第35戦「テキーラは夜に呑め」
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『盟主様! 強い酒持ってきてください!』
 ルパートは現れるなり叫んだ。耳にではなく脳に直接響く声だ。あきらはぐらぐらと回る頭を抱えてしゃがみこむ。
「な、なんなのだルパート……しかもこんな時間に」
『一時だろうが二時だろうがわたくしは現れますよ。ええい何をじっとしておりますか。さっさとアルコールを携えなさい。そしてわたくしに呑ませなさい』
「い、犬が酒を呑んでもいいのか?」
 あきらは涙目で灰色のミニチュア・シュナウザーを見た。飼い犬に乗り移った元部下は、いつも通り上司を上司とも思わない態度でお座りをしている。ぱた、と前脚が床を叩いた。それは連続となり、まごつくあきらを急かしていく。
『部下の疲れをねぎらうこともできないのですかこのオトボケ課長。新聞の四コマでももっとまともな慰労をしてくれますよ』
「か、課長じゃないのだ」
『おやおや。面白い反論を言う知能すらありませんかこの偽スポーツ少女めが。いいですか、こういう時に思いやりを見せることができなければ、たとえIT企業だろうと株は成長しないのです。あなたは街の巨大なビルに住みたくはないのですか?』
「わかった、持ってくる。持ってくるから黙るのだー!」
 休みなく続く罵倒に、あきらはとうとう降参した。脳の中はルパートの声に埋められていて、下手をすると夢の中まで追いかけてきそうだ。あきらは台所へと下りていった。どの部屋も、明かりだけはつけっぱなしにしてあるし、見てもいないテレビやラジオがあちこちで騒いでいる。だがそれでも空気までは暖めることができず、歩いても歩いても人気のない家の中は、隙間風でも吹くかのような寒々しさに包まれていた。
 あきらはいつも通りの夜の中を急ぎ足で進みながら、それでも胸が弾んでいくのを感じている。ルパートが来るのは三日ぶりだ。依代とも言える犬の助は毎晩傍にいてくれるが、やはりそれでも長年の付き合いである部下とは比べものにならない。
 あきらは鼻歌まじりに牛乳を温める。犬用の皿とマグカップにそれぞれ注ぎ、電子レンジにかけるだけ。せめてもの言い訳として、父親のブランデーを数滴牛乳に入れた。これならば犬の体にも、それほど負担がかからない……。
(と、いいな)
 正確にはどうなのかわからなかったが、酒をそのまま出すよりはこちらの方が断然いい。あきらはわくわくとした気分で部屋へと戻った。ルパートはお気に入りの座布団に体を横たえている。その毛並みが荒れているように見えて、あきらは目を瞬かせた。
『……牛乳じゃないですか』
「う、うん。でもお酒は入れてあるぞ。ルパート、どうしたのだ? 疲れてる?」
『わたくしは年中無休で疲れておりますよ。疲労のコンビニエンスストアーと呼んでいただいて構いません』
「ひ、疲労のコンビニエンスストアー」
 本当に呼んでみたが、ルパートはそれについて何の言及もしなかった。起き上がると牛乳に鼻を寄せて、ぺちゃりと奇妙な音を立てる。舌打ちだ。
『荒野に咲く一輪の花のようにささやかなアルコールですね。こんなものではわたくしは癒せませんよ。テキーラをもっていらっしゃい。いっき呑みにして差し上げます』
「そ、そんなものないのだ。ルパート、これで我慢してくれ」
『まったく。まあ今夜のところは大目に見てあげましょう。出血電撃大サービスですよ』
 やれやれとつく息ですら力ない。あきらは、ルパートが本当に弱っていることを知った。犬の助の体自体は、今日もブラッシングをしたばかりでつやつやと輝いていた。だがルパートが中に入った途端、黒色を交えた灰の毛並みは、古びたモップのようにくたびれている。ルパートは音を立てて牛乳を飲む。いつもならば飛びつく勢いで尻尾を振るのに、今のルパートは、自分の体を支えるのが精一杯のようだった。重たげに震える頭を撫でてやろうかと思うが、飲むことの邪魔になるような気がしてあきらは自分のカップを取る。かすかに酒の味がするホットミルク。以前、うっかりとブランデー入りのチョコレートを食べてしまい、慌てて牛乳を飲み干したのを思い出した。
「でも、来てくれてよかった。ずっと会いたかったんだ」
 自然と笑顔になってしまう。あきらは、この口の悪い元部下がいるだけで自分がどんなにほっとするかを、痛いほどに思い知った。ルパートが来なかったこの数日で、いろんなことが起こったのだ。それらはすべて圭一に関することだが、同時にあきら自身の気持ちに深く根付くものでもある。
「ルパート……実はな。圭一は、我のことを」
『好きなのでしょう?』
 そのものずばりと指摘されて、あきらは牛乳をこぼしそうになる。ルパートは涼しげな態度で続けた。
