第12戦「ヲトメゴコロ」
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 頬に、ひやりと濡れた感触がした。続くのは脳に直接響く声。
『盟主様、盟主様! 起きてくださいこのヘドロチビ』
「へっ、ヘドロ!?」
 あきらは予想外の罵声に驚きながら目をあけて、至近距離に犬の顔があるのを見つけてさらに瞼を見開いた。悲鳴を上げそうになったところで犬の張り手が飛んできてあきらは痛みに思わずうめく。
『お静かに。ご両親が目覚めます』
「い、いたいのだ……なにするのだルパート!」
『だまらっしゃい!』
 めまいを起こす絶叫にあきらは思わず耳を塞ぐ。だが脳に直接聞こえる愚痴は防げなかった。
『わたくしがどれだけ苦労してこの薬を作り上げたと思ってるんですヘドロブタ。あなたが作れと命じたからこそ材料を集め、十二時間鍋から離れずじっくりことこと煮込んだ上で天日干しにしたのですよ。わかりましたか? わかったらさっさと勇者にこれを飲ませなさいダメ盟主』
「ご、ごめんなさい。ルパート、ありがとうなのだ!」
『だから黙れっつってんだろこのヘドロヘビ。いい加減にしないと寝乱れた写真を激写して売りますよ』
 ルパートはぶつぶつと呟きながら、妙に中年じみた動きであきらの布団に潜りこむ。ベッドの上でくるくると回転して寝心地の良い角度を探し、位置が確定するとどっかりと寝そべってそのまま寝息を立て始めた。あきらはベッドのど真ん中をルパートに取られてしまい、悲しげな顔で床に降りる。時計を見れば朝の五時。いつも起きる時間まで、まだ二時間もある。
「ルパート……ちょっと寄って」
『犬は場所を譲らないのだワン。わたくしはここで眠るのだワン』
「ルパートー……」
 泣きそうな顔でベッドを叩くがかつての部下は動きもしない。あきらは仕方がなく諦めて、ルパートが持ってきたと思われる黒い丸薬をつまみあげた。どうやってこちらの世界に持ち込んだのかはわからないが、とにかくこれはルパートが作り上げた魔法薬だ。これを勇者に飲ませれば、奴は、きっと。
 あきらは自分の想像にふつふつと笑みをもらす。飲ませるための作戦は既に立てられていた。登校時間まであと二時間半。あきらは寒々しく長いその時間を、勇者がぎゃふんと口にする瞬間の想像にあてて過ごした。

                ※ ※ ※

 どうも今朝は何かが違う。俺はもう三度目にもなる自問自答を繰り返した。
 まず、あきらがうちにやって来ない。いつもならまだ朝食も食べ終わらない時間から俺のことを迎えに来るのに、今日は全く音沙汰なしだ。これはおかしい。幼稚園時代からこっち、こんなことは数えるほどしかなかったのに。
 不可解な思いが顔に出ていたのだろうか、母親がにやにやと笑いながら俺を見ている。
「もー。あきらちゃんが来ないからって、不機嫌になりすぎよ」
「……誰が」
 俺は頭の中を遺憾に染めてトーストを頬張った。確かに普段ならあきらが向かいの席に座って、持参した朝食を嬉しそうに食っているはずだろうが、俺としてはあんな奴はいない方がせいせいするのだ。ただ、それがあまりにもいきなりだったから、奴が何か企んでいるのではないだろうかと疑惑の念が絶えないだけ。
 だが違和感はそれだけではなく、今目の前からも発生していた。
 黒く、丸く塗りつぶされたつぶらな瞳が俺を見ている。暖かい茶色の体はやわらかい線で縁取られ、丸みのある長方形となっている。大きく開いた口も四角。赤い口内に、三角型に尖っている白い牙がよく映える。どういうわけだか普段は無地の俺の湯呑みは、どーも君のマグカップに変容していた。
 かわいい。見ているだけで崩れ落ちてしまうほどに。
 だがどういうことなのだろうか。まさか俺がNHK愛好者であることが母にばれてしまったのか!?
「なんだお前、やけに可愛い湯呑みだな」
 出勤前の父親がネクタイを締めながら席についた。母親がくすくすと笑いながらそれに答える。
「あきらちゃんに貰ったのよねー。今朝早くに持ってきてくれたのよ」
 なんだ、そういうことだったのか。よかった、ばれたわけではないんだな。
 ……いやよくない。これをあきらが持ってきた? 何故だ?
「ほら、そんなに見つめてないでさっさと食べちゃいなさい。もう時間よ」
 言われるがままに急いでパンを飲み込むと思いきり喉に詰まった。水、水をくれ。目の前にはどーも君カップがあるが、あきらがわざわざ持ってきた物をやすやす使うわけにはいかない。何か裏があるに違いないからだ。しかし喉が喉が喉が喉が。水はどこだ。目の前だ。マグカップにプリントされたどーも君が俺を見る。つぶらな瞳。俺を見る。つぶらな瞳。どうするーあいふるー。いやそうじゃなくてそうじゃなくて苦しいって胸の中パンだらけだよ水水水。
 ごくごくごく、と喉がいい音を立てる。俺はほとんど無意識にマグカップに注がれた冷たい茶を飲み干していた。なんだかやけに甘い気がする。おかしい。我が家はハト麦茶のはずなのに。
「ほら、もう出なさい。あきらちゃんがいないとダメねえ」
 違和感を転がしていく暇もなく俺は席を立たされた。途端にくらりと目が回る。
「ちょっと、大丈夫?」
「へ、平気。行ってきます」
 俺はおかしいおかしいと頭の中で繰り返しつつ、逃げるように家を出た。何故か、広がる景色が少し変わったように見えた。

