自習時間と言うものはその名の通り自習をするための時間であって、決して雑誌を読んだり喋ったりして遊ぶためのものではない。ましてや机の上に鏡を立てて化粧道具を広げるなどもっての他だ。 「まっ、待つのだ! そんなことをしたら痛いのだ!」 「やーんみっちーカワイイ〜。大丈夫最初はちょっと怖いけど、すぐに慣れちゃうってー」 「わあ懐かしい反応ー。そうそう、あたしも昔はビューラー使うの怖かったよ」 それなのに、こいつらは一体何をしているのか。俺はあきらを囲んで遊んでいる藤野と中嶋に睨みをきかせた。 「お前らちゃんとプリントやれよ」 「わー無粋。いいじゃない彼女がキレイに変身するんだからー」 「そうそう。あきらちゃんの化粧デビューに水をささないでくださーい」 そうだそうだ、と外野から声がするのは一体どういう了見だ。気がつけば教室のあちこちでにやついた顔が俺を見ている。くそ、どいつもこいつも俺とあきらを恋人だと思い込んでは勝手に応援してやがる。勘違いも甚だしい。 今日だって突然の自習時間に課題をこなすこともなく、それぞれに雑談をしてはちらちらとあきらの様子を窺っていた。そりゃあ教室内でいきなり鏡やくしや化粧落しシート、なんだかよく分からないが細々とした化粧道具にヘアスプレーやワックスまで取り出して飾り立てようとしているのだから目立たないはずがない。しかし藤野、お前はその薄い鞄のどこにこんなにも大量のブツを隠していたんだ。机の上は踏んだら痛そうなほどにごちゃごちゃと散らかっていて、課題となるプリントどころか筆記用具も見当たらない。あるのはただ元魔王を女らしく磨くために揃えられた道具ばかり。あきらはそんな机を見て、ノリに乗った藤野たちを見て、最終的にはおろおろと俺を見た。顔面に助けてくれと書いてあるような気がするのは気のせいではないだろう。この元魔獣は化粧などという女らしい行動にはまったくもって疎いのだ。 「い、いいのだ。我は別に……」 「えーだって絶対ちゃんとした方がカワイイよー。今もカワイイけどもっとカワイくなるってー絶対ー。もっとカワイイみっちーを見たい人ー」 お前何回カワイイって言えば気が済むんだこの万年フルメイク。だがうんざりとした俺の思考とは裏腹に中嶋が元気に手を挙げる。近くの女子が手を挙げる。さらに教室のあちこちでぱらぱらと挙手が見えた。案の定松永班長と谷武もにやにやと手を伸ばしているが見なかったことにする。 「はい決定ー。ええっとー、それじゃまず髪型かな。うわあみっちー髪キレー! ちょっと触ってみて、ホラ!」 「本当、赤ちゃんの髪みたい! ねえねえすごいよコレ」 「え、あっホントだつるつるー。いいなあまっすぐで羨ましいー」 「いいなーいいなー。シャンプー何使ってるの?」 「お、お母さんが買ってきてるやつ……」 たかだか髪質だけでこんなにも盛り上がれるとは、女子と言うのは恐ろしい生き物だと思う。あきらはあちこちから伸びる手に頭をなでられ、髪を触られ、感嘆と質問を浴びせられて頼りなくよろめいた。まるで珍獣かペットのようにきゃあきゃあと可愛がられて臨界点を超えそうになっているらしい。赤々と染まる顔の上で、いつもはうるさく輝く両目が今はうつろに揺れている。 「でもやっぱブローした方がいいよ。これただ梳かしただけでしょ? 結ぶのもー、いつも分け目が同じだとくせが付いちゃうから変えてみよっか。ええと、おでこは出した方がいいかな? それともこのへんで分けるかー」 「あっ、出してもかわいー。でも長さが足りないから、ええとピンある? ちっちゃいやつ」 「なァんだみっちー下ろした方がカワイイじゃーん。あっ、うねらせるのもいいかもしれない。毛先遊ばせてー。あ、でも結構頑固なストレートだからこのワックスじゃダメだ。誰かマットワックス持ってなーい?」 「はーい。これでいい?」 お前ら学校に何を持ち込んでるんだ。武器か。