第41戦「見たね?」
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 どこからか砂をまぶす音がして、私は心の中で息をついた。いくら浮かれているからといって、子どものようにはしゃぐなとあれほど言い聞かせたのに。そう考えながらまぶたを開くと、白い布の塊がある。重く痛む酔いの頭を上げてみれば、あたりにはそれぞれのシーツに包まった部下たちが伸びていた。ぱらぱらという音は、彼らの戯れではなく屋根からしている。雨が、降っているのだ。
「ツタハ。おい。……まったく、弱いくせにあんなに呑むから」
 話しかけても最年少の魔術師はかすかなうなりを聞かせるばかり。ようやく幼さが抜けてきたとはいえ、まだまだ私から見ればただの小さな子どもに過ぎない。こんな乱痴気騒ぎに巻き込まれて潰れるなどいつもならば説教ものだが、今夜ばかりは許してやろう。リジィアの神も特別に恩赦を認めてくれるはずだ。
 今夜は、魔王を倒した誇らしき我が部隊の祝宴だった。
 魔獣どもに占領されていた神の祠を取り戻し、その帰路にこの村へと立ち寄った。教会の本部からは随分と離れた田舎であるが、私が神から命を授かった故郷だ。凱旋の宴は深夜に及び、村の者たちが眠った後もこの宿屋で笑い続け、そのままいつしか酔いつぶれてしまったらしい。雨の夜はよく冷える。宿のものが親切にも布団を出してくれたようだ。
 私は、動物か何かのように床に転がる部下たちを眺めた。皆満足そうに眠っている。自然と口がゆるむのを感じながら、ツタハのシーツを掛け直して部屋を出る。喉が渇いているので水を一杯貰いたい。それに、私としたことが無様にも酔いどれて眠ってしまった。もしまだ起きていらっしゃるのなら、司教様にご挨拶をしなければ。彼は討伐の成功を祝うために、わざわざ早馬を使って駆けつけてくれたのだ。
 そろりと廊下を進んでいると、奥の部屋から笑い声。冗談じみたため息が後に続く。
「……しかし、ここに来るまで随分と苦労をした。実に長い道のりだったよ」
「まったくです」
 酒に焼けた声は司教様とヤズトゥールのものだった。苦労と言っても喜びの結果なのだ。語る言葉は笑みに浮き、相手をするヤズトゥールもその息は笑っている。私の方まで嬉しくなって、ご挨拶をするためにそのドアへと近づいた。
 だがその足はすぐに止まる。
「十年か。使った子は幾らになる」
「あれを入れて、七人かと」
 司教様は甲高く笑い飛ばした。
「あれはいれなくてよい。こうして導くことができたではないか。そうか、では次のためにもう十人ほど予備を育てるとしよう。なに、世間は勇者に熱狂している。特に……そうだな、同じ村の出身となれば成功率も上がるだろう。明日にでも連れて行く者を選ぶ」
「あれにも選ばせてはどうでしょう。勇者じきじきの指名となれば、親も文句を言いますまい」
 何を言っているのだろう。誰かに説明をしてもらいたいが、介入のない二人の会話はよどみなく続いていく。
「それがいい。親どもを説得するには骨が折れるからな。勇者の口から語らせるのが一番だろう。『私は俗界との関わりを全て断ち切ったからこそ、こうして神の下僕となれたのです』とかなんとか言わせておけばいい」
 何の話をしているのだろう。心臓が嫌な予感に冷えていく。分かりかけているのに、それを認めることができない。ドア越しにヤズトゥールが笑う。
「あれの親には、司教様も随分とてこずられたようで」
「今となってはもはや何も言わんがな。初めの頃は、わざわざ本部まで押しかけてきてなぁ……手荒にするわけにもいかず、面倒なものだったよ。やれ食事はきちんとしているか、やれ体を悪くしてはいないか。『あの子はよく布団を蹴って、寝冷えをしてしまうんです。掛け直してあげてください』」
「ああ、だから今日もわざわざ」
「私も悪魔ではない。司教として約束してやったのさ。『ご安心くださいお母様。彼には不自由のないよう教会が手を尽くします。さあ、嘆いてはいけません。彼は神の膝元へと近づいたのです』」
 高らかに張られる声は雨音すらかき消した。硬直した私の体に、厭らしい声がかかる。
「腹の具合はどうだね? “勇者様”」
 ヤズトゥールが動揺する気配がした。司教様は揺るぎもしない口調で続ける。
「聞いていたのだろう。そう、お前の母親に頼まれてからずっと、私は眠るお前の布団を直してやったのだよ。それぐらいはしてやらねば可哀相だろう。まだ幼い息子を勇者などという得体の知れないものと決められ、その命も何もかも我々に奪われるのだからなあ。悲劇的な話だよ、なあ勇者!」
「司教様!」
 ヤズトゥールが止めに入ってもまだ話は終わらない。酔いに任せた饒舌な口が私の足を崩していく。
「そうさお前は七人目の勇者だったよ。一人目は精神を病んで死んだ。二人目から先はもうろくに覚えていないが、どれも自ら命を絶つか脱走の末に殺されたのだ! お前だけだ、馬鹿正直に我々の言葉を信じ、最後まで自分を特別な者と信じ込んで手足となり動いたのは!」
 喉が裂けるほどの嘲笑。酒に動かされるがまま、叫び声は止まらない。
「お前はこの世の全てが神によって動かされていると信じている! 馬鹿め、そんな楽な世界があるものか。もしそれが真理であれば誰も悩むことはない。後悔も、怖れもない!」