                ※ ※ ※

『成功ですな。あの足取りからしてどうやらまんまと口にしたもよう』
「ふふふ……圭一がどーも君に弱いことはお見通しなのだ。バッチリなのだ!」
 勇者宅の庭の影で、ルパートとあきらは互いに笑みを浮かべあった。勇者に与えたマグカップの内側には、“ヲトメゴコロヲカイスルクスリ”を粉状に擦り付けてある。ずぼらな圭一の母親が洗わずにそれを使うことも計算のうち。元勇者はまんまとふたりの罠にかかり、特製の《惚れ薬》を口にしたことになる。
『彼奴めを盟主様にゾッコン惚れさせて手のひらでもてあそぶ……今後が楽しみな作戦ですな』
「見てろよ圭一。撫でられたいという我の乙女心をお前も理解するがいい!」
 それは何かが違うのでは、と言いたげなルパートの目にも構わずに、あきらはすっくと立ち上がった。

                ※ ※ ※

 大変大変、チコクしちゃう! 俺はいつもの通学路をわたわたと駆けていた。鮮やかなエメラルドグリーンの葉っぱさんがキラキラと輝いている。なんて素敵……あっ、いけないいけない! つい見とれてたら学校におくれちゃう! 俺はトーストを口にくわえた気分で続く路を全力疾走。だがしかし、曲がり角で人影が飛び出して思いきりぶつかってしまった。目の前にちかちかと星が瞬く。もう、制服が汚れちゃったじゃない!
「イタタタタ……」
「ぶ、ぶつかるなんて酷いのだ!」
 目を回していると、線対称にしりもちをついた相手が抗議する。あきらだ。
「なんだよ、そっちがぶつかってきたんだろ!」
「違うのだ! お前が悪いのだ!」
 まったく、勝手なヤツ! 幼なじみの腐れ縁で、子どもの頃から一緒だけど嫌なところは変わらない。こうしていつもケンカばかりしてるんだ。もう、いやんなっちゃう!
 近くから予鈴が届く。俺たちは顔を見合わせて、どちらともなく口にする。
「あっ、チコク!」
 そして立ち上がるとまるで競争するように、全力で校門に滑り込んだ。


 はあ……今朝も大変だった。どうしてこうなるんだろう。俺は高く澄んだブルーの空をぼんやりと見上げていた。こんなにいい天気なのに、どうして教室の中に閉じこもらなきゃいけないのかな。童話の中の動物たちの学校みたいに、青空教室にしちゃえばいいのに。そう考えると教壇に立つ先生の顔がタヌキみたいに見えてきて、くすくすと笑ってしまう。
「長谷川、先生の顔に何かついてるか?」
「キャッ。い、いいえなんでもありません!」
 教室がなんだか急にざわめいた。あちこちでヒソヒソと囁きあう気配がする。
 ど、どうしよう……俺、なにかおかしなこと言っちゃったのカナ?
 しゅんとして俯いていると、ぽん、と目の前に丸めた紙が飛んできた。広げてみると、汚い字で『きにするな! ドンマイ』って書かれてる。きょろきょろと差出人を探してみると、あきらがいたずらっぽく片目をつぶって親指を立てていた。
 トクン! 心臓が跳ね上がる。
 えっ、なに……このキモチ。胸がドキドキして外まで聞こえちゃいそうだよう!
 落ちつけ、落ちつけ俺のココロ! 嘘っ、やだ、まさかあんなヤツのこと……。
 確かめるようにもう一度あきらを見る。ぼんやりと黒板を見上げながら、退屈そうに足を振るまるで子どもみたいなヤツ! でもそんな仕草のひとつひとつが急にまぶしく見えてきて、ちかちかと輝いて直視していられないぐらい。ウソ……俺、まさか、恋……しちゃった?


