第21戦「涙を舐める」
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 もう、二週間だ。俺は幾度となく見返したカレンダーを確認し、苛立ちを募らせた。もう、二週間もあのバカ魔王を見ていない。夏休みが始まって一日中暇になっているはずなのに一体何をしているのだろう。今までの長期休暇は暇さえあればこの部屋に上がり込み、一日中だらだらとゲームをしては頭の悪い挑戦を叩きつけたりしてきたのに。こんなことは初めてだ。
 かなり真剣にあきらが来なくなった日数を数えていることに気が付いて、俺は真っ白い卓上カレンダーを机の上に投げ捨てた。馬鹿らしい。たかだか十四日間あいつの姿が見えないだけで、どうして俺が気にしなくちゃいけないんだ。だが制御を求める思考とは裏腹に、視線は窓から庭を抜けて俺の家より数段立派なあきらの家へと飛んでいく。二階の端、薄いレースのカーテンに阻まれた奴の部屋。見て取れるのは植木鉢らしきものの影だけで、人がいる気配はない。そこまで考えて、俺は顔を強く叩いた。その勢いで、昔はよくあいつがあの窓から手を振ってはちょっかいを出してきただの、身を乗り出しすぎて庭に落ちかけてただのという回想も打ち切った。馬鹿らしい。どうかしてる。だがどんなに己を罵倒しても頭の中には騒がしくて迷惑でてんでガキでやっかいな元魔王の笑い顔や泣き顔が次々と浮かんでは消えていく。
 耳の奥で奴が俺の名前を呼ぶ。俺はそれに答えない。それなのに奴は何度でも、さまざまな声色で俺の名前を呼び続けるのだ。耳をふさいでも、頭を振っても、奴の声はどこまでも執拗に俺を追っかけた。
 それなのに、本物は一向にこの部屋に現れない。
 二週間だ。もう、二週間もあいつの声を聞いていない。
 俺はキャベツ色の携帯をあてもなく開いた。メールを開くだけで手一杯だったのに、ここ数日で確実に覚えてしまった操作がある。
 電話帳を開く。検索する。数少ないメモリから水谷あきらを選択。メールの新規作成。タイトルは。
 俺の慣れない携帯操作はいつもそこで終わってしまう。一体何を書けと言うのか。ルパートはどうしてる? うちの母さんが寂しがってるぞ。お前が好きそうなゲームを松永から借りたんだ。
 お前、なんで来なくなったんだよ。
 降参宣言か? 俺には敵わないと健気に自覚でもしたのか?
 俺をぎゃふんと言わせてやるんじゃなかったのか。
 そんなに簡単に諦めて、お前、このままでいいのか。
 倒すんだろう。前世で殺された憎い勇者を懲らしめてやるんだろう。
 このまま終わらせて、いいのか。

