第16戦「ただの婆さん」
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 人生は不意打ちだ。何が起こるかわかりゃしない。俺は今まで幾度となく繰り返した教訓を改めて噛みしめていた。頭がぼんやりしているのは、七月の太陽に焦がされた公園の焼けつく空気のせいなのだろうか。それとも俺の頭髪を車体のごとくに熱くする憎らしいほどの晴天に、蜃気楼でも見せられているのだろうか。俺は足元の犬の助……もといルパートに繋がるリードを汗ばんだ手で握りしめた。
「圭一、早く来るのだー」
 このくそ熱い中だというのに元魔王は嬉しそうに俺を手招いている。だが俺は見飽きてしまった奴ではなく、隣に立つ、日傘をさした女を見ていた。涼しげな白のノースリーブ。涼しげな白のスカート。あまり涼しそうではないやたら長い白の靴下。それ以上に暑苦しそうな白手袋が俺を招く。
 俺は逃げたい体を無理やりに動かして、全身を白で統一した高橋美加子の方へと向かった。
「ふふ。ひさしぶりね」
「ああ……まあ、そうかもな」
 つい二ヶ月前に会ったばかりなのだが、しかもその時はデヴァリウス四世呼ばわりされて世界を襲った大暗黒がどうのとか光の戦士が云々と畳みかけられて、俺はほとんど逃げるように走って別れたはずなのだが。そんな「悪の魔王に殺されたもののこの世界に生まれ変わった勇者のひとり」を自称する高橋と、正真正銘の元魔王であるあきらが、なぜメール友達略してメル友になっているのか。そしてなぜあきらを通して俺を呼び出したのか。
「ふふん、我がミカちゃんと仲良しでびっくりしたんだろう」
「びっくりしたというか……いつの間に」
「それはふたりだけの秘密なのだ!」
 貧相な胸を張ると、Tシャツにプリントされた犬の絵が小さく揺れた。熱と困惑に頭がうまく働かない俺を馬鹿にするのか、あきらは高橋に何事か囁いてはくすくす笑う。高橋もまた共鳴するように笑うが、頬は引きつっていた。
「あきらちゃん、先に行ってて。すぐに追いつくから」
「うん。わかったのだ!」
 あきらが歩きだした途端、高橋はよろめくように俺に駆け寄る。立ちくらみかと心配に開きかけた俺の口は次の瞬間ぽかんと呆けた。スキップでもしかねないほど浮かれた調子で歩いていくあきらの背中に、高橋は、ポケットから取り出した白い砂を撒いたのだ。跳ねるがごとくに進んでいくあきらには当たらなかったようだが、高橋はもはやそちらを見やりもせずに、小瓶に入れたその粉を自分の体に擦りこみはじめた。見た目からしてどうやら天然塩のようだ。仄かに茶色の混じるそれは精製されたものより荒く、時おり土らしきかけらが混じっている。なんとなく、理科室に放置された塩化ナトリウムの結晶を思い出した。
「これでよし、と。危なかったあ。長谷川君も祓っておいた方がいいわよ。さすが魔王の生まれ変わりだわ、闇の力が強すぎる……」
「……なんの話だ」
「え?」
 あきらよりも高い位置から、くるりとした目が不思議そうに俺を見る。高橋は何秒か俺の顔つきを探っていたが、すぐに納得の笑みを浮かべた。
「そうか! まだ記憶の復活が完全じゃなかったのよね。ごめんなさいひとりで張り切っちゃって……ちゃんと説明するわね。これは元の世界の聖灰をこっちで再現したものなの。本物より効力は落ちるけど、闇の穢れをそれなりに祓ってくれるわ。デーリーズが開発したものなのよ。私たちの中ではもう必需品なんだから」
「いやそうじゃなくてもっと根本的な……そもそもお前がなんであいつと連絡を取ってるのかとか、今日は何をするつもりで俺たちを呼んだのかとか、そういうところから説明して欲しいんだが」
「やだ、わたしったらまだ言ってなかったのね。ええと、まずあの子とメールアドレスを交換したのはね、悪の力が完全に復活していない今のうちに敵を懐柔しておくべきだと思ったからなの。それが無理でも敵を知るのは大切なことでしょ? 本当は長谷川君の連絡先が知りたかったんだけど、携帯は持ってないって言うから……あの子に会ったのも、そもそも長谷川君の家のポストに手紙を入れようとしていたら見つかっちゃったからなんだけどね」