「なあ長谷川、お前大丈夫か? 今日ちょっとおかしいぞ」
 班長ことスポーツ刈りの松永が心配そうに訊いてくる。でも俺の頭の中は、さっきからずっとあきらのことで埋め尽くされて気もそぞろ。もう、今朝まではあんなに嫌なやつだと思ってたのに、想いに気づいてしまったらなんて行動が早いんだろう! 俺は消しゴムの底に「水谷あきら」と書いて隠した。誰かに見られてしまったら、おまじないの効果はなくなっちゃう。
「ほらお前いっつも真面目だからさ。なんていうかこう……現代教育の哀しみ? そういうので変になっちゃったんじゃねーの? ちゃんと朝飯食ってるか? おれと一緒に素振りするか? キャッチボールでもいいぞ?」
「班長……」
「お、おう」
 俺は窓辺に肘をつき、キラキラと風に舞う木の葉を眺めながら言う。
「秋って、哀しいね……」
「落ちつけ長谷川。今は五月だ」
 松永は青ざめておろおろと首を振る。俺はただ人気のない校庭を見る。
 班長……恋って、哀しいね……。


 一大決心、してしまった。ほんとうにほんとうの一大決心だ。
 あきらに、告白する。もう校舎裏に呼び出してしまったのだ。後には引けない。
 俺は誰もいない裏庭であきらが来るのを待っていた。どうしよう、なんて言えばいいんだろう!
 ザッ、と土を踏みしめる音。キャッ、来ちゃった!?
 でも顔を見せたのはあきらじゃなくて、犬だった。手足の伸びた灰色のミニチュアシュナウザー。
「ルパート先輩……!」
 美しいけれどいじわるで有名な、通称白薔薇の君。先輩が、どうしてここに!?
『話は全て聞きましたわ、長谷川さん。この学園内で告白だなんて滅相もない。恥を知りなさい!』
「あっ」
 いきなり頬をぶたれて俺は地面に倒れてしまう。落としてしまったラブレターを先輩が拾い上げた。封を開けて鋭い目を走らせる。
『くだらない内容ですこと! こんな幼稚な物をあのお方に見せるつもりだったの?』
 そんな、ひどい! 人の手紙を勝手に読んでしまうなんて、いくら白薔薇の君でもひどすぎる!
『かわいい小鹿ちゃん、あなたはまだ恋をするには少し早すぎるようね』
 ぼろぼろと涙を流す俺のあごを持ち上げて、白薔薇の君は美しく嘲笑う。灰色の尻尾が千切れんばかりに振られていた。悔しい、悔しい、悔しい!
「ちょ、ちょっと待ったなのだ――!」
 雄雄しくも華やかな叫びが飛び込み、俺とルパート先輩は同時に声の主を見る。あきらだ。あきらが、助けに来てくれた!
「そ、そいつをいじめるのはやめるのだ、ルパート!」
 ぺちょりと奇妙な音がした。ルパート先輩が舌打ちをしたのだ。先輩は俺をキッと睨みつけて、四足歩行で素早く去る。残されたのは、呆然と地面に倒れる俺とあきら二人きり。
「だ、大丈夫か? 圭一」
「う、うん……ありがとう」
 トクン、トクン、トクン……胸の音が止まらない。恥ずかしくてあきらの顔を直視できない。顔が、どうしても赤くなる。あきらの手が俺の肩に乗った。えっ、と見上げると、あきらはいつになく真剣な顔でこちらを見ている。
「圭一……我は、我は、お前に言いたいことがある」
「な、何?」
 そんな目で見ちゃ嫌……へ、変な気持ちになっちゃう!
「わ、我は、我は、お前に……」
 暖かいあきらの手が俺の手のひらを取る。そのまま引き寄せて顔が近づく。トクン、トクン、トクン……。こんなに近づいたら胸の音が聞こえちゃう。でも、あきらは赤くした顔をゆっくりと近づけて…………ちょ、ちょっと、ここは学校よ!? いくら誰も見てないからって、そんな!
 ……誰も見てない? ほんとうに? ――違う!
 俺はあきらの手を振り払い、力いっぱい悲鳴を上げた。



「だめえっ! マリア様が見てる!!」



 そして驚くあきらにも構わずに全力でその場を去る。
 トクン、トクンと騒がしい心臓が、いつまでも鳴っていた。

                ※ ※ ※

「…………まりあさま?」
 あきらは圭一に突き飛ばされた格好のまま、呆然と呟いた。影で見ていたルパートがため息と共に現れる。
『もう少しだったんですがねえ。やはり乙女心は難しい』
「そうだ! もう少しで圭一は我を撫でてくれるところだったのだ! なんで逃げられたのだ!? マリア様って誰なのだ、どこにいるのだ――!」
『さあ。所詮は人間の生み出した偶像ですから、わたくしには分かりません』
 叫んでみてもルパートは冷静に流すだけ。あきらは悔しさに涙を滲ませて、青空に腕を振り上げる。
「乙女心ってなんなのだ――!」
 撫でられ損ねた髪の毛が、五月の風にふわりと揺れた。


 翌日、薬の効き目がなくなった圭一が、複雑に距離を置くクラスメイトに首をかしげたのも、拗ねてしまったあきらの対処に困ったのも、言うまでもないことだろうか。


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