第22戦「ラストバトル2060」
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 呻き声が、俺の眠りをかき消した。朦朧とする意識でこれは自分の声だと気づく。そう自覚した途端に苦しみの塊が胃の中で暴れ始め、俺はさらに声を絞った。薄い掛け布団を掴み、身体を折る。なんだこの吐き気は。なんだこの身体の重みは。俺は涙すら浮かぶ目を見開いて、ひい、とすぐさま息を飲む。視界をうめつくす灰色の毛並み。中央部には黒く湿る鼻があり、生温い息を俺の顔に吹きかける。小型のミニチュア・シュナウザーは、俺の鼻先でかぱりと口を開いた。
『グッモーニン』
 死ぬかと思った。いろんな意味で。
「て、てめ……っ」
 どこから入りやがった、とか、なんで俺の上に乗ってるんだ、などと言いたいことは山ほどあるが、今はとりあえず胃の苦しみが尋常ではない。うめきながら腕を振ると、ルパートは軽々とした身のこなしでベッドの下に着地した。くそ、さすが魔王の部下だ。可愛い顔してろくでもない。
 俺は、中で大玉転がしでもしているのかと言いたくなる胃を押さえ、ひとまずは身を起こす。ルパートは床の上できちんとお座りをしていた。ぱた、と尻尾を振って愛嬌のある顔で言う。
『グッモーニンもといおはようございます勇者殿。おかげんはいかがですか』
「最悪だ……くそ、なんでこんな。風邪か?」
『おやおや自ら低能とお認めですか。夏風邪は馬鹿の専売特許ですよ? ご自分の手をよくご覧になってください』
 なんでこいつはこんな朝からくるくる口が回るのだろう。外見の愛らしさによる相乗効果で憎たらしいことこの上ない。だが俺は素直に自分の手のひらを見た。そのまま、ぎくりとして退けた。
 右手の人さし指が真っ赤に腫れ上がっている。それだけじゃない、甲も腕も、そして腹も足でさえも細かな赤の発疹で緊急事態を訴えている。見た途端に痒くなって、俺は全身を掻き毟った。対処としては最悪の例だ。一通り触れたところでなんとか堪えようとするが、痒みは肌という肌に広がって痛みすらもたらしていた。
 水谷あきらアレルギー。心因性のそれをここまで強く広げたわけは。
 俺は人さし指を見て、痒みとは別の意味で顔面を赤くした。膝にかけた布団に突っ伏す。布に触れる肌が熱くなっていくのが嫌でもわかった。押し入れで眠るあきらの涙を、俺はこの指ですくい取った。それだけでは飽きたらず、口にしてしまったのだ。
 ちくしょう、どうしてこんなに赤くなるんだ。前世では恋人もいたし、それ以外でも何人もの女を抱いた。口づけをした回数など数えるのも馬鹿らしい。それなのに、たかだか涙を舐めたぐらいで。すぐ傍にあったあきらの寝顔を、こぼれ落ちそうになった涙を、指先の触れたやわらかく温かいまなじりを思い出しただけでこんなにも苦しいとは、どういうことだ。
『うぶでございますねえ』
 ハッ。と犬の息。嘲りに聞こえたのは気のせいではないだろう。俺は伏したまま横目で睨む。
「勘違いするな。俺は……」
『口づけも、まだなのでしょう?』
 変わらないはずの犬の顔が、にたりと笑ったような気がした。
『前世ならばともかく、その体ではまだ女を知らない。そうじゃありませんか?』
 絶句する。言われてみれば、たしかにそうだ。前世では様々なことをしたといえども、この体は。長谷川圭一としてのまだ若い男の体は、キスどころか女の手を繋ぐことすら全くの未経験なのだ。
 絶望的なまでの恥ずかしさに襲われて、俺は頭をかかえてうめいた。
「うおおおお……っ」
『ワンツーステップを飛び越えて舐める行為に突入とは、いやらしいですなこの童貞』
「童貞言うな!」
『あの方の涙はどんなお味でしたかチェリー・ボーイ?』
「それも同義語だ! 朝っぱらから押しかけて何の用だ!」
『話題を替えてもわたくしの貴方に対する印象は未来永劫不変ですよ』
 こいつはもう本当にどこまで口が回るんだ。その体のどこにそれだけの語彙が詰まっているのだろう。ルパートはハッハッと犬らしい呼吸をしながら、俺の顔をふいと見上げた。
『恋を、したのでしょう?』
 息が詰まる。目が見開いていくのがわかる。俺は反論しようとした。馬鹿らしいと笑い飛ばそうとさえ考えた。
 だが、言葉が、出てこない。
『やはり図星か。その顔がすべてを物語っております』
「……俺は」
 違う、違う、そんなはずは。だが口を開くほどに心臓は見えない手に摘まれて、痛みをもたらしていく。目の裏にはあきらの姿があふれていた。いつも見せる不敵な顔。威張りくさって仁王立ちになる姿。好きな食べ物を前にした時のこぼれおちそうな笑顔。ぎゃあぎゃあと騒いでは走り回る、学校指定の赤ジャージ。何か言いたそうな顔。泣き顔。ようやく安らぎを得たかのように、押入れで眠る横顔。俺の所に戻ってきた、あいつの存在。