 お前それは一体何を入れるつもりだったんだ。俺は前回嫌というほど聞かされた、高橋の言う「前世の仲間たち」の集会だとか、お払いや各種グッズの金額などを思い浮かべて頭を痛めた。ただでさえ暑くて弱っているというのに、この異常な世界はきつすぎる。今すぐ逃げてしまいたい。
 なあルパート、お前もそう思うだろう。そう言いたいけれども言えない気分で赤いリードを引いてみるが、灰色のミニチュア・シュナウザーはぴくりとも動かなかった。熱い地面に行儀良く座り込んで、高橋をじっと見上げている。いつものように妙なことを言わないのは高橋に聞かれないようにだろうか。それにしても今日のルパートはあまりにも大人しかった。俺に向かって撫でろと指示することもなく、尻尾一つ動かさない。もしかしたら何も言わず犬の助に戻ったのかと考えながら、改めて高橋に訊く。
「で、今日は何のつもりで呼んだんだ。ルパ……犬の助を連れてこいってのは何のために?」
「それは別に指定してなかったんだけど、あの子が連れてきたいって言ったから……もしかしたらこの犬も悪に魅入られた生き物かとも思ったけど、別にそんなことはないみたいね。飼い主と違ってかわいいじゃない」
 高橋は手袋を外しながらしゃがみこむが、撫でようと伸ばした手は低い唸りに止められた。ルパートは高橋が怯えて手を引くのを見ると、警戒の姿勢をやめてぷいと顔をそむけてしまう。顔を引きつらせた高橋が、取り繕う調子で言った。
「じゃあ、うちに行きましょうか。今日は逢わせたい人がいるの」
 その発言には背を向けて逃げ出したい気分になるが、ルパートの態度には何故だか顔が勝手に笑う。置かれている状況や息苦しい気温に反して、胸のあたりがすっと楽になるのを感じた。
 気がつけばルパートが俺の顔を見上げている。思考の読めない犬の瞳を見返すと、ルパートは顔をそむけて歩きだした。あきらの後を追うそれをさらに追いかけると、当然ながら高橋もついてくる。というよりも俺たちを先導して歩きはじめた。
「こっちよ。私の家、覚えてる? 昔あの子も一緒に誕生日会に呼んで、クラスのみんなで遊んだでしょ」
 そういえばそんなこともあったような気がする。だがあきらとは違い、ひとりでそこに向かうには、残された記憶はあまりにも頼りなかった。どんな家だったのかさえあまりよく覚えていない。覚えているのはあきらと一緒にプレゼントを買いに行ったとか、あきらが嬉しそうにケーキを頬張っていたことぐらいだ。
 公園を出ると車道に沿った細い道がまっすぐに続いている。アスファルトの照り返しに目を細くして前方を探ってみるが、あきらの姿はすでにどこにも見えなかった。あいつは俺と歩くとき、いつもこうして駆け足で先に行く。そうして着いた目的地で「遅いぞ。我の勝ちだ!」と笑うのだ。あいつは子どものころから何ひとつ変わっちゃいない。
「……あいつ、先に行ってるけど。急がなくても大丈夫?」
「だって暑いじゃない。それに魔王の近くにいたからかなり力を消耗したわ。回復しながら行かないと」
 高橋は日傘の柄を肩に乗せて、のんびりと足を動かす。俺はのろまにアスファルトを踏む自分の足に目をやって、昔と比べて当たり前のように大人びた高橋の身体を見る。やわらかそうな二の腕が擦りこんだ塩のせいで赤くなっているのを見つけ、気まずくなって前を向いた。
 求める目を凝らしてみてもあきらの姿はどこにも見えない。随分と、遠い場所にいる。
「今日はね、ルマ様に逢ってもらおうと思って。覚えてる? 聖殿の巫女として私たちを支えてくれたルマ様よ。覚えてないのも仕方がないかもしれないわね。わたしだって初めはわからなかったもの。知った時は驚いたわ。まさかわたしのお婆ちゃんが、あのルマ様だったなんて!」
 おいおい、実の祖母までこんな調子なのかよ。どう計算してもいい大人だろうに、こんな思春期の戯言を拡大したような電波話に混じるなんて一体どんな婆ちゃんだ。俺は心の底から高橋とその祖母に裏拳をぶち込みたい気分になるが、妄想に暴走する高橋の口は休まらない。それどころかますますヒートアップして、顔はみるみる赤くなるし口角は泡を吹く。
