第36戦「明日になれば、すべて」
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 冬が近づいているのだろうか。夕暮れはたちまちに姿を消して、その赤色の代わりにねずみ色を落としていく。部活を終えた俺が駆け足で向かったときにはもう、校庭は薄暗くなっていた。俺は息を整えながら、街灯の下に立つ。そこで待っているはずのあきらはいない。だが、先に帰ったわけではないと俺は既に知っている。
「あきら」
 俺は早足で校庭の隅へと向かう。あきらは、草むらを覗き込んでいた。まるでその中に愛犬が隠れているのだといわんばかりに、振り向きもせず首を動かす。
「ルパートー……ルパートぉ……」
 か細い呼び声は、人に聞かれたくないからでもあるのだろう。だが俺にはそれがあきらの憔悴をあらわしているように思えて、耳をふさぎたくなってしまう。もしくは、捜し続けるあきらの体を抱きしめて担ぎ上げて、家まで連れて帰りたい。あいつの部屋でもいい。俺の押入れでもいい。あきらが熟睡できるのならば、どこへでも連れて行きたい気分だった。
 ルパートが姿を消して、もう、ひと月になる。正確にはこちらの世界に来なくなって、だろうか。あきらや俺がどれだけ待っても、灰色のミニチュア・シュナウザーは、ただの犬の姿のまま立ち上がることはなく、あのなめらかな毒舌を披露することもない。それは犬の助と名づけられたペットだった。元魔王の部下などではない、平凡な愛玩犬だ。
 あきらは、異変に気づいた日からずっとルパートを捜し続けている。待つことに耐えられなくなったのだろう。いつでもどこでも視界の隅にルパートがいるのではないか、自分が見ていない場所に現れているのではないかと、一日中あちらこちらに目を走らせては落胆している。
 そんなあきらを見る度に、俺はルパートのことなど忘れさせてあきらを休ませたいと思う。気分転換になるようなことはいつだって提案している。だが今までは簡単に食いついてきた話題にも、ゲームにも勝負にもあきらは乗らなくなっていた。そんなことはどうでもいいのだと訴えるような目で、俺の言葉を却下する。その度に俺は、記憶を消す機械があればと馬鹿なことを考える。
 あきらはもう何週間笑っていないのだろう。他の友人たちが心配しても、作り笑顔さえ浮かべなくなった。それどころか正面から顔を見ることすらなくなった気がする。不安げに曇る目は、いつもルパートを探しているのだ。俺はうつむいたあきらの横顔しか見ることができない。
 今もまた、いるはずのない校庭を弱々しく見回している。俺は痩せてしまったあきらの肩を掴みたい衝動にかられるが、手を伸ばすことはできなかった。その代わり、もう一度声をかける。
「あきら。帰るぞ」
「でも」
 俺は睨んだ。泣きそうな顔をしている気がした。
「……うん」
 あきらは俺を見上げると、うつむいて歩きだした。雪の上を行くかのような足取りで、一歩ずつ、ゆっくりと。
 どうして俺はこいつの手を取ることができないのだろう。せめて繋ぐことができれば、今にもどこかへ消えていきそうな体を支えることができるのに。あきらは綱を断たれた小船のように、頼りなくついてくる。危うげなそれを振り返り、振り返り、俺は家への道を進んだ。ルパートが消えて以来、あきらはうちに来ていない。少しでも離れれば、その間に奴が現れているのではないかと考えているのだろう。自宅が目に見えたところで、あきらはいつも駆け足になる。そしてそのまま、俺の元には戻ってこない。
 俺はルパートを憎んでいた。そうするより他になかった。姿を見せない心配よりも、苛立ちが勝るようになったのは一体いつからだっただろう。どうして何も言わずに消えたのか。説明のひとつもないのか。あきらがこんなに弱っているのに、お前は何をしてるんだ。そんな恨みの言葉ばかりが頭の中を占めている。
 俺の中で渦を巻くそれは、とうとう口にまで到達した。
「お前さ、もうやめろよ」
 あきらの肩がぴくりと動く。俺は苛立ちのまま吐き捨てる。
「どうせあいつのことだ、どっかでのんきに暮らしてるよ。待っててもしょうがないじゃねーか。いつかふらりと帰ってくるって。俺たちが忘れたころにな」
「……圭一は忘れるのか?」
 見上げてくる目のふちが、赤らんで濡れている。あきらは久方ぶりに俺を見た。俺を、睨んだ。
「ルパートのこと、忘れるのか!? 勇者だから? 人間だから!? お前は結局そうなのか。ルパートのことなんてどうでもいいのか!?」
「ど、どうでもよくはねーよ。でも」
「ルパートは人間に何かされたかもしれないんだぞ!? 魔獣と呼ばれて、何もしてないのに捕まって! それで悪の手先と言われるんだ。お前たちはいつもそうやって我らを殺してきた! おま、おまえたちが……」
 声が詰まり涙がこぼれる。あきらは血を吐くように言った。
「お前たちが、そうやって……」
 そこにいるのは、魔王だった。
 魔王と呼ばれた獣の君主が俺の前に立っている。あの時のように、血走った目で俺を見ている。
