第42戦「指名手配の裏側に」
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「うわああああ!!」
 脳を砕かれるような痛みが俺を夢から引き剥がす。
「いやだいやだいやだ! 違う! いやだああ!」
 誰が叫んでいるのだろう。どうして喉が痛いのだろう。見上げた空は薄ぼけた水に曇っている。喉も耳も肺も、胸も、なんでこんなに苦しいんだ。
「あああああ! 違う違うやめろやめろやめろ!!」
 なんだよ馬鹿、うるせえよ考え事もできねえだろ。俺は今わけがわかんないぐらい頭が痛くて気分が悪くて正直速攻吐きそうなんだ。ものすごい混乱してて、耳元でなんだかゴンゴン鈍い音が響いてて、指先なんか引きつっててそれを言うなら喉は全開で音を吐き出していて。
 俺はそこでようやくうるさい叫びの主を知る。
 ――ああ、俺か。
 この喉が眼が頭が身体が絶叫のままに泣いているのだ。
「勇者様!!」
 俺は泣きながら皆が駆けつけてくるのを見た。うわ、恥ずかしい。そう思うが体の方はどういうわけだか止まらなくて、もたれかかっていた墓石に後頭部をぶつけている。ゴンゴンうるさいわりに痛みがないのは、頭蓋骨が膨らむような強烈な刺激が続いているためだ。
 俺は叫びながらまるで子どものように暴れた。
「嘘だ嘘だ! ああああやめろおお!!」
「勇者様! 落ちついてください!!」
 首の後ろを支えてくれた誰かの手がぬるりとずれて、血が出ていることがわかる。俺はわあわあと叫びながら部下たちに揺すられた。
「あの女は捕獲しました。もう術は解けたのです!」
 うまく焦点を合わせられない目の前で、ルパートが男たちに捕まっている。抵抗する様子はなく、初めからわかっていたかのような態度で彼らに身を任せていた。
「騙されてはいけません! あれは魔獣です!!」
 ヤズトゥールが近くで叫ぶ。
「女の姿を取りあなたをたらしこんで、幻覚を見せる毒を盛った! 騙されてはいけない、それは魔獣の仕組んだ罠だ!!」
 俺は即座に声を上げていた。
「魔獣は悪だ! リジィアの神に背く穢れた汚物だ!!」
 考えはない。ただ反射だけが体を動かす。
 俺は天を仰ぎ叫んだ。
「私は勇者だ!!」
 その途端、砕かれるような頭痛が治まる。胃が裏返りそうなほどの吐き気も、悪寒も、突然に掻き消えて残されたのは呆然と流れる涙のみ。打ち付けた後頭部が熱い痛みを訴えてくる。先ほどの頭痛よりは随分ましな、奇妙な痺れ。
 静まった俺に安堵する周囲の者が目に入る。俺はヤズトゥールに支えられて、草地に足を投げ出していた。ようやく丁寧に物を捉えられるようになった視線はルパートを見つけ出す。
 男たちに引きずられ、連れ去られようとしている奴は感情の見えない眼をしていた。
 俺は、ルパートが俺のことを呼んでくれる気がしていた。
 今までもそうだったように、あの耐えがたい頭痛と吐き気を宥めたのは、奴ではないかと考えたのだ。
 だがルパートは熱のない顔を背けると、引かれるがままに去っていく。
 その後姿を見送りながら、俺は愕然としていた。

 魔王に触れる度に現れる体の拒絶。
 魔獣を認める度に全身を覆う頭痛と吐き気。

 それらは、すべて俺自身が生み出したものだったのだ。





 俺はあの時いやだと叫んだ。
 命を失い、次の世へと生まれ変わり、自分が何をしてきたのか自覚した途端、過去をすべて拒絶した。
 あの夜見た物事を、受け入れることができなかった。

 だから、なかったことにした。





「……勇者様、おかげんはいかがですか」
 布が作るやわらかな影越しに、ヤズトゥールの声がする。俺は何人目ともしれないそれに答えない。今は誰にも会いたくないのに一人になることもできず、俺はただベッドの隅で頭から布団を被っている。
 慰めのように皆はあれを幻覚だと教えてくれる。ルパートが見せた偽りの記憶なのだと。だがなぜ俺が過去の記憶を見せられたと皆が知っているのだろう。どうして、誰もが俺にひどく優しく触れるのだろう。
「勇者様」
 俺は今自分を罵り続けているところなのだから、誰も近づかないで欲しい。なんという愚かな生き物なのだと呆れて物も言えないのだ。
 あの夜、絶望のまま魔王を捜したその想いは本物だ。あの時は、たしかに呪いを受け入れて、すべての罪をこの身をもって償おうと考えていた。
 それより他に、道がなかったのだ。
 そうでもしなければ、一瞬でも地上に存在することができないとさえ感じていた。
 抱える罪と絶望に耐えきれず、保身として贖罪の道を行く。
 向かう先は随分と楽な場所に思えた。俺は光に導かれるようにして魔王を求め、そして、足をすべらせて山を落ちた。

 そうやってたどりついた日本という異世界で、一時は衝撃に身を潜めていた俺の勇者としての自尊心が罪の意識を凌駕した。あれは嘘だ、ありえない幻なのだと目にしてしまった真実を拒絶する。そんなわけがない。俺は特別な勇者として神に選ばれ、親の手から引き離され、もはやただの人ではないと隔離されて生きてきた。聖書や教本以外の書物を読むことは許されず、音楽は聖歌、学ぶ歴史は神話を元にしたもので、剣術や体術は悪を滅ぼすためだけのもの。全身の知覚が受け入れるものはすべて神の教えに染まり、それ以外には何もない人生を送ってきたのだ。そんな、それらが策略だったなど。肉親のように接してくれた司教様が、あのように醜い姿をしていたなんて、そんな馬鹿な。