「でもこれが運命なのかもしれないわね。わたしたちだって、本当に偶然に同じクラスにいたんだもの。きっとお互いを求める想いがわたしたちの魂を引き寄せてくれたんだわ。ルマ様はね、いつもわたしたちの戦いを応援してくれているの。困ったときや困難にぶつかった時は、とてもよい助言をしてくれるのよ。まるであのころと同じよう……そう、転生してしまっても、何も変わらないんだわ。正義も悪も、すべてそのまま受け継がれる……それが世界の理。わたしたちが受け止めなければいけないさだめ……」
「高橋……」
 呼びかけは人の話を聞きやしない勢いで打ち返された。
「長谷川君……いえ、デヴァリウス四世。魔王を葬る計画は立ててある?」
「は?」
 葬るって一体何を。頭の悪い質問が舌先まで出かけたところで黒い毛皮が脳裏を過ぎる。
 沼の魔獣。人に多くの害を成した汚らわしい魔物の王。
「葬るって……」
 あの化け物は前世の俺が見事に退治したはずだ。そう、リジィアの神より賜った聖剣と聖水でこれ以上人に悪毒を撒かないように。災害を呼び起こすことのないように、俺が、あれを殺したのだ。
 汗ばんだ手のひらを見つめる。ルパートの紐の痕が残る、まだ若い男の手。剣を握ったこともない、魔獣を斬ったこともない。それどころか動物の血にも触れたことすら思い出せない軟弱な手だ。あの頃のような厚さもなく、近づけて嗅いでみても血が香るわけもない。
「お前、何言ってんだ」
「何をためらうことがあるの? あれは悪界の住民よ。いずれ彼女の記憶が戻ればここでも惨事が起こってしまう……その前になんとかしなくちゃいけないの。ねえ、あなたなら分かるでしょう?」
「高橋、自分が何を言ってるかわかってんのか? あいつを殺すとか、そんな……」

 だが前世の俺はそうしたのだ。
 この手で、奴の心臓を突き、全身に返り血を浴び、息絶えた黒い塊を見て、勝鬨の声を上げた。
 ほんの十七年前、俺は、あいつを。

 どうして指が震えるのだろう。目に映る街の景色は眩いほどに陽の光を浴びているのに、俺の体はどうしてこんなに冷えきっているのだろうか。足元の感覚がなくなっていくのがわかる。歩きだせば倒れそうで一歩も踏み込むことができない。
「どうしたの? 大丈夫?」
「なんでもない。……なんでもない」
 自分でも何を言っているのか曖昧なのは、耳元であきらが騒いでいるからだ。学校指定の赤ジャージを着て、いつものように馬鹿丸出しの表情で、俺の頭のあちこちを走り回って思考の邪魔をしているせいだ。そうしてあいつは俺にふふんと威張りながら胸を張り、指をさし、言葉を詰まらせ泣きそうな顔をして俺の竹刀の端を握って頼りなさげにくっついて、嬉しそうに笑いながらスキップで隣を進み、そのまま、楽しそうに全力で前へ前へと走っていって。
「……あいつを殺す? どうして」
「魔王がどんなに酷いことをしたのか覚えてないの? 人に負の穢れをばら撒き、疫病を流行らせ、従えた魔物たちに集落を襲わせたのよ!? どんなにたくさん殺されたと思っているの?」
 知っている。魔獣の毒が川に流れ込んだせいでいくつもの村が潰れた。生きながらに全身が腐蝕する病にかかり、多くの子どもと老人が苦しみながら死んだのだ。その上火山の噴火を起こした。神の聖地を侮辱した。泣き叫ぶ民草の声が鮮やかに蘇る。助けてください勇者様。どうか、あの魔王を倒して。そう、すべて覚えている。憎しみを保たなければいけないこともわかっている。
 それなのに、仔犬のようにはしゃいで笑う奴の顔が、目の奥にこびりついて離れない。
「覚悟を決めて。わたしたちがやらなくちゃいけないの。このままじゃこの世界も大変なことになるのよ」
 肩を揺する高橋の手がうざったくて仕方がない。俺は大きく首を振った。たしかに魔王は悪として人に多くの害を与えた。簡単には許されない重い罪をいくつも犯した。
 でも、あいつは。

 “あきら”は、何も――――