 俺は掴んでいた布団を放す。楽にした体と同じく、心まで静かに澄んでいくようだった。
「ああ。好きだ」
 ざわ、と血が引くのを感じた。逃れた熱は瞬時に膨れ上がり逆流して肌を叩く。俺は全身が悲鳴を上げるような拒否感に引きつった。吐き気。めまい。頭痛。悪寒。思いつく限りの言葉を上げてもまだ全てあらわせない。こぽ、と音を立てて胃液が布団にまき散らされる。俺は奇妙な呼吸を繰り返しては肩を揺らした。
『勇者殿! 勇……圭一さん!』
 犬の咆え。それに混じってルパートの声が響く。
『魔獣は嫌いと叫びなさい!』
 直接に脳を叩くそれは頭痛をさらに上乗せながら、俺の意識を直接に揺るがした。
『我々が憎いのでしょう! ならば叫びなさい。人の持つ憎しみをその口に乗せなさい!!』
「嫌いだ!!」
 つき動かされるように口が開いた。
「俺は魔王が大嫌いだ!!」
 喉が痛むほどの絶叫。苦しげに息を吸い、荒ぐ呼吸のままに体を揺らす。そうしていると、さっきまでの苦しみが消えていることに気づいた。俺は前のめりに倒れる姿勢で、呆然と壁を見る。その視線を、ゆっくりとルパートに戻した。
『やはりか』
 ぺちゃり、と奇妙な音がした。
「……どういうことだ」
『あなたには呪いがかけられている』
 俺の動揺とは裏腹に、ルパートの声は静かだった。
『おそらく、アレルギーもそれが原因なのでしょう。あなたは水谷あきらを受け入れることができないよう、何らかの呪いによって深く戒められている。心当たりはありませんか?』
 衝撃よりも、納得の方が強かった。以前感じた酷い頭痛。考えればそれ以外にも、細かな兆候はあった。俺の体は、理屈ではなく生理的にあきらとの接触を拒否している。それが呪いというのなら、たしかにそうなのだろう。
「症状の心当たりはある。だが、誰がかけた?」
『貴方かもしれません』
 ルパートは即答した。
『我々を憎むあまり、無意識にやったのかもしれない。あるいは、別の誰かかもしれない。わたくしには判りかねます』
「……じゃあ俺にもわかんねーよ。解き方は。そういうのはないのか」
『まあ、ないとは言えませんね』
 混乱しながらも、はっきりと期待が顔に出ていくのは人の浅ましさだろうか。ルパートはそれを見透かすように、ハッ、と息で嗤う。
『時効を待てば良いのです。呪いといっても無限に続くものではない。そうですね、あと五十年も経てば消えるのではありませんか?』
「ご……」
『すると西暦2054年ですか。キリが悪い。2060年ということにしましょう』
「ということにしましょう。じゃ、ねーだろ。そん時になったら俺らはもう老人だ」
『嫌ですか? おやおや不甲斐ない。2060年の最終決戦まで続けられないとは、これだから童貞は』
「童貞は関係ねーだろ!」
 初めにあった期待感がことごとく打ち崩されて、俺はがくりとうなだれた。なんてこった。ようやく自覚できたというのに、このままでは近づくどころか告白もできないらしい。すでに、自覚、と考えた時点で嫌悪感が背筋を這って俺の想いを脅していた。どうやら呪いは本物らしい。
「最悪だ……」
 また、布団に突っ伏すとルパートが鼻を鳴らす。
『随分と簡単に諦めてしまうのですねこの腐敗したさくらんぼめは』
「腐らせるなよ! まだわりと新鮮だぞ!」
『努力をしない若人など老人と同じこと、と言いたいのですよ。情熱は若さの象徴でしょう。障害があってこそ燃え上がるものもあろうに、どうして今から投げ捨てていられるでしょう。努力しなさい圭一さん。そうすれば道も開けましょう』
「年寄りくせえ」
『もう七十年は生きていますから』
 絶句した俺の反応にも構わず、ルパートは涼しい顔で座っている。ちょこんとしたお座りはとてつもなく可愛いのに、これが、七十を超えているとは。ルパートはさらに続けた。
『昔からひたむきな努力はルール上の不可能をも突き破るのがセオリーです。少年漫画を御覧なさい。あれほど勝利は不可能と言われていたボスも、土壇場で編み出した必殺技の強化バージョンにはひとたまりもないのです。主人公はどんな重傷を負っていても、気合いだけで敵に勝ってしまうでしょう。あのノリを使うのです。とりあえず回想を挟んでテメエの負けられない目標とやらを読者に思い出させなさい』
「お前、そういう知識をどこから得てるんだ?」
『もう七十年は生きてますから』
 答えになってない。だが言っていることにも一理ある。俺はあいにくと少年漫画の主人公ではないが、とにかく諦めるにはまだ早いと感じたのだ。そうだ、あのキャラだってあのキャラだって、無理を通してきたじゃないか。俺は勇者だ。こんなことで負けてどうする!
