第23戦「無の境地はどこにある」
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 時刻は夕暮れ。今にも夜にのみこまれそうな部屋の中、戸惑いの声が上がる。
「る、ルパート……本当にこれが効くのか?」
『モチのロンです盟主様。若者のハートをげっちゅするにはこれが一番なのです』
 あきらは不安げにルパートを見た。その仕草にも視線にも、部下に対する信頼はない。
「言葉が不自然な時のお前は怪しいのだ……」
『おやおや。わたくしの発言は常に不自然。ナチュラル志向など十年前に捨てました』
 ともかく実行に移りなさいこの五寸釘。とよくわからない罵倒を飛ばして、ルパートは鼻先で上司をつつく。あきらはいかにも嫌そうに、おずおずと仇敵の部屋に向かった。

※ ※ ※

 嫌な予感というものはどうして的中するのだろう。俺はもはやお馴染みとなってしまった悪寒に深く頭を抱えていた。どうして、などと思ってみたがはじめから答えは見えている。嫌な予感がする時は、それ相応の根拠や前フリというものが存在するのだ。今の場合は、ルパートだった。あの小憎たらしい愛玩犬が、俺に向かって言ったのだ。

 ――ようするに、勢いの問題です。呪いをも吹き飛ばすほどの情熱で飛びかかれば、じんましんなど立ち入る隙もないでしょう。愛はパワーです。ラブオブパワー。そして愛とは性欲でもあります。ラブオブセクシャル。あなたは若い。その若さで呪いなど蹴り飛ばして、ひと夏のラブ・経験してしまいなさい。未成年にはまだ早い? 何を言っているんですか、これは不純異性交遊などではなくラブなのです。ラブですよラブ。とりあえずラブって言っとけばなんとかなるんです。わかりましたか、勇者殿?