 立ちつくす俺の体は棒を突き立てられたかのように動かなかった。この光景を知っている。だが、感情はまったく逆だ。あの時は優越感に浸っていた。悦びと蔑みだけが俺の体を支配していた。
 だが今は。
「……帰る」
 あきらは制服の袖で涙をぬぐう。そうすると目の前の小さな影は、ただの女の子になった。あきらは家へと駆けていく。俺は足を動かせない。息のしかたすら忘れてしまったようだった。ようやく呼吸した時には、全身は嫌な汗に覆われている。
 そうだ。俺は奴らを殺してきたのだ。
 この手で。あの聖剣で、いくつもの魔獣を斬った。最後には魔王を、あきらの命を奪ったのだ。
 忘れかけていた事実が体温を冷やしていく。絶望を感じながら俺は深く息をした。必死に、落ち着きを取り戻そうと試みる。何を今さら。初めから決まっていたことじゃないか。それを踏まえながら俺たちは暮らしてきた。こうして毎日を共に過ごし、笑い、遊び、喧嘩をして、そして……恋をした。最初からわかっていたことだった。それなのに俺は。
 大丈夫だと頭の中で言い聞かせる。今までと何も変わっちゃいない。そう、何もかもこれまで通りだ。俺たちはまた仲良くやれる。昨日までもそうだったじゃないか。明日になれば、こんな戸惑いも罪悪感もまたすべて葬られる。そう。明日になれば、すべて。
 唐突に生ぬるい風が吹いた。背を撫でるそれはスパイスの匂いに似ていて、俺は怪訝に眉を寄せる。振り向くと、長靴を履いたエプロン姿の若い男が立っていた。
「こんばんは」
「……こんばんは」
 見たこともない顔だ。エプロンの胸元には、「フラワーショップヤスオカ」と花屋の店名らしきものが印刷されている。近所にある店だっただろうか。訝しむ俺の前で、花屋は笑みを浮かべていた。俺は闇に潜りかけたその顔に問う。
「あの、なんでしょうか」
「お迎えに上がりました」
 その途端、俺の周りで風が舞った。嵐のような音を立てて耳元を撫でていく。砂が踊り服がはためく。俺は考える暇もなく顔をかばい、目も口も閉じてしまう。風はなぜだか苦かった。生ぬるいそれは薬の味だ。名前も知らないスパイスのような刺激臭が鼻を痛め、涙を起こし、思考を混乱させていく。俺は息を止めて衝撃に耐えた。足元が揺らいでも、周囲の音が歪んでも。
 始まりと同じく唐突に風が消え、俺はその場に膝をつく。そしてぎょっと飛びすさった。アスファルトを感じるはずの足に触れたのが、つるりとした大理石だったからだ。目を丸くして冷ややかなそれを見つめていると、耳元で金具の鳴る音がした。まるで、鉄と鉄がかすかにぶつかりあったような……。
「勇者様! ご無事ですか!」
 脱力した腕をとられて無理やりに引き上げられる。驚く俺の眼前には、ひげをたくわえた彫りの深い外人の顔。スーパーマリオかと言いたくなる、黒髪黒目に黒ひげだ。ちりちりとパーマのかかったひげを見て、俺は瞬時に思い出した。かつては俺の部下だった……。
「ヤズトゥール」
 全身を甲冑で覆った男は、兜のふさを揺らして叫ぶ。
「思い出して頂けましたか! 皆のもの、勇者様はご無事であるぞ!!」
「勇者様だ! 勇者様だぞ!!」
「お帰りなさいませ! 我々一同お待ちしておりました!」
「勇者様、お体に異常はございませんか!?」
「勇者様!」
「勇者様!!」
 力の入らなくなった体を、ヤズトゥールが支えてくれる。俺が立っているこの場所は、懐かしい神殿の演壇だった。見渡す限りに赤いふさの兜が見える。熱のこもる目で俺を見つめる男の数は、五十はくだらないだろう。儀式の礼により武装した神のしもべたち。十年以上前、俺が従えていた。
「勇者様、お体は大丈夫ですか」
「世界の移動にはとてつもない負担がかかる。ましてやその身のまま来たのです。お休みになった方がよろしいかと」
 新たな声に聞き覚えがある。魔術師のツタハだ。俺は以前見たときよりも随分と大人になったツタハを見た。もう、三十に近くなったのではないだろうか。昔のような少年の顔ではなく、術師としての貫禄すら携えている。俺はツタハがあの花屋の男だったのだと確信した。声も姿も違っているが、表情でそれを察した。
 とてつもない熱気が足元から押し寄せている。まるでライブ中のミュージシャンのようだ。勇者・勇者と勇者コール。俺は自分の手を見た。腕を見た。間違いのない長谷川圭一の体だ。制服も着たままである。この体で、さっきあきらと喧嘩をしたばかりなのに。
「勇者様! 魔獣の動きが活発化しております。今こそ貴方様のお力で引導を!!」
 それもただの口喧嘩で、本気で憎むつもりはなくて。
「我々の不甲斐なさをお許しください……やはり、貴方様でなければ!」
 今まで何度も経験してきた言い争いのつもりで。
 明日になれば、すべていつも通りに仲直りをするのだと考えていて。
「我々は今すぐにでも出発できます! さあ、指示を!」
 まさか。まさか。
「今度こそ絶対に魔獣を駆逐しましょうぞ!!」
 まさか、こんな大事になるとは思ってもいなかったのに。

 試しに頬をつねってみても、目の前の景色は変わらない。
 耳を割る勇者コールの中、俺は意識を失った。


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