「よし、やるぞ!」
『そうです! さあ伝説を叫びましょう。みんなの力をオラにわけてくれ!!』
「みんなの力をオラにわけてくれ!」
『覇気が足りない! そんなことでは元気玉は撃てませんよ! もう一度ッ』
「みんなの力をオラにわけてくれ!!」
『まだまだあ!』
「みんなの力をオラにわけてくれ!!!」
『そうっ! 地球が大変だ!』
「地球が大変だ!」
『オラの力をみんなにわけてくれ!!』
「オラの力をみんなにわけてくれ!!」
『オラは死んじまっただ!』
「オラは死んじまっただ!」
 勢いよく叫んだところで、ルパートの目が俺を射抜く。
『あなたは馬鹿だ!』
「あなっ……俺は馬鹿か!?」
『だが美しい!』
「だ、だが美しい!?」
『あの子を解き放て!』
「あ、あの子を解き放て!」
『だまれ小僧!』
「だまれ小僧!」
『もののーけーたちーだけー』
「コントじゃねーか!」
 首輪を掴むとルパートはぺちゃりと奇妙な音を立てた。
『これからが面白いところだったのに……』
「お前は本当にどこからそういう知識を得てるんだ!」
 危ない危ない。バカの言いなりになってコンビを結成してしまうところだった。こんな子どももやらないような遊び……
『みんなの力をオラにわけてくれ!』
「みんなの力をオラにわけてくれ! ……あああああ……」
 ついのってしまい自己嫌悪に頭を抱える。ルパートが、ぐるぐるとその場を回り始めた。
「どうした?」
『来た来た来た来ましたよ……全国の皆様のお力が、今ここに!』
「はあ? そんなわけ」
『ああっ、熱い! これはすごいパワーだ!』
 思わず犬の走る床に触れようとしたところで、ルパートが高く叫ぶ。
『パワーMAX! 発動です!!』
「ゆわっしゃー!」
 スパーンと小気味のいい音を立てて押入れのふすまが開いた。ぼさぼさの髪で飛び出したのは、寝起きらしき元魔王。俺は息を詰まらせて、そのまましばし咳き込んだ。
「ふふふふふ、驚いたか圭一! 最高のタイミングだっただろう!」
「お、お前っ、昨日からずっといたのか!?」
「そうだ! うるさいからさっき目が覚めたのだ!」
 そりゃあれだけ絶叫を繰り返せば、百年の眠りも覚めるだろう。しかし年頃の娘が男の部屋で眠るとは、一体どういう脳みそをしているのか。そこまで考えて、ふと、今まではそんなことなど気にしていなかったと思う。少なくとも昨日の夜までは、あきらがどこで眠ろうと間違いなど起こるはずがなかったから。
「……男の部屋でぐーすか寝てんじゃねえよバカ。恥じらいってものがないのか」
「大声で漫画の真似をするお前の方が恥ずかしいのだ」
 ぐっ。と言葉に詰まったところで、あきらはにやにやと馬鹿にする笑みを浮かべる。
「ふふん。この恥ずかしい一部始終はしっかりと覚えたぞ。みんなに言いふらしてやるのだー!」
 そして楽しげに階段を下りていった。なんなんだあの態度。本当に昨日フラれて涙していた奴なのか。俺はなんだか心配するのも馬鹿馬鹿しくて、ほっと大きな息をついた。なんだ、元気そうじゃないか。
『勇者殿の見通しはスイートポテトよりも甘い……』
 ふう、とため息をつかれて癇に障る。ルパートは犬の顔で言った。
『そこに居たということは、話を聞かれていたということですよ』
「ああっ!? ……どこからだ。どこから聞かれてた!?」
『知りませんよ。まあ、告白の部分は通常の声量でしたから、聞こえていないと想定しても……。嫌いだ、は十分聞かれていたでしょうね。あれは大声でしたから』
 走っていったのも空元気ではありませんか? などと言われて俺は過去最高の嫌悪に陥る。何度目かも知れないが、またしても突っ伏した。だめだ。今日の俺は何もかもだめすぎる。よりによって、あんな叫びをあきらに聞かれていたとは。くそう、裸足で高速道路を疾走したい気分だ。
『まあ女心は秋の空。このような困難すら変えていくのがヒーロー的パワーです。さあ叫びましょう。オラの力をみんなにわけてくれ!』
「だからそれ逆だっつの!」
 ルパートはあらぬ方を向いたままバカな叫びを続けている。俺は号泣したい気持ちのままに、髪の毛を掻き毟った。


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