そろり、そろり、少しずつ量りに粉を載せていく。あきらは薄力粉の袋を両手で掴み、全身を傾けるようにして盤面を凝視していた。降り積もった粉の山に、更なる追加が震えながら落ちていく。今にも崩れそうな危うさに高橋美加子は息も呑めない。 美加子が圭一に振られたのは昨日のことで、その夜は鬱憤を晴らすかのごとくあきらとメールを交換した。圭一とのことを具体的に告げたわけではないが、読むだけでほのぼのとするあきらの返事は美加子の気もちを随分とやわらかくしてくれる。美加子としてはそれだけで十分なつもりだったのだが、ふとした会話の勢いで、この日曜に二人きりで遊ぶことになった。圭一に振られたそもそもの原因である、恋敵とも言えた水谷あきらと。 (……笑い話じゃないんだから) 美加子の脳内では今まさに「こんな状況でも優しくあきらちゃんにお菓子作りを教えているわたしってなんて健気。もう、美加子のばかばかばかっ」と言わんばかりの自讃が広がっているのだが、あきらがそれを知るはずがない。薄力粉150グラムぴったりをようやくのことで量り終え、マラソンでも完走したかのような爽やかな笑顔を浮かべる。 「ミカちゃん、できたのだ!」 「あ、ああそう。うん、ぴったりね」 「ふふん、ちゃんと今日はこぼさずにできたのだ」 持参のエプロンごと胸を張る姿はとても高校生には見えない。だがこの色気のかけらもない女の子に、美加子は確かに負けたのだ。それを考えると美加子はすぐさま魔人を召喚したい気分になるが、実行すれば悪の世界に染まってしまう、と自らの胸を押さえる。あきらよりずっと大きいのにどうして駄目なのだろうとも考えながら。 「次は何を量るのだ?」 「あ、そうね、ええと……ココア。これを50グラムお願い」 「ラジャー!」 前髪の先まで粉に染めての敬礼をほのぼのと見守っていることに気づき、美加子はまた想像の中でポカポカと自分の頭を叩いた。ばかばかばかっ。わたしってばなにをしているの。この子は圭一君の好きな人で、さらには悪の魔王なのよ! そんなことを考えるが、今の彼女にはその手であきらをどうにかしてしまおうという気はなくなっている。 小学生のころ、お互いいつも傍にいて楽しそうにじゃれあう二人が羨ましかった。 圭一に告白して、勇者と魔王なのだと振られた。 もちろんそんなRPGみたいな話を信じられるはずがない。だが遠巻きに二人を観察し、振られてもやっぱり格好よく見える圭一や、楽しそうなあきらとの騒ぎあいを見ているうちに「もしかしたら」という気持ちが生まれる。あの二人は運命に導かれて出逢ったのだ。そう、物はためしで考えてみた途端、身を焦がすような羨望と嫉妬が美加子を蝕んだ。 どうしてわたしには運命の相手がいないのだろう。そう悲しんで何年経ったことだろう。そんなある日、美加子はネット上で同じ悩みを抱えている相手をみつけてチャットを始め、そしてそこで彼女にとって真の運命を宣告する人と出会った。「貴女もまた選ばれし勇者のひとりじゃないか!」そう叫んでくれる仲間に。 (……結局はただの遊びだったけど) 圭一に再び振られて以来、美加子は前世だとか運命だとか、そういうことがどうでもよくなっている。結局のところは勇者になりたかったわけではなく、圭一と同じ世界に生きたかっただけなのだ。あそこまでキッパリと否定されてしまうと、ここ数年支配されてきた運命論など恋心以上に冷めてしまう。 「あきらちゃんはいいなあ」 「ん?」 あきらは鼻先にココアをつけて、またふるふると粉を落としながら美加子を見る。 「長谷川君とラブラブで。今日だってこれ長谷川君にあげるんでしょ」 ココアを振る手がぴたりと止まった。 「ら、らぶらぶ?」 聞き慣れない言葉を耳にしたように返すので、美加子はため息をついた。 「もう、とぼけないでよ。わたしがどんな気持ちでいるか考えてみて」 「ど、どんなって……違うぞ? 