第40戦「面倒だよね」
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 眼下では、涼やかな銀の髪が揺れている。俺の腕にしがみついているからだろう、風に流れるそれの歩みはゆっくりとためらうようだ。俺は、わずかな隙間も哀しいと言いたげに肌を寄せる、妻の肩をそっと抱いた。
「勇者様……」
「ああ、エミール。お前はいつも素晴らしい」
 うっとりと謳えば、エミールはその透き通る肌をほのかに染めて、目を伏せる。
「まったく、いつになったら慣れてくれるんだ? そんなに恥ずかしがっていたら、お前の顔がよく見えない」
「申し訳ありません。殿方とお話するのには慣れていなくて……それに、勇者様のお顔を見つめるなんて、とても」
「ははは。まったく、俺は恥ずかしがり屋の子猫ちゃんをどう導けばいいんだろうな」
 こつん、と額を小突くのは、もう恒例となっている。やはりバカップルと言えばこれだろう。漫画やコントで見かけるだけで鳥肌が立つのだから、今の俺たちはさぞかし耐えがたい光景に違いない。
 さあ! 存分につっこむんだツタハ!
 だが俺の期待を遠く離れ、側近を努める魔術師は歯を食いしばっていた。
「……ツタハ」
「なっ、なんでしょう勇者様! 申し訳ありません、ぼんやりとしておりましたッ!」
 いやぼんやりとは世界一程遠い表情に見えるんだが。ツタハは、そのままではあごが破れるのではというぐらいきつく歯をかみ締めている。形よく整えた眉などは、人間の限界に挑戦するレベルの皺を刻んでいるし、本当に、そこまで我慢しなくても。と優しい声をかけたくなる。
 いや、むしろ我慢をしないでくれと泣きつきたい気分だった。
「ツタハ、俺はこんなことでは怒らない。だから正直に言ってくれ。……お前、エミールのことを……」
「何をおっしゃるのですか勇者様! 貴方の奥様に想いを寄せるなどとんでもない!! どうやら誤解をされているようですが、私は彼女とは昔からそりが合わないのです」
 ふう、とわざとらしいため息はかすかに哀しく濡れている。ツタハはいかにも三文芝居といった動きで、やれやれというポーズを取った。
「勇者様の前でこんなことを言うのは大変失礼なのですが……本当に、前々からどうしても好かないと思っていたのです。まあ顔は極上ですから、周りの者は皆憧れていたようですがね。しかし彼女ときたら、気位ばかりが高く、女の呪術師であるのにいつも私の理論を砕く。もちろんそれは奥方が優秀な術師である証拠なのですが、私はそういった才女よりも、常に身の回りを支えてくれるような大人しい女が好みなのです。まったく、私が彼女のことを好きだなんてとんでもない誤解ですよ!」
 だがその目の周りはただれるほどに赤く腫れ、泣きすぎによる寝不足は重いくまをも提げている。ったく、相変わらず面倒な奴だ。子どもの頃から何ひとつ変わっちゃいない。
 お前、そんなこと言ったって、毎晩毎晩エミールゥウウとかうめきながら泣いてるって苦情がいっぱい出てるんだぞ。気づかれていないと信じているのはお前だけで、教会中の誰もかもがお前の想いを知ってるんだ。だからもう素直になって、吐くだけ吐いて楽になれよ。
 そう、肩に手などを置いて慰めたいがルパートがそれをさせない。この極悪犬は、本当にツタハのことが嫌いらしい。こうやって寸劇の台本などを作り上げては俺に演技を強要する。そろそろ、全身がかゆみに侵されてしまいそうだ。
 エミール、と呼ばれているルパートは俺の腕に絡みつく。
「そうですよ勇者様。今は、わたくしだけを見てください……」
 夢見るように上げられる顔。青みがかった灰の目が、うっすらと潤んでいる。
 え、キスしろってか? 男二人にそれぞれ別の意味でとどめを刺せってか?
