第32戦「踏まれた猫の物語」
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 あわわわわ。あわわわわ。あきらは頭から布団を被り、小さく縮こまっていた。
 あわわわわ。あわわわわ。もう小一時間もそればかりが口をついている。
 あわわわわ。あわわわわ。あきらは熱の冷めない顔で、まばたきを繰り返した。
(け、けけけけ圭一いいいい。我をどうするつもりなのだあああ)
 ここまで「泡を食っている」という表現が似合う人物も、そうそういないことだろう。あきらは夢なら覚めろと言わんばかりに、枕に額を叩きつける。だがそれで何が変わるわけでもなく、目にしてしまった勇者の痴態は目の奥を離れてくれない。
 元勇者、長谷川圭一。彼はあきらの宿敵であり、互いに憎みあうべき仲のはずだった。だがそれなのに先ほどの圭一ときたらどうだ。あきらが敢えて毒々しく製作したクッキーを見て、にまりにまりと笑っていた。しかも、自分とクッキーのツーショットで携帯写真を撮るなんて。そこまで、あきらからのプレゼントを喜ぶなんて、そんな、まるで。
「す、す、す」
 好きな相手に対する態度ではないか。あきらはどうしても言い切ることができなくて、ひゃあ、と枕に突っ伏した。そのまま、ゴミ取りローラーのごとくごろごろとベッドを転がる。高級な羽毛布団を惜しげもなく潰し、マントのように身にまとって絨毯の上へと落ちた。
「け、けいいちぃ……」
 お前はどうしてしまったんだ。ありえない状況に、あきらはもはや泣きそうだった。もし、万が一、億が一、と前置きをつけて思う。圭一が、自分のことを女の子として好きだとしたら。想像しただけで高速道路を全力疾走したい気分になって、あきらはまた部屋を転がる。壁に頭をぶつけてしばらく固まり、そのままの姿勢で考えた。
(だとしたら、我はどうすればいいのだ……!)
 抱えた頭に爪を立てる。なにしろ、前世では雌雄同体の生き物だったのだ。経験値が足りなさすぎる。確かにこの世界では女であり、あっけないながら初恋も済ませた。だがあれは、遠い憧れの人に近づこうとする一方的な感情で、苦しいながらも、どのような行動に出るべきかはなんとなくわかっていた。きれいになる。積極的に話しかける。実際に動くとなるととてつもなく難しいが、それでも戸惑うことはなかった。
 だが、こんなパターンは想像外だったのだ。しかも、もしかすると、圭一はあきらの呪いによって恋をしたのかもしれない。あきらにその自覚はないが、無意識に怨念パワーで縛り付けているとしたら? その時は、一体どう動けばいいのだろう。
 まるで、先の見えない迷路に立たされている気分である。あきらは泣く勢いで顔面を布団に沈めた。
「ルパートー! どこだー!」
 だが、呼んでも犬の姿の部下はこちらの世界に来ていない。最近は術の調子が悪いなどと言いながら、すぐに戻ってしまうのだ。外殻となる犬の助は健在だし可愛いが、今はあの毒舌が何よりも恋しかった。
「お前がいなきゃ、我は誰に相談すればいいのだー……」
 もし、これがただの恋の話だったとしたら。恥ずかしがりながらでも、友だちに相談できただろう。だが事情は単純ではない。あきらは魔王と呼ばれた獣だ。圭一は、前世でそれを殺した勇者だ。二人は互いに敵対しあう運命の下にある。そんなことを打ち明けて、誰が信じてくれるだろう。もし信用されたとしても、本当にあきらの立場を理解できる者はこの世界にはいないのだ。
「……ルパート……」
 ふさふさとした灰色の毛並みを想う。赤々とした口から吐かれる慇懃無礼な言葉たち。それが無性に恋しくなって、あきらは布団の端を抱いた。
 こんな時、ルパートだったら何と言ってくれるだろう。
(多分、我のことを罵倒して)
 まったく。そんなことで悩むなんて、相変わらずメソポタミア文明ですね。
(いやいや違う。ルパートはこんなもんじゃないのだ)
 まったく。そんなことで悩むなんて、相変わらずビビデバビデブーですね。
(いやいやいやわけがわからないのだ。もっとキレが効いてるのだ)
 まったく。そんなことで悩むなんて、エクストラバージンオイルですね。
 まったく。そんなことで悩むなんて、プロバイオティクスですね。
 まったく。そんなことで悩むなんて、トラベリングナーウですね。
(あれえ? あれえええ?)
 考えるほどに脳がカタカナでいっぱいになり、あきらはさらに混乱した。
 ぐるぐると巡りそうになる思考に、鋭い声が響き渡る。