 わかんねーよ。だがツッコミもままならないまま犬は部屋を出ていった。ああ嫌な予感がする。ラブってなんだ。愛ってなんだ! 俺は純愛と性愛についてぐだぐだと考えながら、床の上を転がっていた。物音を立てても、いつものように文句を言われる心配はない。両親は出かけている。多分今夜は帰ってこない。
 ああ、嫌な予感がする。
 階段を上る気配がして、俺はぎくりと背筋を伸ばす。どうしたあきら。いつもなら一息に駆け上がってくるのに、今日は随分静かじゃないか。一体何を企んでいる? なあ、どういうつもりなんだ!
 叫びたいほどの緊張に俺は思わず腰を上げた。するとかりかりという爪の音が聞こえる。ルパートが階段を上がっているのか。なんだ、ということは二人きりじゃないんだな。俺は本気で安心してそのままへたりと座り込んだ。何しろあの頭の悪いコント以来、あきらとは顔もあわせていないのだ。告白を聞かれたのか、それとも罵りだけなのか。それすら分からない状況では二人きりになりたくない。ああ、ありがとうルパート。俺は今、初めてお前の存在に感謝してるよ。
「……入っても、いいか?」
「お、おう」
 声がうわずる。なんだ、なんで緊張してるんだ。今までと一緒じゃないか。
 たとえこの家に俺たち以外の人間がいなくても。今が夜でも。この季節が夏だとしても!
 そんなひと夏のケイケンとかそんなことは俺はこれっぽっちも考えてなどいないからな!
 泡を吹きそうな口をぬぐい、俺は居ずまいを正した。よし、剣道精神だ。スポーツマンシップにのっとれば、あこぎな犬の策略など、正々堂々退治してくれるわァ! 俺は開くのか開かないのか曖昧なドアに向けて、芯の通った言葉を放つ。
「来ォイ!」
 は、はいるのだ。と遠慮がちに呟いて、部屋のドアはそろりと開いた。
 闇の中から現れたのは、恥ずかしげに身をくねらせた元魔王。それもそのはず、あきらが着ているのは俺のパジャマの上着だった。それしか、身に着けていなかった。
 俺は正座の姿勢からがたがたと崩れ落ちて思いきり床に転がった。なんだこれはなんだこれは。だが愕然とする俺の前で、あきらは耳まで赤くして上着の裾を引いている。懸命に隠そうとしているのだ。だぼだぼと長い布のおかげでせいぜい膝上程度だが、後ろの方は……いや、考えるな! 考えるな俺!! 長い袖は手の甲を覆い隠してしまっている。裾を握る指先の、日焼けした浅黒さが腿の白さを際立たせて……見るな! 見るな俺!!
 あきらと俺、どちらの顔がより赤くなっているのか教えてほしい。それほどまでに俺の顔は熱かった。視線に熱があるならば、あきらの身体は炭と化しているはずだ。奴が姿を見せてから長いような短い間、俺の目は元魔王の全身に釘付けられていたのだから。
 その視線を閉ざすかのように、突如部屋は暗くなった。あきらが明かりを消したのだ。
「は、恥ずかしいから……」
 待て待て待てわざとか!? それともただの天然なのか!? 青みのある月明かりに浮かぶあきらは、何を考えているのかわからない。この状況で暗くするって、お前……あ、カーテン閉じた方がいいかな。向かいの家も結構近いし……って違ーう! 違うんだッ!
 心頭滅却すれば火もまた涼し。よしこれで行こう。合宿でやらされた座禅を思い出すんだ! 心を穏やかにして俗念を排除する。無の境地だ。無の境地、無の境地……。
「あっ」
 たよりない悲鳴がして、伸ばしきったパジャマの裾がうっかりと手からこぼれた。一瞬だがひらりと上がる布の奥に生白い肌が見えて、邪念が一気に膨れあがる。バカヤロー健全な男子高校生に無の境地なんてみつけられるかー! もういい、俺は素直に生きる!
「あ、あきら……」
 心臓が鳴る。名前を呼んだ口が熱い。いつもと同じ名前なのに、どうしてこんなにドキドキしてしまうのだろう。もう一度口にする。あきら。と、いつもより優しい声で。
「けーいち……」
 応えてくれたことが泣きたくなるほど嬉しいのは、どうしてだろう。俺は手を差し出した。身体が、勝手にそう動いた。あきらはびくりとし、怯えるようにこちらを見る。俺はさらに手を伸ばした。ほら、と口の動きで囁けば、あきらは一歩こちらに近づく。
 触れたい。素直にそう思った。不安そうなその身体を、この腕で暖めたい。
 だって、俺はこいつのことが…………。
 ぞわ、と寒気が背筋を渡った。首根を掴まれたかのような嫌悪感。すぐ耳元に生臭い息を感じる。血の臭い。人を食った獣の口だ。凶悪な牙を並べたそれが、俺の首をつまんでいる。歯を立てないようにして柔らかく脅している! 俺はかじかむ手足を震わせた。背に張りつくのは黒い獣だ。今しがた仲間の肉を喰らったばかりの、血を浴びた沼の魔獣だ。

 ―― あれの仲間だ。

 頭頂から切り裂くように鋭い声。

 ―― そ い つ も お ま え を 喰 ら っ て し ま う 。

 光が目の裏を灼き、俺は地に転げ落ちる。
 手に触れたのは床板だった。
 俺は目の覚めた思いで自分の体を確かめる。首にも背にも獣らしき気配はない。ではあれは夢だったのか。呪いが見せた幻覚か。今までとは違う、いや、今までよりはっきりとした拒絶感に呆然とした。
「……圭一?」
 俺は思わず背後に飛びのく。心配そうなあきらの姿は、もはや恐ろしいものにしか見えなかった。恐怖から目を逸らせないまま、ゆっくりと後ろにさがる。這うように床を行き、辿りついたベッドに上って背中をぴたりと壁につけた。
 あきらが、傷ついているのがわかる。それは怒りに変化して、泣きそうな声となった。
「なんで逃げるのだ! 我のことがそんなに嫌か!?」
 一歩近づく。二歩、三歩。あきらは露出も厭わずに、ずかずかと俺に近寄った。こちらにはもうこれ以上の引き場はない。だが逃げたくて仕方がない。やめてくれ来ないでくれ気持ち悪い、おそろしい。触れるほどの距離に悲鳴を上げると、あきらの目に涙が浮かぶ。
「圭一のばかーっ! こうしてやる!!」
 えいっ。とかわいらしいかけ声をして、あきらは腰を抜かした俺に思いきり飛びついた。首の後ろに腕を回して、ぎゅう、と力を込める。熱い身体で俺をベッドに押し倒し、限界まで締めたところで、俺の意識は真っ白い別世界に飛ばされた。
 意識が途切れる寸前に、あ、無の境地だ。と感じた。

