第19戦「吊り橋のまんなかで」
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 歩くほどに風が膝をなでていく。あきらは慣れないスカート丈に苦戦しながら夕暮れの道を歩いていた。普段外気に触れない箇所が目にも白くあらわになって、落ち着かないことこの上ない。歩を進める度に見えはしないか、いやらしくはないだろうかとちらりちらりと下半身を確認するので家に到着するよりも早く夜が来てしまいそうだった。
 雲を染める茜色は薄紫に塗りつぶされて次第に暗く落ちていく。不安げにそれを見上げ、また下を確認したところで長い髪がふわりと揺れた。いつもは二つに結んでいるので、こうしてただ下ろすのは一体何年ぶりだろう。ワックスを指につけて素早い動きで髪をつまむ藤野の動きは見事だった。まっすぐに下りていたあきらの髪は、鏡の中でみるみるうちにふわりふわりと宙に浮いてはまるでパーマをかけたようにうねっていった。大道芸人を眺める気持ちでぼんやりと見つめていると、いつか雑誌で見かけたような髪形に整えられて、その後は、どうしてこんなに必要なんだと思えるぐらいに大量の道具を使い、少しずつ顔を整えられて。
 そうして完璧な藤野の施術が終わった頃には、あきらは今までの格好とは比べ物にならないぐらい女の子らしい姿になり、同時に疲労からまともな思考ができないほどになっていた。
 こんなにも疲れるのなら、いつもの格好の方がいい。しみじみと思いながら、あきらは普段の三分の一ほどの速度でふらつく足を進めていた。
「お嬢さん」
 声が掛かったのは、いつもの道の見慣れた花屋の前だった。
「これ、落としましたよ」
 水に浸けた花の茎の匂いがした。顔を上げるとにこやかに笑う若い男。彼はいかにも店員然とした若草色のエプロンにゴム長靴といった姿であきらに鞄を差し出した。さっきまで持っていたはずの、教科書の入った鞄を。
 いかに疲れていたといってもまさか鞄を落すとは思ってもいなかったので、あきらはぎょっとして店員から鞄を奪う。確かに自分のものだと認めたあとで、今の動きは乱暴だったと気が付いて頭を下げた。
「す、すみません。ありがとうございます」
「いいえ。気をつけなきゃだめだよ。君、かわいいからそんなにふらふら歩いていたら攫われちゃう」
 下心が浮かぶでもなく純粋ににこにこと微笑まれて、何故だか顔が熱くなった。
「か、かわ……」
「うん、かわいいよ。お兄さん今日はいいもの見ちゃったなあ」
 素敵なものを見つけたように楽しげな顔が眩しくて、見ているだけで熱く灼かれてしまうようで、直視していられない。あきらは短い裾を押さえつけて、晒された足を見つめた。
 ひんやりとした手を頭に感じたのは、その時だ。驚いて顔を上げようとする前に、よしよし、と子どもをあやす声がして、あきらの頭は大きな大きな手のひらにゆっくりと撫ぜられた。水に浸けた花の茎の匂いがする。雨上がりの森の匂い。
「じゃ、気をつけてお帰り」
 男はまたにっこりと微笑んで、撫でていた手を小さく振った。
 その後は、どうやって帰ったかあまりよく憶えていない。
 ただ、雲を歩いているように浮ついた足取りだったことと、圭一の所には寄るまいと考えたことは確かだった。

※ ※ ※

 気に食わない。どうしてこういうことになるんだ。俺は小一時間ほど組みっぱなしの腕を握り、貧乏臭く足を揺らした。それでもまだ満足がいくはずもなく、苛立ちは募るばかりと分かっているのにやめられない。俺は小さく舌打ちをして、賑やかな階下に耳を澄ました。
 リビングではまだあきらとうちの母親がきゃあきゃあ騒いでいるのだろう。あきらは自宅から様々な服を持ち寄り、母はそれを奴に着せては髪や顔をいじって遊ぶ。今までさっぱり女らしいことに興味を持たなかったというのに、藤野の家に行って以来あきらの趣味は変わったらしい。
 男子禁制の戯れが始まってもうどのぐらい経つのだろう。はじめは俺に見せようと階段を駆け上がっていたというのに、一度無下に切り捨ててからは顔見せどころか声も掛からなくなった。いつもなら「今度こそ見てろ!」などと言って執拗に絡んでくるのに、どういうわけだか今日はさっぱり音沙汰がない。俺はむかむかと心臓が落ちつかなくて、さらに強く床を蹴った。
 腹が立つ。気に食わない。苛々する。俺を無視するあきらにも、母親にも、そして俺自身にも。
 随分と昔にも同じ気持ちになったことがあるような気がする。あれは小学校低学年の頃だろうか。

 子ども会でいくつかの親子が集まって、山に遠足に行った時のことだ。そこには大きな吊り橋があり、他がそうであるようにもれなくよく揺れていた。足元の踏み場は隙間だらけで渓流が見えているし、掴むべき欄干は縄で出来ていて体重をかけるほどに柔らかく橋を揺らす。俺はどうしてこんな恐ろしいものを渡らなくてはいけないのかと、大人たちと子ども会の企画を呪った。
 俺と母とあきらの三人は列の一番最後で、渡るべき時にはすでにみんなは向こう側に渡り終えていた。いやだ。こわい。なんとかしてここから逃げられないものか、と平静を装いながらも泣きそうになっていると、何もわかっていないあきらは嬉しげにとんとんと橋を渡る。なぜそんなに笑っているのか、どうして楽しそうなのか理解できない俺の前で、母とあきらはきゃあきゃあと歓声を上げながら吊り橋を歩いていく。
 俺は、その橋を強く揺らした。
 二人が向こうに渡ってしまうのが悔しくて腹が立って恐ろしくて悲しくて、汗をかいてしまうほどに力いっぱい橋を揺らした。欄干を掴んで揺すり、踏み場を足で波立たせては怖がるあきらを見て笑う。あきらは吊り橋のまんなかにへたり込んで必死に橋を握りしめて、弱々しく泣いていた。俺はあきらが留まったことに優越感と安堵を覚えてさらに強く橋を揺すった。

 俺は何もない宙に手を浮かべては意味もなく掴んでみる。手の中に残るのは感触のない空気だけ。揺らすべき吊り橋はない。今の俺には何もできない。もう、あきらが進む道を揺するわけにはいかないのだ。階下からは楽しげなあきらの笑い声が聴こえる。俺は無造作に空を掴んだ。意味がないと知りながらも、ただそれを繰り返した。


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