 何を迷っているんですか! これは勇者をケッチョンケチョンにやっつけるチャンスではありませんか。動くのです盟主様! 今こそ、あなたにメロメロになった勇者めを手の上で操るのです!

「ル、ルパート?」
 いや、違う。見回しても部下の姿はない。だがあきらは確信していた。もし、ルパートならばそう言ってくれることだろう。目の前に光差す道が現れたような気がした。あきらは、その一歩を踏み出す気持ちで立つ。握りしめた拳はガッツポーズに繋げられた。
「そうだ。今こそ復讐のチャンスなのだ!」
 恥ずかしい圭一を思い出さないようにして、胸を張る。
「我はやつに散々な目に遭わされてきたのだ! 今日こそ年貢の納め時だぞ、勇者!!」
 だが具体的には何をすればいいのだろう。あきらは頭を悩ませた。なにしろルパートに頼る癖がついてしまい、昔のように自分だけで計画を立てる勘が取り戻せない。あきらは初心を思い出すため、過去の戦歴を頭に浮かべた。小学一年の出会いから今までに、色々とやってきたこと……。
 にゃあ、と猫が鳴いた。それは記憶の中でのことで、今ここにいるわけではない。だが見開いたあきらの目には、あの時の猫と圭一が鮮やかに甦っている。にゃあ、とまた鳴き声。だがそれは、小学生の圭一の口から放たれたものだ。

 ――す、すごいのだ! けいいち、もっとやるのだ!
 ――やだね。誰がお前のためにやるか。ほら、あっち行け。

 そう、しっしっと手を振られたことまで覚えている。あきらはきつく歯噛みした。
 誰に言っても意外だと驚かれるが、圭一は猫の鳴き真似が非常に得意である。彼はその特技をもって、よく街角の猫を手懐けていた。彼がひとたび本気を出せば、車の下から塀の上からぞろぞろと猫が現れて、差し出した手の元に集まるのだ。あきらはそれが羨ましかった。なぜだか、圭一とは逆に猫に嫌われる傾向にあったのだ。それでも猫と遊びたい。せめて、圭一が集めているのを傍で見たい。
 それなのに、圭一は「お前がいると猫が嫌がる」などと言って、いつもあきらを追い払った。

「……よし」
 あきらは決意した。次の作戦は、これだ。
「我にメロメロの今こそ、圭一に猫を集めさせるのだ! そして猫と遊ぶのだー!」
 ルパートがこの場にいたら、最大レベルの罵倒を浴びせたところだろう。だが今日はここにはいない。あきらはツッコミ不在のまま携帯電話を手に取った。

※ ※ ※

 ワン。ワンワン。耳慣れた着信音に、俺は携帯電話を探した。ルパートの声を録音したこれは、あきらからのメールが来たことを意味する。部屋の隅に放っておいた電話に飛びつき、慌てて開いて確認した。なんだなんだあきらのヤツ。さっき逢ったばかりじゃないか。
 メールの題名は「おねがい」だった。何なのだろうと開封すると、本文はたった一言。