 その思いが俺の最期の意識を上から覆い尽くしてしまった。
 記憶すら奥へとしまって思い出せないようにした。
 何もかも、俺自身が。

「申し訳ありませんでした」
 布の向こうで、ヤズトゥールが頭を下げる気配がする。
「上層部は、今まで貴方様のことを、ずっと騙しておりました」
 ああ、やはりそうなのかと考えるぐらいには、まだ希望に縋っていたらしい。俺は残りわずかな否定すら打ち砕かれて、布団の影の中に潜る。
「ですがそれは必要なことだったのです。あの頃の、この国の惨状を覚えておられますか。長らくの日照りによる飢饉と、戦乱のために起こる国交の断絶。我らも、教会として生きてゆくことが難しいほど貧困にあえいでいた」
 そう。あの頃は村も酷い状態だった。勇者として迎えられた先の施設も、とてもまともな生活ができるものではなく、毎日を具の見えないスープばかりで過ごした日々もあったほどだ。
 それなのにさらに山が火を噴いた。魔獣の毒が水を汚した。
 ……あの頃は神託の告げる通り、何もかも魔獣の仕業だと信じていた。だが今の俺はそれが創られた濡れ衣なのだと知っている。山の噴火はただの自然現象だ。魔獣は毒など持たない。その体に纏う泥には、人体に有害な菌が含まれていたのだろう。川から集落に流れ込むそれは、疫病の元となった。日本で高校まで学んだ俺は、それを推測することができる。だがあの頃は魔獣がすべての原因であり、悪だった。
「司教様は、皆の英雄を作ることを考えました。勇者は悪を滅ぼし、民の不安を駆逐する。力の象徴として人々を駆り立てるのです。魔獣を滅ぼしたあなたの勇姿は国中に広がりました。あなたに憧れた若者たちは兵士として集まり、この国の戦力となった」
「それで、戦争に勝ったのか」
「はい。この国は豊かになりました」
「それが原因で、今、危機になっているんだろう」
「はい」
 制圧した地での異民族の反乱。俺が知らない間にねじ伏せた国々に、仕返しを受けようとしているのだ。
 ヤズトゥールは座ることもできず直立しているのだろう。ひどく硬い声で続ける。
「司教様はあの夜酷く酔っておられた。普段は決してあのような方ではなかったのです。あのお方は全てを知っていた。魔獣がただの獣であることも、奴らが我々に抵抗する力を持たないことも。だからこそあのお方は魔獣を悪として皆に広めた。丁度良かったのです。勇者の倒すべき本当の敵は憎き敵国たちだった。だがそれでは伝説にはならない。人間ではない、正体の知れない悪が必要だった」
 俺は膝を握っていた。銀色の獣の視線が、人間と化したルパートのそれや血走った魔王の眼が今でも俺を射抜いている。震える体をヤズトゥールの声が撫でた。
「司教様が、魔獣を滅ぼすことに何の罪も感じなかったとお思いですか」
 顔を上げ布を落とす。見開いた俺の目は痛ましげなヤズトゥールの顔をみつける。
「あのお方はただ独り真実を知りながら、偽の神託を作り、丈夫な子どもたちを攫い、教育を施した。神に背くそれらの行為は我々のためでした。この国が生きていけるようにと、彼は独り苦しみながら伝説を創ったのです」
 あの夜の司教の声が俺の頭を叩いている。
 彼は、『私と同じ絶望に立ったのだ』と言った。それは孤独からくる魂の叫びではなかったか。仲間を得ることができた喜びではなかったか。俺は彼の同胞として生きていくことはできなかった。だが、ヤズトゥールは、きっと。
 俺の考えを裏付けるように、ヤズトゥールの目は深く据わっている。
「私は、あのお方の遺志を継ぐためなら何でもすると誓いました。それが神に背く行為であろうとも構いません。あのお方は最期まで苦しんでおられた。自分が犯してしまった数々の罪に。……あなたを、救いのないまま殺してしまったことに」
 びくりと揺れる。ヤズトゥールは静かに語った。
「あの夜から亡くなられるまでずっと、司教様はあなたの墓に詫び続けておりました。このような形でしか葬れないことを許してくれと。病により床から起き上がれなくなっても、あなたへの祈りだけは忘れなかった」
 愕然とするのはもう何度目になるだろう。俺は喉が痛むのを止められなかった。
 かつて父のように思っていた。世俗から切り離された俺には、神と、司教様のみが崇高な位置に存在していた。いずれはあのお方のようになるのだと、勇者として必ず役に立つのだと心から考えていた。
 それは過去の話ではある。今の俺には遠い考え方でもある。
 だがそれでも、こんな話を聞かされては。
 涙ぐむ俺をヤズトゥールが見つめている。
「勇者様。私は、魔獣を滅ぼすことに何のためらいもありません」
 その顔には決意があった。俺が二度の生涯で一度も持ったことのない、己の意志で導き出した道を睨む視線。
「準備が整い次第、貴方には魔獣の残党を殺してもらいます。民は皆あなたの勇姿を待っている。心の準備を整えておいてください」
 俺が何かを言ったところで変えられない物なのだろう。それほどまでに強い力をこの男は持っているのだ。
 では俺はどうすればいいのだろう。俺は、俺は一体どうすれば。
 それは自然と口をついた。
「エミールに、会わせてくれ」
 ヤズトゥールは警戒に眉を歪めた。


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