「今は、わたくしだけを……」
「勇者様! 奥方様っ! 私はここで失礼いたします!!」
 伏せた瞼を近づける光景から逃れるべく、ツタハは悲鳴に近い声を張る。
「警護中申し訳ありません! 何かありましたらすぐにお呼びください。ではっ!」
 そしてたちまちに影も見えなくなるほど素早くこの場を去ってしまった。
 俺は腕を引くルパートに寸前まで顔を近づけたまま、しばし周囲の音を探る。誰も、いない。それを確かめたルパートが手を離した瞬間、俺はぶはあと息を吐いた。
「な、何やってんだ俺……」
 心からそう思うが、すべての元凶である銀髪美女はいけしゃあしゃあと答えるばかり。
「もちろんわたくしの個人的な復讐心を満たすためのスペシャルな作戦ですよ」
「言っちゃったな。個人的って言っちゃったな自分から」
「ええもちろんそれ以外に何があると言うのです。長年のセクシャルハラスメントによる精神的な苦痛を、こうして今晴らしている。ああ、今日の空気はなんと清々しいのでしょう! ツタハ撃沈記念日と名付けたいぐらいです」
「ツタハもなあ……なんでこんな女になあ……」
 しかもセクハラったって、夜道でこっそり手を繋ごうとしただとか、密室に閉じ込められてドキドキを企んだとか、そういった可愛らしい程度のものだそうじゃないか。いや密室は危険かもしれないが、わざわざそのために部下を動員して計画しているあたり、よほど好きで好きでしかたがないのだと同情してしまう。
「まあ、あんな駄目人間のことは忘れて本題に移りましょう。計画通り、人気もなくなったことですし」
 何らかの方法でツタハのフォローをしたいのは山々だったが、なにしろ時間が限られている。俺はうなずいてそれを仰いだ。大理石で作られた巨大な像。俺の背丈よりも高い台に立つそれは、獣の首を天に掲げ、父なる神へと捧げている。
 魔王を倒した勇者の像。そしてその台座となっているのは。
「……何回見ても慣れないな。自分自身の墓ってのは」
 俺は指先で墓標をなぞる。“最も気高き魂を持つ神の使い”。俺はもう人間ではなく、その功績ゆえに神の直属の部下となったそうだ。墓標には、その他にも俺の功績を讃える文が続いているが、親につけられた名前はどこにも刻まれていなかった。
 勇者はもはや人間などという地上の生命ではなく、天上を住処とする尊い存在なのである。
 だから、人としてつけられた名は捨て、ただの人間である血族とは縁を断たなくてはならない。
 それが、勇者として神に仕えるということだ。
「ばかばかしい」
 冷笑が俺の心を揺さぶる。像を見上げるルパートの横顔は、蔑みに歪んでいた。
 断言をされてほっとしているのも事実だ。日本という異世界で、無宗教の家庭に暮らした十数年が、この事実を笑い飛ばしたい感情を俺に与えている。だがそれ以上の神への想いが神経を逆撫でた。
 魔獣が。と心で呟く。所詮、リジィア神の慈しみなど獣には理解できないのだろう。ルパートを見る俺の目は同情にゆるんでいく。
「あなたは、これでよろしいのですか」
「もちろん。こんなにも喜ばしい称号はない。“私”は、神に仕えるためだけに生きてきた。同じ努力をしていても、ここまでの境地に達することのできる者は少ない。かつて勇者として神に認められたのは、三百年前の……いや、俺が死んでから時間が経ったから、ええと」
「カルファン暦1824年、ハードウの乱を鎮めた勇者」
「そう。よく知ってるな、さすが聖女」
「あなたこそお忘れになったんですか? それも、あなたの前世なのでしょう?」
 言っている意味がわからなくて、俺は平然とした女の目を見る。
「……え」
「勇者の魂は役割を終えるとまた神の元へと帰り、次なる民の危機へと備えて深い眠りにつく。今の世では、そういうことになっています。新たに神より伝えられた事実だそうですよ。司教様が神託を授かったのは、勇者が死んだ夜だそうです」
「それは、魔王を倒した方の?」
「ええ。勇者は魔獣の毒により命を落とし、人々は嘆き悲しんだ。悪の力が神のそれと相殺するほどのものではないかと不安がる者もいたそうです。次なる危機が訪れた時、どうすればいのだろう。そう怯える信者たちに、リジィア神は告げたのです。勇者は役目を終えてわたしの元に還ったのだと。そして再び世界が悪に汚される時、この魂を人の元に遣わす、と」
 俺は呆然と脳内に染みついた聖書の言葉を探していた。だが、そのような文章はどこにもない。俺が死んだ後に授かったのだから当然だろうか。しかし、そんな。
「……俺はハードウの乱を鎮めたのか?」
「さあ。わたくしには分かりません。所詮はただの獣ですから」
 ルパートの口ぶりには嘲りが含まれている。それに苛立つ余裕もない。混乱が全身を支配している。
「待て。俺は魔獣の毒に殺されたのか? いや……どうだっただろう。俺は、俺は、どうやって死んだんだ? どうしてそれが思い出せない?」
 昔は知っていたはずだった。それなのに何故だか今は記憶にない。
「……待て」
 ようやく、奇妙なことに気がついた。ルパートの話が真実ならば。
「俺は、どうして今この世界に戻されたんだ」
「まだわかりませんか?」
 嘲りを含む声。それが俺に向けられたものなのだとようやく気づく。ルパートは鼻で嗤うように言った。
「勇者というものは、窮地に現れるものなのですよ」