我は確かに圭一に恵んでやってもいいかなとは思ってたけど、おみやげに持っていこうとも考えてたけど、別に、らぶらぶではないのだ。そりゃ、学校の友だちには恋人ってことにしてあるけど、ミカちゃんはそうじゃないって知ってるだろう?」 「昨日まではそう信じてたんだけどね……」 元々、あきらとの交流を始めたのも圭一に近づくためである。あきらには圭一が好きなのだとそれとなく匂わせていた。美加子は指でレシピをいじりながら、あきらから目を逸らして言う。 「わたし、昨日長谷川君に振られたんだ」 ばさ、とかすかにココアが舞った。美加子は振り向かずに続ける。 「長谷川君ね、わたしなんかよりあきらちゃんの方が好きなんだって」 今度は空気が染まるほどに大量のココアが舞った。箱ごと落としたあきらと同じく美加子も咳き込んでしまう。足元にもシンクにも細やかな茶色が散って大変なことになっていたが、あきらの様子はそれ以上だ。エプロンを一色に染める勢いでココアにまみれて動揺のあまりふらりと揺れて、冷蔵庫で頭を打つ。 「だ、大丈夫?」 「ちちちち違うのだー! それは絶対ちがうのだー!」 あきらは惨状にも構わず叫んだ。 「それはっ、なんていうか、振るための口実なのだ! 圭一が我のことを好きだとか、そんなわけはないのだ! 圭一は我のことが嫌いなのだ。ずっと前から嫌いなのだー!」 口からは今にも泡が吹き出しそうで、美加子は予想外の反応に目を丸くするしかない。圭一が、あきらにはまだ本心を伝えていないことをようやく悟った。そして自分が何をしてしまったのかも。 (……ゴメン長谷川君。バラしちゃった) だが言葉では反省しても内心ではにまりと笑顔になりそうなのをしっかりと感じている。 「でもわたし、はっきりと聞いたもの。『あいつは俺のものだ。だから他の奴には渡さない』なんてかっこいいことまで言ってたのよ。長谷川君、いつも冷たくあたってるようだけど、心の中ではあきらちゃんが好きで好きでしょうがないのよ」 ひゅう、と息をのんだ姿勢で固まるあきらはみるみる顔を赤くして、これ以上熱を持てるものかという色で力いっぱい首を振る。ちがうちがうと泣きそうな声で繰り返されると美加子としては腹が立って、あきらの肩を押さえ込み。 「長谷川君はあきらちゃんが好きなの! わたし聞いたんだから!」 と、断言すると、あきらは泣く一歩手前の顔で声もなく縮まってしまった。 「……勝手にこんなこと教えちゃってごめんね。でもわたし、あきらちゃんは違うって言ってたけど、二人は付き合ってるんだと思ってたの。今日だって、このクッキーは長谷川くんのために作ってるのかと」 「……違うのだ」 何かと思う暇もなく、あきらは全身で叫んだ。 「違うのだ違うのだちがうのだ! これは圭一にあげるけどそれは嫌がらせで、奴をぎゃふんと言わせるためだったのだ! ははははは圭一め今に見てろ、我が地獄のクッキーを届けてやる!」 「あ、あきらちゃん?」 途中から妙な方向に走られて怯えるが、あきらの暴走は止まらない。バターの入ったボウルを抱えて男前な顔をする。 「後は我にまかせるのだミカちゃん! 世にも恐ろしいクッキーを味わせてやる! タバスコ! タバスコはどこなのだミカちゃん!」 「こ、ここだけど」 「からしも入れるのだ、わさびもたっぷり混ぜるのだ! 見ていろ圭一、我はお前を倒すのだー!」 クッキー生地は高笑いと共にみるみるうちに濁色と化す。あきらは美加子が止めるのも聞かず、一心不乱にそれを混ぜた。変化していく声色とは逆に、その耳はいつまでも赤いままだった。 |