 閉じられたドアの向こうで司教様は私の目を射抜いている。遮られていても、それが、わかる。
「お前はいいだろうなあ、何も考えず神託のままに動いていればいいのだから。ああそうさ、私はお前が憎いのだよ。ただひたすらに神と私を信じ、己の言葉を持とうとしない。今だってそうやって扉を開くこともできない。そうだろうなあ、親につけられた名も忘れるほど神の教えに染まったのだから」
 震えているのは怖れだろうか怒りだろうか。わからないまま、私は弱き手を伸ばす。力が入らないのを骨が折れてもいいとばかりに無理やりに押しつけて、取っ手を回し、か細い光を暗がりと化した廊下の中に流し込む。
 開かれた扉の向こうには、醜く笑う司教の赤ら顔があった。
「見たな」
 引き攣れた口がさらに笑う。高く張られた声を放つ。
「これでお前はもう戻ることができない! 私と同じ絶望に立ったのだ!」
 その笑顔は歓喜から極彩色に照らされている。おそろしく歪んだ喜びのかたち。
 気がついた時にはもう、私は逃げ出していた。
 雨粒の降りしきる真夜中に佇んでいた。
 星月は目にも見えぬ雲に塗りつぶされて地上には明かりもない。唯一の光源は背後の宿屋の窓だけであり、そこからは司教の声が延々と鳴り響いている。そこに戻るわけにはいかずすぐにでも往く場所を探しているのに見つからない。
 神の声が、降りてこない。
 どの教本にも、このような場合への救いは書かれていなかった。
 私の頭は何百とある教本のページ全てを諳んじることができた。神の教えは常に私の傍にいて、迷いなど掴む暇すらなく往く道を教えてくれた。だが今は。この、司教が絶望と呼ぶ状況に、辿るべき道はない。
 私はただ呆然として全身を夜に濡らしていた。
 雨粒が降りる先に、灰色のもやを見つける。シーツか何かが転がっているのかと考えた。だが白いそれは大量の水を浴びながらゆっくりと身を起こす。私は立ちつくしてそれを見た。銀色の毛並みを持つ、魔獣を。
「なぜこんなことをした」
 獣は、まるで神託のように問う。
「我らが何をした。聖地など知らない。我々はただ山の火から逃れただけだ」
 決して流暢とは言えない発音が雨の中鈍く響く。
「なぜ我らの主が殺されなければならなかった」
「や、山の噴火はお前たちが起こしたものだ」
「どうやって」
 尋ねられて初めて気づいた。――そうだ、どうやって。
「ただの獣にどうしてそんなことができる。なぜ誰も不思議がらない」
「お前たちは神託に定められた災厄の一つだからだ。遥か昔から、この戦いは予見されていた」
 だからこそ勇者として私が選ばれたのだった。教会に引き取られ、悪を滅ぼすべく育てられた。
 ――だが、それも。
 私は全身を蝕もうとする悪寒から逃れるため口を走らせる。
「お前たちは悪だ。毒を撒き、疫病を蔓延させた。毒にまみれたその体は地底より現れた悪なのだ」
「我々は毒など持たない。毒を使うのはお前たちだろう。矢に塗ったそれで我らが主を殺めた」
 こわばった体が揺れる。獣の声がたたみかける。
「この体のどこに毒がある。調べればいい。お前たちはどうして解毒剤を作ろうとしない。汚らわしい魔獣に触れ、その泥を調べることでわかることがあるはずだった。だがお前たちは我らを見ない。同胞の亡骸は捨て置き、我らが主の首は宴の肴として辱める。我らが何をした。我らが何をした」
 闇に落ちる獣の眼は暗い穴のように見えた。
 獣は私を見つめて呟く。
「呪われろ」
 泥に染まる銀の毛並みが口の動きにあわせて揺れる。
「呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ」
 私はまた逃げ出した。ただ意味のない悲鳴ばかりが冷えた喉を震わせていた。
 戻る場を失いながらも、私の中にはいつの間にか行き先が生まれていた。
 神の祠。この手で魔獣たちを殺した戦いの場所。
 頭の中には銀色の獣の言葉がとめどなく流れている。山の噴火は魔獣のしわざではない。魔獣は毒を持たず、疫病を流しもしていない。それならば誰がやったのだと私は心で叫んでいる。村の子どもたちを殺した病の原因は。人々を絶望に叩き落した災厄は何によるものだったのか。魔獣が原因でないのならば神はなぜそれを指示した。おかしいではないか!
 だが同時に冷静な己の声が語っている。勇者など本当は存在しなかった。魔獣はただ罪を被せられただけだ。司教の言葉がそれを語っていたではないか。銀の魔獣が教えてくれたではないか。魔獣は何もしていない。それならば、私のしたことは。
「魔王」
 私は、初めて憎しみなくその名を呼んだ。頭にはこちらを睨みつける血走った獣の眼がある。
「魔王。魔王。魔王」
 うわごとのように呟きながら、私は夜の森を進んだ。明かりがないため正しい道を進んでいるのかわからない。ただ手探りで木々に頼りながら歩む。魔王。魔王。魔王。私はただその獣を呼びながら進んだ。もうその先にはいないのだと知りながら、それでも魔王を探している。
「魔王」
 お前に訊きたいことがある。
 いや、その必要はないのだともはや私は知っていた。
 お前に、言わなければいけないことがある。