 だからその窮地とは何なのかと問いかけて、思い出したことがある。
「そうか。魔獣の動きが活発になったから」
「表面上は、あくまでもそういうことになっています」
 あっさりと言い放つルパートは、冷ややかに続けた。
「ですが実際にはそのような事実はない。人々は情報に踊らされている。魔獣などただの前哨戦に過ぎず、教会と国の狙いはあくまでもその奥にあります」
「奥?」
「異民族の制圧です」
 冷静な声が腹の底まで重く落ちた。
「地図をご覧になりましたか。あなたが亡くなられてから、この国は領土を倍に広げました。隣接する国を支配下に置いたのです。それだけでなく、遠方に植民地まで作っている。思い当たる節はおありでしょう?」
 愕然とする頭は確かな事実を転がしている。いやに豪華になっていた皆の暮らし。特に上層部は、どこまでも金のかかる生活を当たり前にしていて、俺はあんな極貧の状況からどうやってと不思議だった。
 そして、ヤズトゥールたちが連れてきた「この国選りすぐりの美女たち」。肌も髪も異なる色をもつ彼女たちは、きっと、支配地から連れてきた……。
「そのうちのある民族が、反乱を企てています。しかも他国と手を組んで、一気にこの国を転覆させようとしているという情報がある。極秘としてありますが、どこからが噂が立った。人々は皆得体の知れない不安に襲われている。勇者の登場を、心から願うほどに」
 だからあんなにも熱い目で俺を呼んだのだ。
 ただの若造にしか見えないはずの俺を、勇者様と崇めるのだ。
「そしてあなたは願い通り現れた。魔獣を屠り、その後は異民族をも殺すのでしょう。そうして勇者はまた神の膝へと戻る」
「ど、どうやって……。魔獣の、毒で?」
「魔獣は毒など持ちません。それも忘れてしまいましたか」
 ルパートはかすかな息をついた。
「わたくしが、“あの時”教えてあげたというのに」
 細められたその目に殺意のようなものを感じて、俺は背筋を凍らせる。氷のような、憎しみを潜めた瞳。それが俺を見つめている。
「貴方は知っているはずです。なのに思い出すことができない。その記憶を取り戻すためにここへ来たのでしょう? 三日をかけて薬を飲み、かつての身体に問うために自らの墓を見つけた」
 どうしてだろうか、それ以上聞いてはいけない予感がした。俺の中の深い部分が、更なる事実への介入を拒んでいる。吐き気が胸元を覆っていた。足元が消えていくような感覚に、俺は頭を揺るがせる。
「俺は……お、俺は」
「記憶は魂だけでなく肉体にも記録される。もはや骨になっていても、何もないよりはましでしょう。あなたの葬られたこの場所は、思い出をひもとくにふさわしい。この薬をお飲みください。そうすれば夢の中で現を知ることができる」
「駄目だ。待ってくれ。お、お前が教えてくれればいい。昔も俺に言ったんだろ? だったら、お前が口で言ってくれれば」
「魔獣の話を貴方が信じるはずがない」
 冷ややかな言葉に心臓を貫かれた気がした。
「それが手酷いものであればあるほどに。……だからこそわたくしは待ったのです。あなたがこちらの世界に来て、複雑な術を受け入れることができる日を。面倒な作業もこれで終わり。長らくの疑問は今解かれます。あなたが知りたがっていた、勇者と魔王の全ての事実が明かされる」
 興奮しているのだろうか、ルパートは口早になっていた。変わらない顔色の中で、唇だけが震えながら動いている。
「知りたかったのでしょう? 何故、あのお方に触れただけで拒絶反応が起こるのか」
「……お前、知ってたのか」
「いいえ。それについてはわからない。だからこそ求めるのです。あなただけが知ることのできる真実を」
 導くように向けられた手の先には、勇者を讃える石碑がある。
 ただ、勇者としか刻まれていない墓。その中にはかつての俺が眠っているはずなのに。
 昔の俺はどんな名前だっただろう。それすらも、思い出せない。
「わかった」
 俺はうなずいていた。吐き気などどうでもいい。今は、このわからない思いを片付けてしまいたい。俺はルパートから薬を受け取り、一息に飲み干した。そうしている間にルパートが墓碑の裏に印を書き、そこに座れと説明する。俺は、言われるがままその術印に背を預けた。途端に体が沈むような感覚に襲われる。
「眠る前に、ひとつだけお聞きください」
 暗がり始めた視界の奥で、ルパートの声がした。
「わたくしは、人間として潜り込んだこの七年で、上下水道の完備を成し遂げました」
 何を言っているのだろうか。尋ねようにも目が開かない。眠りかける耳に言葉が響く。
「我々とて、何もしなかったわけではないのです」
 その音は頭の中に反響して、まるで犬だった頃の奴に話しかけられたようだった。そうだ、昔はお前も犬だったんだよな。そういえばそんな時期もあったんだ。もう、随分と前のことに感じられるけれど。そういえば、何か足りないものがあるような。俺と、犬だったルパートと、まだ何か、あったような……。
 ぼやけていく思考の中に、はっきりとした声が響く。
「それでは、よい夢を」
 消えていくそれを最後に、俺は眠りの旅路に落ちた。


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第40戦「面倒だよね」