 携帯もカレンダーと同じようにどこかに叩きつけたくなるが、しみったれた経済観に邪魔をされて結局は閉じるだけに留まる。馬鹿らしい。情けない。馬鹿らしい。情けない。今の俺を構成している要素はたったそれだけ。
 正気になれ、と数えるのも不可能なほど繰り返した発破をかける。めでたいことじゃないか。小学一年の春以来、魔王による妨害にほとんど毎日迷惑をこうむっていた。雨の日も、風の日も、台風の日も停電の日も暑い日も寒い日も。それがぴたりと止んだだけで、どうしてこんなに苛立たなければならないのだろう。喜ばなくてはいけないのに。この時がいつまでも続くようにと祈らなくてはいけないのに。
 飽きもせずにまたしても携帯を開く。手が勝手に電話帳を開きかけたところで着信画面に切り替わった。思わず身を乗り出そうとするが、その前にクリアな画面は電話の相手を教えてくれた。藤野壱香。すぐに出る気にはなれなくて、三コールほど置いて取る。
「はい。長谷川ですが」
 そんなこと知ってるよ、と指摘されて顔が赤らむ。だが藤野はそれ以上話を伸ばさずいきなり本題に入った。俺は藤野が何を言いたいのかがわからなくて、それは嫌味かと考えるが、聞こえてくる声の真剣さと滲む焦りに背筋を冷やした。息せき切る勢いで詳細を聞き出して外に飛び出す。一日中空気を灼いた太陽は橙色の丸と化して遠く沈みかけている。じきにあたりはたちまちに暗くなってしまうだろう。もう、夜の時間なのだ。
 あきらが行方不明になった。
 片想いの相手に玉砕覚悟で告白をしに行くと言って、藤野の家を出たのが昼前のこと。涙混じりの報告が入ったのは十分後。たった一言だけを伝えて一方的に切った後は、電話をしてもメールを入れても反応がないという。家に掛けても同じことで、藤野も始めはそっとしておこうと考えたようだがこんなにも遅くまで掴まらないというのはおかしい。
 俺はあきらの家の玄関に飛びついて、鍵が掛かっていることを知る。犬の助の声はしない。ルパートの反応もない。明かりの類が見えないので完全な留守なのだろう、あきらの親は遅くまで帰ってこない仕事をしている。
 じゃああいつはどこに行った。公園か、それともどこか街で時間を潰しているのか……。
 考えるよりも早く足が動いた。俺は帰路を行く人たちに不審な目を向けられながら、必死に道を駆け抜ける。学校。公園。友達の家。犬の散歩コースを中心にひとつひとつ探りながら、俺はあきらがこの二週間何をしていたのかを考えて、腹が立って走る足に力を込めた。
 片想いの相手は花屋の店員だったという。
 優しく、人当たりのいい奴で、可愛いと言ってくれた。
 たったそれだけのことで、あいつは勝手に惚れこんで、相手のために髪型を変え化粧を覚え服装まで変えて毎日花屋に通い詰めた。毎日。俺の部屋にこなくなっただけの時間をあいつは花屋に費やしていた。挙句の果てに告白すれば一体何を言っているのか、冗談かと疑われて気まずく切り捨てられたという。後になって花屋まで行ってみた藤野によれば、その店員にとってあきらはただの客であり、しかも毎日来ることと、犬を連れていること以外は印象にない些末な存在だったらしい。誉めたことも覚えていないと言っていた。
 吐き気がする。頭が熱い。目の周りから額にかけてほかほかと燃えていて、俺はこの一瞬で悪い風邪でも引いたのかと笑い飛ばしたい気分だった。腹が立つ。あいつの頭を思いきり叩きたい。馬鹿やろうと絶叫したい。
 可愛いと言ってくれた。ただそれだけで惚れるなんてどうかしてるとしか言えない。たったそれだけのことで十年近く続いてきたものが途絶えるのか。壊れるのか。なくなるのか。馬ッ鹿じゃねえの。たったそれだけのことで。

 俺はお前を殺したんだ。
 あの世界であの手と剣で、お前の命を絶ったんだ。
 なぁ魔獣。汚らわしき獣の王。
 お前は俺に仕返しをしなければいけない。復讐に燃えていつまでも追い続けなければならない。
 それが、こんな些細なことで無くなってしまうのか。
 俺たちの因縁はこんなにも脆いものだったのか。
 なあ、魔王。



 陽が暮れて、あたりの景色は完全に闇に落ちた。目を凝らしても遠くまではよく見通すことができない。これでは探すのも困難だと考えて、公園の時計を確認すると一時間が経っていた。そこでようやく疲労に気づく。走り続けていたために全身が熱を持ち、呼吸は荒くなっていた。頭の中であいつが行きそうな場所を見直してみる。だがどこも一通り探した後で、もう、あいつが他に行きそうな場所なんて……。
 目を見開く。その後で、かすかに笑う。自分に向けた嘲笑だ。馬鹿な、と頭で呟きながらも足は自然とそちらに向かった。死にもの狂いで走った道を、ゆっくりと逆に行く。慣れた景色へと戻っていく。
 俺は、俺の家の階段を、ゆっくりと上っていった。
 足元が震えるのは何故だろう。笑いたいのは気のせいだろうか。
 戸を開けると明かりのない俺の部屋。生ぬるいそこに踏み込んで、隙間もなく閉ざされた押入れのふすまを、開ける。
 俺は笑った。泣き出したい気持ちで笑った。
 俺よりも随分と小さな魔王は真っ暗な押入れの中でさらに小さく丸まって、かすかな寝息を立てている。随分と泣き腫らしたのだろう、顔の化粧はぐちゃぐちゃであちこちに色が散って目にも無惨になっていた。整えていたらしき髪は乱れ、俺が今まで一度も見たことがない女らしい服装も皺だらけになっている。だがそれ以外は姿勢も場所もいつもと同じ。飽きるほどに目にしてきたいつも通りの奴だった。
 魔王の口が薄く開く。やわらかいくちびるから消え入りそうな声がもれる。

