俺はどうして今ここに生きているのだろう。そんな馬鹿なことを考えてしまうほど、ここ三日間の俺の周囲は驚愕の連続だった。前の世界への帰還。ルパートのこと。そして、結婚。心臓が三つあるというタコでもさすがに死んでしまうレベルだ。俺は笑った。 はは、結婚かあ。人生って何があるかわからないって言うけれど、本当に予測不能だったなあ。だってたった一度のキスで、翌日には式を挙げているなんてな。そして今が初夜だなんてな。しかも相手はあのルパートだぞ? この前まで完全に犬として見ていたあの毒舌犬が、今日から俺の妻だとはなあ。驚くよな。なあルパート? 「いないけどな……」 俺は広大なベッドの上で、ひとりシーツをいじくった。新婚仕様の寝具には、イエスノーまくらも真っ青なほどバラエティー豊かなグッズが並べられているが、肝心の新婦はいない。まあいても困るけどな! いない方が嬉しいけどな! 鬼のような速度で進められた婚儀の意味を聞かされたのは、つい先ほどのことだった。何しろそれまで、俺はルパートと二人きりで話すこともできなかったのだ。服を着せられたり髪型を整えられたりして誓いの間に入ってみれば、質素ながらもまばゆく見える花嫁がそこにいて、なんか歓声とか涙とか嗚咽とか忍び泣きが響く中結婚してしまったので。あの毒舌犬め、教会内に大量のファンを抱えてやがったらしい。特にツタハの消沈ぶりはすさまじく、そうか魂が抜けるというのはこういうことなのか。と妙に納得できるほど影が薄く消えていた。ごめんなツタハ。悪いのは全部ルパートなんだ。マジで。 とにかくそんな混乱の中で結婚式を終わらせて、寝室に二人きりとなったところでルパートは言った。 「では、実家に帰らせていただきます」 「待て」 俺は全身全霊の力を持ってツッコむが、唐突すぎて言葉が出ない。 「待て待て待て。待て。ちょ、なあ!?」 「どうかいたしましたか旦那様。マテマテカブリになっていますよ」 「マイマイだよ。言葉の被りじゃねえよ。……あっうまいなぁお前」 「光栄です旦那様もしくはダーリン。では朝までには戻りますので」 「だから待てったら。説明しろ!」 ネグリジェを引いたところでルパートは息をついた。やれやれと聞こえそうなほどにわざとらしい音。混乱を隠しきれない俺に向き直り、新婚初日の新妻はひとりベッドの上に座る。 「ではそこにお座りなさい甲斐性なしの駄目夫」 「一日目のしょっぱなからレッテルを貼るな。あと夫とか言うな」 「まあめでたく夫婦となれたのですから、それぐらいは結構ではありませんか。まあ言っておきますが、別に貴方が好きだから結婚してねウフフとかそういうことはありません。これはひとつの苦渋の決断だったのです」 「昨日、ものすごく嬉しそうに見えたのは気のせいか? なあ気のせいか?」 一生忘れねえぞあの極悪な笑顔。醜い形で念願が叶ったかのような、昼ドラの悪役の女みたいな表情だったのだ。思い出しただけで、いろんな意味で泣きそうになる。 「あれの理由についてはまた後で。まあズバリ言ってしまいますとね、わたくしは最近正体を疑われておりまして。夏ごろでしょうか。あなたたちが生まれ変わった世界でのことですが、罪のない花屋の店員に乗り移ったツタハとかいう脳みそからっぽの若造が、わたくしと盟主様の仲の良さを知ってしまいましてね。それを聞いたヤズトゥールが疑惑を抱いてしまったのです。ええ、あのプライドばかりでどうしようもない駄目魔術師のせいでね」 「お前、本当にツタハのこと嫌いなんだなあ……」 こいつの毒舌に、ここまで愛と芸がないのは初めてのことではないだろうか。昼間のツタハの落ち込みぶりを考えると、ものすごく不憫である。 「ともかく、わたくしは魔獣のスパイではないかと疑われるようになった。悪いことに証拠品が集まりはじめておりまして。そろそろ限界かと覚悟をしていたのですが、まあこうして勇者様と結婚することができましたから、しばらくは誤魔化すことができるでしょう。ここにおいて勇者の地位は絶対ですからね。その妻ともなれば、不用意に問いただすことはできない。遠まわしに口説き続けたり、わざと仕事を増やして残業させて、真夜中までふたりきりを画策したりもできないのですよ人妻ですから。ざまあみさらせですね」 「ツタハか? それツタハがやってたのか?」 「しかもこうして夜ともなれば、邪魔者も入らない。いいことづくめではありませんか仮面夫婦。すばらしいですね仮面夫婦」 「ああ、なんだかもう何もかもどうでもよくなってきた……」 本当に。今世界が滅びても驚かない気さえする。現実逃避に眠りたくなっていると、ルパートはベッドを降りた。 「では、わたくしはこれで」 「待てって。だから、実家ってどこだよ。そのへんが意味不明なんだよ」 「おや。まだおわかりになりませんか?」 