なんなのだろうこれは。俺はその黒い塊を驚愕と共に見下ろした。あきらは髪に粉や炭をつけたまま、ふふんと胸を張っている。どうしてそんなに得意そうなんだ元魔王。お前は一体、俺にどんな反応を求めてるんだ。 とりあえず、印象を口にしてみる。 「……消し炭?」 「ちがうのだ。我の特製スペシャルパーフェクトミラクルクッキーだ!」 「そりゃ確かにミラクルだけどよ」 どうやら奴なりにクッキーをイメージしているらしい物体は、皿の上に黒々と盛り付けられて高く天を向いている。なんだこれは。塔か。タワーか。展望台でもついているのかと思わず頂点をのぞいてしまいそうじゃないか。 「俺の知る限りでは、クッキーにマカロニは入ってなかったはずだが」 「それが我の特別仕様なのだ。ありがたく食べろ!」 「殺人罪で起訴されるぞ」 マカロニどころか唐辛子らしき固形物まで墨色に焦げているのだ。もはや初めから食べ物を作ろうと考えていたとは思えない。俺はどういうわけか耳の先を赤くしているあきらに、ため息を投げつけた。 「こんなもの食えるか。そもそもお前の作った料理なんて、危なくて食えたもんじゃない。ったく、女らしさのかけらもない上にやることがろくでもないのか。さすが元魔王だな」 「そうなのだ! 我はぜんぜんダメなのだ! そうなのだっ!!」 何故そんなに喜ぶ。俺は心底わからなくて奴の顔を凝視するが、あきらは踊りだしかねない調子で自分を否定し続ける。 「これからも我はダメだからな! 覚えておけっ!」 「お、おう……」 お前一体どうしたんだ。そう続けたいがあきらはミラクルを置いたまま、ステップを踏んで部屋を出た。 残されたのは何も分からない俺と、ミラクル。ミラクルは何も言わずただ皿に置かれている。なあミラクル、お前の製作者は何があったんだろうな。そう心で話しかけても答えてくれるはずがない。ミラクルはただ奇跡的なまま黒々と天を向いている。 しかし、これも一応はあきらの手作りである。しかも俺のためにわざわざ作ってくれた物。そう考えると俺は妙に甘い気持ちになってきて、顔が緩んでいくのを止められない。さすがに食べる気にはなれないが、記念としてこの姿を残しておこう。 俺は携帯に付属するカメラでミラクルを撮った。みろみろりん、と相変わらず妙な撮影音。できを確認してみると、非常によく撮れている。よし、手ぶれに注意しただけはあったな。それを見ていると俺はなんだかますます浮かれてきて、今度は。 |
(け、けけけけ圭一いいいいい) あきらは薄暗い廊下で圭一の動向を見守りながら、小刻みに震えている。圭一は観察されていることも知らず、携帯電話でクッキーの写真なんぞを撮ってしまった。にまにまと嬉しそうに緩む顔で。 (嘘だ、嘘だ! け、圭一、どうしたんだ圭一!) だが心の呼びかけに彼が答えるはずもなく、今度は自分も被写体として、クッキーとのツーショット写真を撮っている。さらにはクッキーを食べているふりをしてみたり、実際にかけらを口にして思いきり顔をしかめたあとで、楽しげに笑ってみたり。 (け、圭一が壊れた……) あきらはいつもの彼からは考えもつかない光景に愕然とし、美加子の言葉を思い出した。 ――長谷川君はあきらちゃんが好きなの! わたし聞いたんだから! (そうなのか圭一!? お前はそうなってしまったのか!? どうして!) ふと、脳裏にひとつの可能性がひらめく。あきらは呆然と血の気が引いていくのを感じた。 (まさか……まさか、我はまた何か呪いを起こしてしまったのか!?) そうだそうだそうなのだ、とあきらはそれ以外考えられなくて震える手で頭を抱える。なんと恐ろしい呪いだろう。圭一をあんなにおかしな人物にしてしまうだなんて。 (圭一、ごめんなのだ! 我が悪かったのだー!!) だが祈っても元に戻る気配はなく、圭一は嬉しげにクッキーを眺めている。ちょん、と指でつついたりして痛々しいことこのうえない。あきらは絶叫したい気持ちだった。 (我はどうすればいいのだー!) 泣きながら部下にすがりたいが、あいにくとルパートは今日はこちらに来ていない。 あきらは見るも耐えない圭一から逃げるように、そっと自分の家へと戻った。 |