「圭一……」

 あきら。

「……けーいち……」

 あきら。あきら。あきら。

 俺は泣きそうになりながら奴を呼んだ。あきら。あきら。あきら。決して口にはしないけれど、今の俺は、そうしなければ壊れてしまいそうだった。あきら。あきら。あきら…………。
 これは魔王だ。汚らわしき魔獣の王だ。触れてはいけない、毒にやられたくなければ決して近寄ってはならない禁じられた生き物だ。幼い頃からずっとそう頭に叩き込まれてきた。修業を積み、家族を捨て、勇者として選ばれた時から魔王を殺すためだけに生きてきた。魔獣に関わるものは皆忌むべきものと認定されて社会から遮断される。討伐隊に任命された人間は既に人ではないと言われた。あの頃の俺は、魔獣を滅し、全身に纏わりつく魔物の陰気を斬り捨てて、故郷に人間として戻ろうとそればかり考えていた。
 だからこそ、魔王を殺したときは気が遠くなるほどの幸せを感じた。
 この暮らしから逃れることができるのだと。二度と魔物に関わるものかと迷いもなく考えていた。

 それなのに、今俺は泣きたいほどに喜んでいる。
 あきらが、また俺の元に戻ってきてくれたことが、震えるほどに嬉しいのだ。

 眠るあきらのまなじりから溜まっていた涙が一筋こぼれ落ちそうになる。
 俺はとっさにそれを指で拾った。指先には魔王の涙。
 俺は、それを、ゆっくりと口に含んだ。
 かすかな味を舌に感じた途端、やわらかな重低音が耳を鳴らす。
 ずん、と音を立てて体が重く沈んでいく。

 その瞬間、俺は、堕ちた。

※ ※ ※

 明かりのない窓を犬の目が見つめている。灰色のミニチュア・シュナウザーは道路から圭一の部屋を眺めていた。
「エミール」
 歌うような声がして、ルパートは顔を動かす。道を歩いてやってくるのは、楽しげに笑う若い男。
『……どういう風の吹き回しですか』
「試したがりは魔術師の職業病だ。ようやく私も跳べるようになってねえ。試しに遊んでみたんだよ」
 エプロンと長靴を脱ぎ、私服となった花屋の男はくつくつと喉を鳴らした。
「随分と可愛らしい姿になったものだ。皆に見せてやりたいよ」
『あなたこそ。エプロンがよくお似合いでしたよ』
「お前がいる時は奥に隠れていたんだ。この持ち主も仕事熱心なようだったのでね」
 身動きのない犬の頭を撫でながら、さらに笑う。だがその眼差しは冷えていた。
「……わざわざ邪魔をしてくれるとは。お前らしくもない、小娘に情でも移ったか?」
『馬鹿なことを』
 冷ややかな犬の言葉を受け止めて、男は意味ありげに灰色の毛並みを見回す。最後に一度頭を撫でると、笑みを取り下げて言った。
「エミール。我々を裏切ってくれるなよ」
『はい。全ては主の望むままに』
 よろしい。そう囁いた口がまた笑う。男は首輪を指でなぞると、来た道を戻っていった。
 ルパートは身震いをする。撫でられた頭を塀に擦りつけて、彼の消えた方を見つめた。
『悪魔め』
 呟きは唸り声のように低い。
 ルパートは静かな窓を見上げると、庭の茂みの中に消えた。


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