※ ※ ※

 がくりと首を落とした相手は気絶してしまったようだ。あきらは涙を拭きながら、圭一の頭を叩く。ばか、ばか、と繰り返すうち、自分たちの体勢に気がついて真っ赤な顔でベッドを降りた。
 拝借したパジャマを脱ぐ。その下には、Tシャツとショートパンツを着込んでいた。いざという時のために完全装備をしていても、恥ずかしさに変わりはない。あきらは廊下に向けて文句を叫ぶ。
「全然効かなかったのだー! ルパートの嘘つき!」
 だが部下は反応しなかった。ちゃんと、一線を超えそうになった時は止めてくれると言っていたのに。あきらはますます腹が立って、ぐしゃりと丸めた大きなパジャマを圭一に叩きつけた。そのまま、繰り返し顔を叩く。叩いて、叩いて、それでも起きない青い顔をじっと見つめる。
「なんで撫でてくれないのだ……」
 今度こそ、撫でてくれると思ったのに。あきらは動かない圭一の顔を観察する。明日になればじんましんが起こるのだろう。いつもそうだ。互いに肌が触れただけで、圭一はアレルギーを起こす。あきらがそれをどんなに憎んでいるかも知らずに。
 顔の隣に手を置く。そのまま、体重をかけていく。あきらは身を乗り出して、意識のない肌に触れた。
「圭一のばか!」
 弾けるように飛びのいて、今までで一番赤い顔で駆けていく。残された圭一は、何ひとつ気づくことのないままぐったりと伸びていた。

※ ※ ※

 二日連続じんましんとは幸先悪いことこの上ない。俺は立ち直れないほどの絶望にうめいていた。昨夜の失態を思い出すだけで窓から飛び下りそうになる。ああなんであんなチャンスをふいに……じゃなくて、あんなにも間抜けで酷いリアクションを取ってしまったのか。さらには、全身に広がるアレルギーがどん底感を強めていた。あれしきのスキンシップでこんなにも苦しむなんて、そんな酷い話はない。これでは何も出来ないと同じことではないか。泣きたい気分で布団を被れば、ルパートが鼻を鳴らす。
『オーソドックスな萌えも、呪いには勝てませんでしたか』
「萌えとか言うな」
『おやおや勇者殿はケモノ耳の方がお好みで? それとも妹属性ですか』
「どっちでもねえよ! どこから覚えたんだそんなこと!」
『部屋の隅に積み上げられたマニアックなコロニーから。勇者殿も隅におけませんなあ』
「あれは谷の私物だー!」
 あの野郎、やたらと雑誌を持ち込んでいると思ったらそういう系統だったとは。すぐにでも回収してもらわなければ、俺はオタクの烙印を押されてしまう。覚えてろよと念じながら、俺はやるせない気持ちのままに、枕に顔を叩きつけた。
『……ところで勇者殿。お顔は大丈夫でしたか?』
「痛えよ! 顔どころか体中かゆいっつの!」
 特に奴の飛びついた首だとか、触れあった胸や腹が痛痒くてしかたがない。俺は冷静な真昼の気分で当時のことを思いだし、ぎゃあぎゃあとわめきたい気分になった。布団で転がる俺に向けて、ルパートはため息をつく。
『では、特に頬がかゆいわけではないと。……本当に心因性なんですねえ』
 一体何を言っているのかまったくもって分からない。だが今の俺は、膨らんでいく回想や妄想と戦うので精一杯だ。くそ、恐るべしオーソドックス。恐るべし魔王の参謀。
「ていうかお前、部下のくせに上司に身売りさせんなよ!」
『せっかく小娘なんぞに生まれ変わったのですから、利用でもしてもらわないと元が取れないのですよ。何をきゃあきゃあと恥ずかしがるか。いざとなったらパンチラでもして誘惑ぐらいするべきです』
「死語だ。死語が聞こえた。利用って、そんなショボい見せ方かよ」
『勇者どのはチラリズムをわかっていない! これだから未熟なアメリカンチェリーは……』
「ジャパンだよ! ジャパニーズチェリーだよ!!」
 反論する俺を無視して、ルパートはチラリズムのなんたるかについてとつとつと語りだす。俺はいやにマニアックなその理屈を聞きながら、これからの人生に絶望を感じていた。


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