 びり、と脳の奥に電撃が走った。次の瞬間頭蓋骨が音を立てて軋み始める。
「いっ――」
 上げかけた悲鳴すら息と共に吸いこんで、俺は頭を抱えて呻いた。金槌で額の奥から後頭部まで内側から殴りつけられるような痛み。息を吸うだけで頭の皮を引きちぎられてしまいそうだ。まともな呼吸すらできず涙だけが滲んでいく。動けない立ち上がれない。受身すら取れずに倒れて体中でアスファルトの熱を感じる。痛い痛い痛い痛いどうなってるんだこれは、これは。
 一声、甲高い犬の咆え。
 耳元でそれが響いた途端、頭痛はぴたりと治まった。俺は呆然と頭を上げた。鼻が触れるほどの距離にルパートの顔がある。表情はないけれど可愛らしくカットされた血統書つきの愛玩犬。ルパートは黒々と澄んだ目で、俺の目を見つめて言った。
『“圭一”さん』
「……はい」
『お撫でなさい』
 ルパートはぺこりと頭を下げる。
「はい?」
『動揺した時には可愛らしい小動物を撫でると自然と心が落ち着くものです。さあ遠慮はいりません。わたくしをお撫でなさい。出産直後のヤギの母親もかくやという勢いで愛しなさい』
「…………」
 とりあえず何がなんだかわからないが、他にすることも思いつかなかったので、地面に座り込んだまま灰色の頭を撫でた。ルパートは扇風機にも負けないほどに勢いよく尻尾を振る。俺はそれにますます促されるように全身を撫でまわす。尻尾が千切れて飛ぶのではないだろうか、と懸念したあたりで手を離すと、ルパートは満足そうに力強く鼻を鳴らした。
『素晴らしい愛玩でした!』
「はあ。そりゃどうも」
 まだ思考があやふやなまま受け止めると、高橋がおそるおそる俺の顔を覗き込んだ。
「長谷川君……大丈夫? どうしたの、何があったの」
「いや、こいつが撫でてくれって」
 ぼんやりとルパートを指さすと、高橋の顔色は水をかけたように冷える。
「何言ってるの? 大変、闇にやられて錯乱してるのね! 早くルマ様に浄化してもらわなきゃ!」
 青ざめる高橋に腕を引かれて立ち上がり、俺は陽射しにやられたのかまともに動かない足を無理やりに前に進めた。転びそうな足取りで、引かれるがままに歩む。振り返ると、ルパートはさっきの場所で中空の一点を見据えていた。
 それが睨みに見えたのは俺の気のせいだったのだろうか。ルパートはぴちゃりと奇妙な音を立てると、おそらく俺にしか聞こえない声で呟く。
『悪魔め』
 そして道に落ちたリードの端をくわえると、軽やかな音を立てて俺たちに駆け寄った。
 俺が目で呼びかけても、ルパートはそれきり何も言わなかった。


 要するにこの炎天下に帽子も被らず歩いたせいで、熱射病だか日射病だかになってしまったようだった。俺は久しぶりに訪れた高橋の家で、いきなりソファに寝かされてしまう。傍であきらがアイスクリームを食べながら、いやらしい笑みを浮かべているのがとてつもなく憎らしい。
「もー、圭一はだめだなー。我みたいに急がないからそんなことになるんだぞ」
 俺はあまりに忌々しいのと同時に恥ずかしく、両手で顔を覆ってしまう。くそ、先に来てクーラーの効いた部屋で涼んだあげくにキャラメル味のアイスですか。優雅なことで結構結構。ああ悔しい腹が立つ。
 寝かされたソファの質感は俺の家のものとは違い、しっとりと肌に触れるのにしつこくへばりついてこない。こういうのが高級な革というものなのか、と納得しているところで高橋がやってきた。
「長谷川君、大丈夫? すぐに治してあげるから!」
「あ、ああ……」
 切羽詰った顔をしている高橋の背後には、彼女が言うところの“ルマ様”が控えている。あきらがそちらに手を振った。
「おばあちゃんはすごくいい人だぞー。よかったな圭一」
 なにがいいんだ馬鹿魔王。こいつらはいい歳して前世とか本気で信じて、お前を殺そうとしてるんだぞ? 懐いてる場合じゃねえだろうが。そう言いたいがこの状況では高橋にしらをきられてしまいそうで、どうにもためらってしまう。そうしている間に高橋はルマ様を部屋に入れる。
