。 完全に、あいつらと違う道を行くのだとわかっているから泣いているのだ。 「勇者様」 ヤズトゥールが警戒しているのがわかる。俺はヤズトゥールを見た。意志を湛えるまなざしは俺を射抜こうとしている。熱を持つ黒の輝き。彼の信念はまっすぐに一点を目指している。それは彼が経験や想いから紡ぎだした、揺るぎのないものだ。 じゃあ、俺は。 頭の中では前世での人生で得た物事や、日本で過ごした十七年の歳月が洪水のように渦巻いている。俺はそれにもまれながら、必死に考えようとしていた。このおそろしく煩雑な情報を、感情を、すぐにでも整理して道を編み出さなければいけない。時間がないのだ。 だって俺は気づいていた。あのままでは、ルパートは、きっと。 「勇者様、ヤズトゥール様!」 焦りに弾む呼びかけが俺の背をびくりと伸ばす。 駆けつけた部下は喉が千切れんばかりに叫んだ。 「エミールが脱走いたしました!!」 てめえもっとゆっくりやれよ。俺は頭で犬に毒づいた。 |