それはお前らの戦闘器具か。呆れを超えて感心すらしはじめたところで女子の武器はさらに集まり、あきらは多数の道具と視線とコメントにさらされてスカートをぎゅっと握った。椅子に座らされた姿は、まるでステージの上で一人スポットライトを当てられているようだ。恥ずかしげにうつむく度に藤野に顔を上げさせられる。 「はあい下見ちゃダメー。うーん、色はどんなのがいいかなー。やっぱ可愛らしくピンク系? ゴールドはちょっと無理かなあ、私のじゃ合わないか。ねえ誰かパステルっぽいの持ってない?」 「あ、これとかどう? 似合いそう」 だからお前たちは学校に何を持ち込んでいるんだ。どうしてどの女子の鞄からも次々と化粧道具が出てくるんだ。ゴールドってなんだ。金か。顔を金に塗りたくるのか。そもそも奴らが取り出す道具は何の意味があるものなのか、どこに塗るものなのかすら分からない。なんであんなに長細かったり小さかったりするものが沢山いるんだ。化粧なんて口紅だけでいいんじゃないのか。そんなことを口にすれば思いきり笑われそうなので、俺はもうほとんど終わってしまったプリントに取りかかる。あきらがこちらを見ているような気がしたが、気がつかないふりをした。 「長谷川君、ノリ悪ーい」 「いやきっと恥ずかしがってるんだよ。きゃー純情ー」 「……誰が」 できるだけ関わりたくはないが、からかわれるのは性に合わない。俺は藤野を睨みつける。 「教室できゃあきゃあ騒ぐな。自習だぞ」 「いいじゃん明日提出なんだしー。時間は有意義に使わなきゃ。何、化粧の厚い女には興味がないって?」 言ってねえよそんなこと。だが俺は藤野の厚化粧……特にチリチリとまばらに散った濃いまつげを見て思わず頷きそうになった。口にしたわけではないが表情で言いたいことがバレたらしい。藤野は途端に敵を見る目つきになって、俺を上から見下した。 「へえー。じゃ、もっと喜びそうなところから始めよっか」 にやりと笑う。明らかに何事かを企む顔つき。藤野はあきらを立たせると、いたずらをする子どもの笑顔で腰を掴む。そしてそのままあきらのスカートを思いきりたくし上げた。 「ひあ!?」 甲高い悲鳴が上がる。俺も思わず立ち上がる。女子高生にしては長めだったあきらのスカートは今や見えるか見えないかという限界まで引き上げられて、生白い素足を曝し出している。耳まで赤くして布を押さえるあきらに抱きつくようにして、藤野はいやに慣れた手つきでウエスト部分をくるくると巻き取った。手を離すがスカート丈が元に戻ることはなく、プリーツの端は階段を上れば一発でアウトの地点で頼りなく揺れている。 「い、いいいっかちゃん、み、みじか、みじかいのだー!」 「えー、このぐらいのがカワイイよ。大丈夫、みっちー足キレーだしー」 「き、きれいじゃないのだ。恥ずかしいのだー!」 泣きそうな声で必死に前や後ろを隠そうとするあきらの仕草が何よりも恥ずかしい。街中を歩く奴らは短さを気にもせずに堂々としているからまだましなのだと実感した。見ていられなくて目を逸らしたい気持ちと、生々しく伸びた足や見えそうで見えない位置をもっと見たいと叫ぶ心が俺の中でせめぎあう。 「ほら、長谷川君もこっちのが好きなんでしょー?」 「ばっ……早く下ろせよ! 校則違反だぞ!」 「みんな学校終わったらこのぐらいやってるよ。先生が厳しくなきゃ教室でも短くするしー」 確かにうちの学校は校内ではやたらと厳しく靴下にまで文句をつけるが、一歩校外に出ると何の監視もつかないために放課後になった途端弾けるやつが多い。だがあきらはこれまでずっと校則を守ってきたし、俺もそれが当然だと考えている。健全な精神は規則に従うことから始まるのだ。戒律は常に守られるためにある。 「絶対こっちの方がカワイイよ。長谷川君もああ言ってるけど心の中では……ね?」 「そうそう。そのぐらいした方がバランスもいいし、足長く見えるし。