 そこには、優しげな笑みをたたえる初老の婦人が立っていた。おばあちゃんと呼ぶにはまだ早く感じられる、それほど年には見えない顔立ち。しわの目立たない肌に囲まれた目は、高橋と同じようにくるりとした愛嬌を乗せている。ルマ様は正体不明の布の塊を赤ん坊のように抱え、俺の傍にしゃがみこんだ。
「今日は暑いからねえ。気をつけなきゃ」
「そうだぞ。圭一は不注意だ!」
 ここぞとばかりに攻撃するあきらを睨む余裕もなく、俺はルマ様の抱えた謎の物体を凝視する。ちょっと待てそれはなんだ一体何をするつもりだ。あの高橋の仲間のことだ、優しそうな顔をして油断した隙に怪しげな聖水やら聖灰やら薬草を使いかねない。不安すぎる俺の視線のその先で、巻かれていた水色のタオルがゆっくりと外された。
 現れたのは細長い緑色の塊。ゴムめいた表面には、アイスノンと書かれている。
 ルマ様はタオルの巻き方を調節すると、ひんやりとしたアイスノンを俺の額に設置した。
「水分はもう取ったのよね?」
「あ、はい。お茶……みたいなものを」
 高橋がこっそりと「秘密の特効薬よ」と囁いたので絶対飲みたくなかったのに、喉の渇きとあきらの声に急かされて飲み干した、麦茶の味がする正体不明の液体を。ルマ様は嫌そうな俺の顔に苦笑すると、こっそりと囁いた。
「大丈夫、ただの麦茶ですよ。美加子には魔法入りってことにしてあるけど。ごめんなさいね、迷惑かけて」
 ルマ様……いや、高橋の祖母は申し訳なさそうに笑う。うっすらと頬に貼りつくような苦笑。俺は思わずまじまじと、その若いおばあちゃんの顔を見つめた。高橋の祖母は微笑みを哀しげな色に変え、俺の手を両手で包む。
「あの子と、仲良くしてやってくださいね」
 そう一言囁くと、頷きにも似た会釈をしてゆっくりと部屋を去った。
「もちろんなのだー!」
 わけのわかっていないあきらが、元気よく手を振った。
 ルパートが部屋の隅でぴちゃりと奇妙な音を立てた。


「今日はミカちゃんと久しぶりに遊べてよかったな、圭一」
「まあ、お前にとっちゃそうなんだろうな」
 他愛のない会話やゲームで過ごした数時間はあまりにも普通で、異常な世界を強制的に覗かされることはなかった。それはいいのだが、やはり高橋はあきらから距離を置いていたし、ことあるごとに俺に何か言いたそうな顔をしていた。とりあえず完全に気づかないふりをしておいたが、この調子ではまたいつか何か実行しかねない。俺は夕暮れの帰路を行きながら、隣のあきらに念を押した。
「さっきも言ったけど、今度高橋から誘われたら、とりあえず俺に言えよ」
「もー、わかってるのだ。しつこいぞ。あっ、さてはお前、ミカちゃんと我の仲の良さに嫉妬してるな?」
「はいはい、勝手に言ってろ」
 危機感も何もない顔を見てほっとするのはどうしてだろう。あきらは橙色の光を浴びて、嬉しそうに笑っている。あまりにも平和なそれを眺めていると、どうしてか、じっとしていられない気分になった。
「……競争だ」
「へ?」
 間抜けな問いをにやり笑いで見返して、俺はルパートの紐をあきらに渡す。
「どっちが先に帰れるか。ゴールは俺の家。負けた方はアイスをおごる!」
「あっ、ちょっ、ルパっ」
 俺がいきなり走り出すと、あきらは邪魔になるルパートの紐を握ってうろたえた。
「ひ、卑怯だー! 待てーっ!」
『盟主様っ、全力で走りなさい! わたくしが牽引します!』
 だがそう言うか言わないかのうちに、灰色の塊はびゅんという音すら立てて俺の足元を抜く。ルパートはあきらを置いて、犬の本領発揮とばかりにとてつもない速さで駆けていった。
『ははははは、前脚を捨てた愚かな二足歩行生物たちよ見るがいい! アイスはわたくしのものです!』
「速え――! 反則だ反則!」
「ルパートのばかーっ! それは卑怯だー!」
 叫んでみても脳に直接響く声は高らかに笑うばかり。俺とあきらは本来の目的など放り投げて、全力で犬を追う。俺たちはまっすぐに続く帰り道を、一緒になって駆け抜けた。


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