 なあ魔王、どこにいる。
 お前は一体どこへ往った。神に悪とされる命は天上へは昇れまい。ではお前はどこへ逝く。もし、神の言葉が偽りであればなおさらお前はどこにいるのだ。この手によって命を失い、地上の体は骸となって我らの慰み物となった。お前はそれを見ていたか。無念を残す魂は我々を呪っているか。
 今でも、あの最期のひと時のように。

 それならば私はお前に逢いに往こう。お前の望む通り、銀の獣が望んだ通り、私はお前に呪われよう。

 なあ魔王、話したいことがあるんだ。
 お前に言わなければいけないことが私の中であふれている。
 その呪いが本物であれば私はお前に逢えるだろう。その苦しみと怒りにひとつの路をみつけるはずだ。私はそれを歩いて行こう。たとえその先にあるのが憎しみでも、恨みによる罵倒でも、私はそれを全て受けよう。

 それが、今の私にできる唯一のことではないか?


 雨音に混じり人の声と熱がこちらに近づいてくる。どうしてだろうか、私はそれを静粛な気持ちで受け入れていた。ヤズトゥールの声がする。捕獲しろと叫んでいる。続くのは部下だった者たちの放つ物音だ。明かりが木々と私を照らした。眩しさから足を引く。誰かが、悲鳴を上げた。




 そして、“俺”は、最初の命を失ったのだ。


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