絶対そっちのがいいって」 「そ、そうなのか? こっちの方がかわいい……?」 「全ッ然かわいくねえ。ホラさっさと戻せよ、ほら!」 「なーんかヤな感じー。俺の女は俺のものって言ってるみたーい」 間延びしながらも棘のある声。藤野は机に腰掛けて、だらしなく足を組んだ。 「いるんだよねー、そういう奴。彼女がちょっとオシャレしただけで『俺は別に化粧なんてしなくてもいいと思ってるのに、なんでそんなことするんだ。他の男に色目でも使いたいのか』とか言いだしてさー。彼女の行動全部がてめぇのためじゃないといけないのかよって感じだよねー」 ちょっと待てなんかやけに実感がこもってないか。だらだら続く愚痴は妙に生々しくて、まるで俺が藤野の男で、実際に奴に文句を言ったかのように錯覚する。責められている気分になってぎこちなく言い訳をした。 「俺は別に……そもそもこいつは彼女でもなんでもないし。ただ腐れ縁なだけで……」 「そうやって幼なじみだからって俺のもの扱いするのが、いっちばんタチわるーい。みっちーにはみっちーの人生があって、長谷川君には関係ないでしょー。彼氏じゃないって言うなら干渉するのやめたら? 小さい頃からずっと一緒だったからって、最後まで一緒なわけないじゃない。いつかは別々の人と付き合って、結婚したりいろいろして離れ離れになるんだから。みっちーだっていつまでも長谷川君の相手をしていられるわけじゃないんだよ?」 長谷川君の相手、という部分が俺に水をぶちまけた。血が冷えるのを感じたのは屈辱のためだろうか。それとも予想外のことを言われて驚いてしまったのか。あきらが俺の相手をしている? 俺が、あいつの相手をさせられているのではなく? 「ちなみに私の知る限り、学園祭カップルと修学旅行カップルと幼なじみカップルで上手くいった奴はいません。これ定説」 「でもお姉ちゃんの友達で、幼なじみ同士で結婚した人いるよ」 「そういう場合も大抵は結婚の前に別の人と付き合ったりしてるでしょ。一生一人に添い遂げるなんて不可能なことなのよ。要するにみっちーもいつかは長谷川君以外の人と付き合い始める。その時になって泣いても知らないよ?」 驚きから現実に戻りきれない俺に向かって、藤野は嘲笑を浮かべた。 「いつまでも俺様気分でいたら、いつかひょっこり予想外の人間にあきらちゃんを取られちゃうんだから。それこそ知りもしなかった、その他の人々ってカテゴリーの男にね」 まさか、と笑おうとして頬が引きつる。考えてみれば藤野の理屈は真っ当だ。あきらはいつか他の男の所に行く。俺はいつか別の女と付き合い始める。そんな考えてみれば当たり前のことが、ひどく奇妙なことに思える。まるであってはならないことのようだ。 不機嫌な藤野の顔を、中嶋が恐る恐る覗き込む。 「藤野センセ、今日はなんだか荒れ模様?」 「べっつにー。ちょっとムカついただけー。さ、頑固親父はほっといて、みっちー改造計画だ。あ、でももう時間ないか。みっちー今日ヒマ? よかったらうちに来ない? 道具もちゃんと揃ってるから完璧に変身できるよー」 「で、でも……」 「いいでしょ一日ぐらい長谷川君から離れてもー。ねっ」 あきらが窺う目で俺を見るがあえて返事はしてやらない。顔をそむけると見えない場所で、あきらが了承するのが聞こえた。同時に自習時間の終わりを告げるチャイムが鳴って、変身する予定だったあきらの姿は元のように戻される。何もかも元通りになった気がして安堵している自分に気づいた。いけない、そんな考えでどうするんだ。藤野の言葉に振り回されるな。あきらが誰と付き合おうと俺には関係ないじゃないか。むしろ喜んでやるべきだ。そうだ、その時は笑いながらひやかして散々からかってやろう。俺はやり損ねたプリントの問題に目を走らせながら、頭の中で言い聞かせては納得を繰り返した。 だが、まだ、あんなにも早く「その時」が来るなんて、考えもしていなかった。 |