そして、奴はここでようやく新しい事実を告げた。驚かないと考えたことは訂正しなければならない。まあ今までのことに比べればその規模こそ小さいが、俺は目を見開いたのだから。 語り終えたルパートは、涼しげな顔で言う。 「わたくしは、規律によってこの建物を出ることができません。こうするより他に方法はなかったのです。わかりますか流され性の一反木綿。では脱出がばれないよう、偽装工作をお願いします。明け方には戻りますので。……あ、そうそう」 窓枠に手をかけたところで、ルパートは振り向いた。 「どうして昨日、あなたへのくちづけごときで嬉しそうにしていたか、ですが」 「ああ。でもさっき言ったじゃねえか。偽装結婚計画が成功して、嬉しかったからだろう?」 「いいえ」 首を振られる。細やかな銀の髪がさらさらと音を立てる。 ルパートは、口許をつり上げて笑った。 「これで、ファーストキスは失くなったでしょう?」 あなたの。と囁いて、そのまま外に飛び降りる。俺は一瞬言葉の意味を掴みかねて呆けていたが、すぐに奴の言わんとすることに気づいて絶叫したい気分になった。 あの馬鹿犬は、わざわざその身を挺して「長谷川圭一の初キスは水谷あきらデス」という状況を打ち砕きやがったのだ。考えようによっては、俺を独占したいという女心に取れなくもない。だが俺は確信していた。あの女の目的は嫌がらせだ。それも、「うちの盟主に手を出すな」的なニュアンスを多量に含んだ。見下した笑みがそれを語っていた。 「……やべえ。なんかちょっと泣きたい」 俺はシーツに顔をうずめる。明け方まではまだ長く、俺はそれまでただ待つことしかできない。おまけにしばらくはあの極悪女が相方だ。なんなんだこの不幸っぷりは。 俺はどんよりと沈む体を起こし、開け放していた窓を閉じる。 異世界の月は、日本のものとよく似た真円だった。 あいつもこれを見ているだろうかと、考えずにはいられなかった。 |
洞窟に、ふたつの淡い光が灯った。ひとつは人間たちが使うランプであり、もうひとつはそれに照らされた白銀の髪である。月にも似た輝きを纏いながら、ルパートは通い慣れた地下を進んだ。自然が、何千という時をかけて作り上げた巨大な要塞。これを見つけるまでどんなに苦労しただろうかと、ルパートはここに来るたびに当時のことを思い出す。
足場は常に濡れており、泥がそこらを這っている。ルパートは人間の靴を手に裸足で歩いた。汚してしまわないよう、スカートの裾は結んである。あられもなく晒した肌は、光を受けてさらに白んだ。本当は人の作り出した服など脱ぎ捨てたいところだが、入り口に証拠を残すわけにはいかない。それに、そんな姿で現れれば驚かせてしまうだろう。 ルパートは長い道の終わりとなる穴を抜け、土の中の広間に出た。 「盟主様」 土に汚れた制服が、ぴくりと動く。振り向いた顔が涙を浮かべた。 「ルパートぉ……」 ひく、と嗚咽をもらして泣きじゃくる。ルパートは駆け寄ってあきらを抱いた。親しみと愛を込めて、ほどけてしまった髪をなでた。 「申し訳ありません。遅くなりました」 「お、おそすぎるのだ。どうしたかと思ったのだー」 見上げてくる目が赤いのは、涙のせいだけではないのだろう。あきらは、自分よりも背が高くなってしまったルパートにしがみつく。ルパートは謝罪を繰り返した。 「少々、手間取りました。ですがこれからは毎晩通うことができます」 「昼は? 昼はいないのか?」 「申し訳ありません。皆と共にお待ちください」 そう、注目を周囲に向けさせれば、あきらはまた悲しげな顔をする。広間としている穴の中に集まるのは、二十と少しの同胞たち。人間に魔獣と呼ばれ、非道な扱いを受けてきた仲間である。昔は、この何倍もの数がいた。今は、別所にいる者を入れてもたった四十にも満たない。 黒い毛皮は保護のため泥水に浸されて、さらに濁りを深めている。洞窟の中は夜よりも暗い闇の色に沈んでいた。 同胞が啼くのを聞いて、あきらはかすかに喉を鳴らす。それが獣の言葉だと知り、ルパートは喜びに彼女を抱いた。あきらは笑う。力なくも嬉しそうに。 「だいぶ、喋られるようになったんだ。みんなの言ってることもわかる」 「ええ。この喉でも慣れればうまく行くんですよ」 微笑んであきらの頭を撫でるルパートは、今までのような罵倒をまるで忘れてしまっている。それほどまでに余裕をなくし、また、素直な気持ちとなっていた。 あきらをこの世界に連れてきたのは、最大の賭けだった。元は人間たちの計画である。魔王を呼び寄せ、同時に勇者も手に入れて、伝説の再来を目指す。彼らは欲と利益のために、「勇者による魔王狩り」を再び繰り広げようとしているのだ。ルパートは初めはそれに反対だった。理由など考えるまでもない。だがそのうちに、人間のものとは違う作戦を思いつく。