『気づいていないのは貴方ぐらいのものでしたよこのキングオブ鈍感娘。何を今さら勘付いておるのですか。で? 貴方はどうするおつもりで?』
「え、ええと……だから、それがわからないのだ。ルパート、我はどうすればいいのだ」
『知りませんよそんなこと。ご自分でお決めになってください。何故わたくしに問うのです』
「だ、だって、圭一は勇者で、我は……」
 言葉が止まる。ルパートがこちらを見ている。あきらは、その青みがかった灰色の瞳に浮かぶ感情を読もうとした。だが借り物の犬の目は相手の思いを教えてくれない。互いに獣の体であったときは、言葉などなくてもそれだけで通じることができたのに。
『まあ確かに、あんなろくでもないへたれ男に好かれても、困るばかりでしょうけどね』
 ルパートは呆れの混じる声で言った。
『第一鈍感がどうとかいう以前に、そういった想いを相手に気づかれないこと自体が駄目駄目なんです。好きな相手に対して、今まで通り見下した態度を取り続けたわけでしょう? まったく、思いやりも優しさもない。あんなバカで駄目でへたれでさらに変態で動物愛護のかけらもない男、やめてしまいなさい』
 べらべらと続く文句にうっかりと流されそうになる。だが反発がそれを止めた。延々と圭一を罵り続けるルパートに、あきらは勇気を出して言う。
「い、言いすぎなのだ」
 顔を向けられてひるみそうになるが、あきらは自分の言葉で語った。
「圭一は、そんなにひどい奴じゃないのだ。そりゃ、確かにいじわるだし、我のことをばかにするけど、でも、本当は優しいのだ。昨日だって、我がひとりで怖がってたら、ちゃんと部屋に泊めてくれた。アレルギーのことで本当は泊めたくなかったのに、自分は我慢して、眠れなくてふらふらになって。それでも我の傍にいてくれたのだ」
 喋りながらそれに気づく。あきらは目を見開いた。
「……そうだ」
 もやもやと胸の中に漂っていたものが、はっきりと形を成した気がした。
「圭一は、傍にいてくれたのだ。馬鹿にしても、あっちに行けとかさっさと帰れと文句を言っても、それでも我の傍にいてくれたのだ。圭一は、圭一は、昔から、ずっと」
 あきらの視線はもはやルパートを捉えていなかった。見つめているのは今までのこと。賑やかなふたりの思い出。
「ずっと、我の傍に……」
 晴れの日もあった。台風の夜もあった。嬉しいときも悲しいときも、笑顔のときも泣いているときも、そこにはいつも圭一がいた。あきらのことを馬鹿にして、それでも見捨てることはなく、いつだって押しかけたあきらのことをしぶしぶ迎え入れてくれた。寂しい夜。怖い映画を見てしまった夜。退屈な休日。誰もいない朝。ひとりきりで過ごすのは耐えられないけれど、圭一がいれば安心だった。圭一がいれば嬉しかった。
 圭一の傍に、いたかった。
「我は」
 呟いた声は震える。
「我は、圭一が……」
『そうですか』
 静かにさえぎられてどきりとする。だがおそるおそる見た先で、ルパートは暖かい息をついた。
『それでいいんじゃありませんか』
「ルパート……」
 目の前にあるのは犬の顔で、表情などあるはずがない。だが脳に伝わる声色から、相手の纏う雰囲気から、ルパートが優しく笑っているのがわかる。あきらはもう一度部下の名前を呼んだ。それだけでは足りず抱きしめた。
「ルパートぉ」
 抵抗のない体を撫でる。衝動のまま、摩擦で熱が生まれるほどに。ルパートは尻尾を振った。喜びに突き動かされているあきらは、それがいつもの力強いものではないことに気づかない。
「ルパートぉ、大好きだ!」
『はいはい。まったく、仕方のない上司ですよ』
 呆れた声まで暖かくて、あきらは笑顔が止まらなくなる。大好きなルパートを膝に乗せて、にこにこと笑いながらブランデー入りの牛乳を飲んだ。アルコールはほんの少ししか入っていないはずなのに、だんだんと酔いが回って眠りこけてしまうまで、幸せに笑い続けた。




 あきらは絨毯の上に丸まって眠っている。ルパートはその腕の中で彼女を見上げた。
『盟主様』
 届かない声は哀しげに揺れている。気づかないあきらに、ルパートは鼻面を押し付けた。
『わたくしでは、いけませんか……?』
 泣きそうに震える声は、彼女には届かないのだろう。ルパートはそれを知っていて彼女を呼んだ。繰り返し、呼び続けた。
『盟主様。盟主様。盟主様』
 その一言ずつにどんな想いが込められているのか、知っているのはルパートだけ。伝わらないことを望みながら、ルパートは己の主を呼び続ける。
『盟主様。盟主様。盟主様……』
 言葉が詰まる。穏やかに眠る彼女を見つめる。
『ごめんなさい』
 その言葉を最後に、ルパートは「こちら」を去った。


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