悪い夢なら覚めてくれ。というのは、なるほどこういうことを言うのだろう。俺は足元にひざまずく下僕たちを目にして思った。やわらかい座り心地の大仰な椅子を感じる度に、本気でここから逃げたくなる。だってこれものすごく高級なビロードだぞ? このキングオブ庶民の長谷川圭一にもそれがわかるぐらいだぞ? 三人ぐらいは座れそうだし、添えられたクッションに至っては、「これ博物館にあるべきなんじゃ」と問いたくなるほどに金銀の刺繍がしてある。なんだこれ。ベルサイユ宮殿か。 ひれ伏したまま、彫像のように動かなかった男たちが道を開ける。重たげな扉を開けて現れたのは、ヤズトゥールとツタハだ。ヤズトゥールは昔から比べると随分と中年肥りをして、ゴルフ場で接待される社長のような風貌になっている。最初はマリオっぽいとか思っていたが、これはあれだな、トルネコだ。 一方、ツタハは魔術師というインドア的な職業名とは裏腹に、爽やかな好青年となっている。少々くせのある茶髪は昔のままだが、あのいつもオドオドしていたツタハがこんなにも。と思えば感慨深いものがある。 二人は一礼すると、予想通りのことを訊いた。 「勇者様。おかげんはいかがでしょうか」 「あー……うん、少しは、ましかな」 慎重に答えたのは、万全だと言った途端に戦場へ放り出されそうな気がしたからだ。この世界に引き戻されてから約一日。体調はなんとか回復しているが、心のケアが足りていない。俺はうんざりと「勇者様のお部屋」を見回した。その、悪趣味なまでに絢爛豪華な私室を。もちろん、こんなセレブも裸足で逃げ出す金銀部屋を、前世の俺が使っていたはずがない。あの頃はまだ教会本部は金欠の最中だったのだ。どうやら俺がいなくなった十数年で、景気は回復しすぎたらしい。わざわざ用意された調度品はぴかぴかに磨かれていて、塵一つないという言葉を見事なまでに体現している。 「……勇者様?」 「ああ、うん。まだちょっと、頭がついていけてないというか……久しぶりだし」 なんかお前ら知らない間に金持ちになってるし。とは言えない。 「おいたわしゅうございます。無謀なる私どもの行為、さぞかしお怒りでしょう」 「申し訳ございません。術の研究は丹念に行ったのですが……」 「い、いやいやいや。そういうわけじゃない。まあ言葉も通じるしな。うん」 記憶があるためか、会話に不自由がないのは本当にありがたかった。何しろ周囲は外人顔ばかりだし、この新設されたらしき屋敷ときたら、どこからどう見ても日本家屋とは程遠いのだ。というかこれ王宮じゃないのか。オイ俺が死んだ後にどれだけもうかったんだお前ら。 「……お食事は、お口に合いませんでしたか?」 ツタハの顔が不安げに曇るのを見て、俺はぎくりと肩を張る。確かに、少し前に運ばれてきた昼食には手をつけていなかった。脇に置かれたそれを見て、俺は複雑な気持ちになる。並ぶ料理は、前世での俺が好きだったものに、高級なメニューをいくつか加えたものだ。覚えていてくれた思いやりは嬉しいが、正直な話食欲はない。ああ、あのフシュー肉のグラタンなんて、特に大好きだったのに。俺は思わずため息をついていた。ヤズトゥールとツタハは顔を見合わせて、うなずく。 「いきなりの環境の変化に、食欲がなくなるのも無理はありません」 「それでは、こちらはいかがでしょうか」 示し合わせたかのように言うと、ツタハが軽く手を叩く。すると扉が開き、鮮やかな布たちがひらりひらりと入ってきた。 ――いや、いやいやいや。ちょっと待てちょっと待て! 「お、おおおおおい!」 「どうでしょう? この国選りすぐりの美女たちですよ」 そう、ツタハがにやりと笑った通り、現れたのは五、六、七……八人の踊り子だった。皆、言うまでもなくセクシーというか、それを通り越した露出度の巻き布を身につけている。浅黒い肌の者、黄色の者に白色の者。金髪に黒髪に、とさまざまなバリエーションの女たちが腰を振るたび、きらきらとサテンの布が輝く。ついでにきわどいギリギリまでその肌を晒していく。おーい! なんだこの外人ショー! 「食欲が湧かないのなら、こちらの欲で……ね」 ヤズトゥールがバチリとウインクをする。うーわー変わってねえなあこのオッサン! 昔から、エロ親父の素質は十分にあると思っていたが。というかツタハお前もか。ちょっとセクシーなお姉さんを見ただけで赤面してたくせに、ああ大人になりやがって。 いかん、どうやってこの場を乗りきろう。考えろ俺! なんか急に腹痛とかそんな感じで! 「ば、馬鹿っ。お前はいいんだ!」 突然、ツタハが慌てて扉に駆け寄る。俺はそちらを見て息を呑んだ。 空気が、止まったような気がした。目に毒な踊り子たちの動きも、俺の熱も一瞬にして奪われる。 そこには、嘘のように美しい女が立っていた。触れただけで壊れてしまいそうな、繊細な均衡を保つ顔立ち。彼女は焦るツタハを手で制し、俺の方に歩いてくる。白銀の長い髪が揺れた。呆然とそれを見る俺の耳には、清涼な小川の幻聴が聞こえている。ひやりと風に触れたのは、ただの気のせいだったのだろうか。それとも、このおそろしく整った顔に冷たさを感じたのか。 「ヤズトゥール様もお気になさらず。勇者様の体に異変が現れていないかどうか、確かめに来たのです」 女は彼らを見ずに言った。愛想のない目が俺を向く。青みがかった灰色の、鉱石のような瞳。 「失礼いたします」 そう言うなり腰に手を回されて、俺はびくりと飛び上がった。直立だ。俺はがっちがちな起立の姿勢で、ただされるがままとなる。なんだこれなんだこれ。うわ、美人にもほどがあるんじゃないのか。ああそうか、ファンタジーを実写にしたらこんな感じなんだな。ほらいるよなひとりくらい。話の鍵を握る謎の美女。いや、でも、この世界にいたか? こんな、見ているだけで時が止まるような……。 「食欲がありませんか」 「は、はいっ」 あああしまったなんか敬語になったじゃないか。くそ、恥ずかしくて顔が赤くなりそうだ。まあ、この女が近寄った時点でもう真っ赤だった気もするが。熱くて熱くて見ていられないので、俺はその女の頭ばかりを凝視している。軽く指をすべらせただけで毛先まで落ちてしまいそうな銀。 女が、俺の肩口に顔を寄せた。 「一口でも構いません。冷めないうちにお召し上がりください」 耳元で囁かれて心臓が止まりそうになる。だが、本格的な驚愕は次の瞬間に起こった。 女は耳元でさらに囁く。 「勇者殿はチーズを食べられる方でしょう? わたくしは、あのようなエキセントリックな食物はどうも苦手なのですが」 一瞬、本気で死んだと思った。心臓どころか全身の運動が止まった気がした。 待て。 待て待て。 待て待て待て。 今、この女、何を言った? 俺はもはや自分がどうやって立っているのかもわからなかった。視線すら定まらない眼前で、“銀髪の美女”は平然と佇んでいる。俺は口を開いた。自然とそれを訊いていた。 「お前、名前は」 「エミールと申します。以後、お見知りおきを」 いつかと同じ口調で言うと、女は深く頭を下げた。 |