ルパートはそれを遂行するために、計画に参加した。 そして犬の助の体に移り、酒入りの牛乳に潰れるあきらの髪を口に含む。口内に入れたものは、少量であればこちらの世界に持ってくることができた。同じ手法で勇者の髪も既に手に入れている。あとは術の準備をし、実行を待つばかり。 人間たちの予定では、魔王は彼らの指定した場に召喚されるはずだった。だがルパートは術を曲げて別の山の中へと飛ばす。勇者の再来に沸く教会を抜け出し、事情もわからず呆然とするあきらを見つけてこの洞窟に連れてきた。そしてヤズトゥールには、魔王はまだ見つからないと嘘をつく。後は圭一に会い、うまく時間がつくれるように結婚の話を進める。 それだけで、三日もかかった。あきらを放置する形となったルパートは、その間ずっと彼女のことを案じていたのだ。皆に溶け込めているだろうか。帰りたいと泣いてはいないだろうか。こちらの都合で連れてきてしまったからこそ、罪悪感は胸を痛めた。 「ルパート、大丈夫か?」 見上げてくるあきらの顔は、明らかに心配していた。 「ルパート、我は平気だ。食べるものも、水も、みんながちゃんと教えてくれた。夜だって眠ってる。あっちの世界にいたときより、ずっと元気になったぐらいだ。どうしてだかわかるか?」 優しく語りかける言葉。まるで子どもに伝えるように、あきらは暖かく笑う。 「お前が生きていたから。だから、我は元気になった」 ルパートは息を呑んだ。 長い間泣いたのだろう。何度もこすった顔や目は泥にまみれて腫れている。学校の制服も、二つに結んでいた髪も、すべてひどく汚れていた。晒された肌には擦り傷がいくつもある。それだけではなく、爪の痕も。 「盟主様」 「初めは、みんな、我のことわからないから。それでちょっとけんかになった。でももう大丈夫。知っている者は思い出してくれたし、知らないものも覚えてくれた。なあみんな?」 同胞が一斉に声を上げる。それは喜びの歌だった。あきらは、ぎゅうぎゅうと喉の音でそれに応える。黒の山と化した中に、ほつりと淡い白がある。ルパートが呼ぶと、こちらに来た。まだ若い獣だ。一匹だけ、皆とは違う灰色の毛並みをしている。獣は泥にまみれたそれを、あきらの足に摺り寄せた。 「お前の孫か」 ルパートはうなずく。 「はい。ここまで、生き延びてくれました」 娘たちは人の手によって死んだ。それでもこの子は生きてくれた。 「かわいいな」 「はい」 微笑む。あきらはしゃがみこんでルパートの孫を撫でた。まだ小さな角を揺らして擦り寄るのを、笑いながら抱き上げる。制服が汚れるのも構わず、犬のように垂れた耳から、濁った水が膝へと落ちていくのも気にせずに。 「ルパート」 あきらは彼女を見ずに言った。 「もう、勝てないんだな」 「はい」 説明など必要なかった。人間を知ったルパートは、もはや獣に勝機がないことを痛ましくも理解している。あきらもまた、人間として生きた十五年の知識を踏まえ、この地下での生活を見てすべてを察したのだろう。人間と正面からぶつかっても、獣たちに勝機はない。では皆に残された道は。 「圭一と我を一緒に遊ばせたのも、和解させるためだったんだな」 「はい」 初めからそのつもりでいたわけではなかった。だが楽しげに遊ぶ二人を見て、ルパートはあきらが勇者に好意を抱きかけていることに気づいた。そして、犬の体で、圭一に遊んでもらった。その頃からだ。和解の計画を立てはじめたのは。あきらには勇者を懲らしめるためと偽り、ふたりが、気持ちを寄せていくように様々な手を打った。 あきらはルパートの目を見つめて問う。 「はじめから、我を騙していたのか」 「はい」 逸らさずに答えると、あきらはルパートを抱き寄せた。 「いいよ」 微笑んで罪を許す。抱く腕に力を込める。 「ありがとう。ルパート」 ルパートは震える口をきつく結び、ただ「はい」とそれに応えた。 苦しみも忘れるほどの喜びに、動くこともできなかった。 たとえ身を滅ぼそうともこのひとについていくと、あの時に誓ったのだ。 かつて、色素の少ない異端者として虐げられたルパートを、盟主は庇い立ててくれた。心無き同胞に噛みつかれ、その黒い毛皮を血に汚しながらも、まだ幼いルパートを腹に抱いた。それからずっと、ルパートの魂は盟主のためだけにある。 あきらの肩越しに覗けば、同じ毛色を持つ孫は、黒い獣の群れに混じり楽しそうに啼いている。ルパートは笑った。かすかに微笑むだけで精一杯だったけれど。 あきらはルパートから離れると、同胞たちに向き直る。獣たちもまた、彼女を見た。 「留守にしていてすまなかった。みんな、長い間よく耐えてくれたな。だが、それももう終わりだ」 口にする獣の言葉は力強く張られている。 女子高生の姿を取った獣の王は、皆の目を見据えて言った。 「我々の生きる場所を得よう。これが、最後の戦いだ」 |