        我は猫を所望する。

 顔文字も、絵文字もないシンプルなメールだった。
 俺はしばらくの間この意味を考えて、考えて、フラッシュのように閃く。
 そうか。あきら、お前。
 俺は自然と昔のことを思い出していた。誰に言っても驚かれるが、俺の特技は猫の鳴き真似である。この喉ひとつでどんな猫でも手懐けることができるため、気が向けば近所の猫と交流をはかっていた。あきらもまたその度に、きらきらと目を輝かせて近づいてきたのだが、俺は猫が嫌がるからと毎回追い払っていた。今思えば、なんともったいないことをしたのだろう。あきらと一緒に仲良く過ごせる絶好のチャンスだったのに、俺は求めるあいつをことごとく拒絶してしまったのだ。
「よし……待ってろよあきら!」
 奴がそれを望んでいるなら、これ以上の機会はない。今こそ、かつての間違いを正す時だ。
 俺は意気揚揚と立ち上がった。

※ ※ ※

 五分ほど待ってみたが、返事はない。あきらは不安になってきた。失敗してしまったのだろうか。あの一言でははっきりと意味が伝わらなかった? だから、いたずらと考えて無視をしているのだろうか。いやいや、圭一はメールを打つのが遅いし、マナーモードのまま鞄の奥に忘れていることも多いから……などと、様々なパターンを考える。
 だが別の不安もあった。そもそも、圭一が素直に言うことを聞いてくれるだろうか。毒々しいクッキーにしても、あきらの前では決して喜ばなかったのだ。何かアプローチをするにしても、わかりづらい方法で、こっそりと仕掛けてくるかも……。
 にゃあん、と猫が鳴いた。記憶ではなく現実で。
 あきらはベッドから飛び起きて、部屋のドアを凝視した。廊下から少しずつ猫の声が近づいてくる。しかも、一匹だけではない。何種もの猫の声が、ゆっくりと、近づいてくる。
「……圭一?」
 返事はない。だが間違いない。かりかりとドアを爪で引っかく気配。あきらは顔中をイルミネーションのように輝かせて、そわそわと足を揺らした。なあん、ぶみゃー、と猫の声はすぐそこまで近づいている。あきらは歓声を上げる思いで勢いよく扉を開けた。

 だがそこに猫はいない。
 座っているのは圭一だった。
 孫の手を猫の爪に見立て、扉を掻く姿勢で猫の鳴き真似を詰まらせた、圭一がいるだけだった。

「エクストラバージンオイル!」
「ごほあ!?」
 あきらは圭一の肩を思いきり踏み潰した。
「ってえな! 何すんだこの馬鹿魔王!!」
「それはこっちの台詞なのだ! なんで猫がいないのだ!」
「バッカいるよ! …………にゃーん。 ほらな!?」
「プロバイオティクス!」
 あきらは圭一の手の甲を思いきり踏み潰した。
「痛ぇっつの本気で! 技の名前も意味わかんねえし!」
「お前の方がわけわかめなのだー! 声を遠くしてもバレバレだ、猫じゃなくてお前なのだー!」
「なっ。お前が俺の猫真似がどうしても聞きたいって言うから、わざわざ出張サービス……いや違う、お前のためじゃなくて、なんか久々に猫の真似がしたかったし、まあ丁度いいから俺の美声でも聞かせてやるかなって。うん、そうだ。まあそんな感じで」
「トラベリングナーウ!!」
「カカト落とし!?」
 見事に決まった大技を背に受けて、圭一は息を止めてうずくまった。
「ルパートー! るぱあとおおおお!!」
 ふるふると震える彼を尻目に、あきらは虚空に向かって叫ぶ。
「お前がいなきゃ駄目なのだ! 早く帰ってきてくれー!!」
 だが、呼んでみてもツッコミは現れない。あきらは何もかも投げ出したい気持ちでひたすらに部下を呼んだ。


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第32戦「踏まれた猫の物語」