家の中は暗く静まり返っている。あきらは同じぐらい暗い目で、無人の部屋を見渡した。親はまだ帰ってこない。多分、真夜中に眠るためだけに戻り、早朝には顔をあわせることもなくせわしく出て行ってしまうのだろう。慣れてはいるが、十年以上続けていても寂しさは消えなかった。 明かりをつけてテレビをつけて別の部屋へと足を運ぶ。洋間も和室も廊下もトイレも全ての照明と音響をオンにすると、あちらこちらでオーディオやラジオが喋り始めた。明るさと賑やかさを手に入れて、ひとまずはほっとする。次は二階だ。 「犬の助ー、えさだぞー」 自分の部屋にいるはずの愛犬を呼んでみるがやってこない。いつもは明かりをつけ始めるとすぐに飛びついてくるのに。もう一度呼んでみると二階からワンと一声。あきらは不思議に思いながら階段を上っていく。だが上まで辿り着かないうちに、かりかりと爪で床を掻く音がして、ねずみ色の小さな影が胸に飛びついてきた。 『盟主様ー!』 「うわあ!?」 バランスを崩しかけて慌てて手すりに掴まると、抱かれそこなった影は下まで落ちる。べたりという音を立てて廊下に転がる小型犬。灰色に白を交えた毛並みの体がぐったりと倒れている。 「い、犬の助ー!」 青ざめて駆け下りると、その騒がしさで意識を取り戻したのか犬の助は起き上がった。潤んだ瞳であきらを見上げ、後足で立ち上がる。驚いて固まるあきらをよそに、通常よりあきらかに手足の伸びた犬の助は、泣きそうな声で叫ぶ。 『盟主様、わたくしです! ああ、ようやくお逢いできた……!』 聞き覚えのある喋り方に、あきらは思わず目を見張る。 「ルパート……!?」 灰色のミニチュア・シュナウザーは、こくこくとうなずいた。 『まさかこんなに時間がかかるとは、思ってもいませんでした……』 今朝まで確かに平凡なペットだったはずの犬は、感慨深げに涙を拭う。ふさふさの毛を残すようにカットされた前脚が、犬の涙を乗せて濡れた。あきらは取りあえず正座するルパートの正面に座っている。まじまじと見つめるが、どう見ても犬の助だ。首輪も、顔を老人のように見せる毛並みもいつも通り。 ただし今の彼は手足が長く伸びていて、自由自在に動かせるらしい。まるで人がそうするように器用にえさをつまんで食べてはグラスを掴んで水を飲む。 『結構美味しいですね、これ』 「はあ……本当にルパートなのか? 確かに色は似てるけど、でも……」 『この世のどこに会話するウルトラプリチーな犬がいますか』 平然と言い切るところは、確かに前世での部下によく似ている。あきらはじっと犬の目を覗き込んだ。汚れをまるで知らないような、透き通った丸い瞳。頬から流れる灰色の毛が、喋る度にふさふさと揺れている。こんなにも純粋そうな生き物が、まさかあのルパートだなんて……あきらは怪訝に眉を寄せた。 「そういえば、なんで言葉がわかるんだ? ルパートならあっちの国の言葉しかわからないはずだ」 尋ねると、ルパートは愛嬌のある顔で言う。 『犬が喋れるわけがないでしょう。あなたの頭に直接語りかけているのですよスカポンタン』 「ルパートだー! その口の悪さは間違いなくお前だー!」 あきらは全身を駆け抜けた郷愁に動かされ、ルパートを抱きしめた。 「逢いたかった、ルパートー!!」 『ははははは。わたくしもですよ盟主様。こんな人間の小娘になりくさって相変わらずでございますねえ』 「ルパート、ルパートー!」 『そうやって連呼するところまで変わっておりませんのかこの鳥頭。まったく腹心の部下を疑いよって』 「だってやっとお逢いできたとか、そんな殊勝なことお前が言うとは思えなくて!」 『ははは。わたくしも十年以上あなたの捜索に費やせば泣きたくもなりますよトンデモ野郎』 上司に向かって平然と悪態をついているが、それこそがルパートの特徴なのであきらも今さら怒りはしない。火山の噴火から逃れる際にも、また人間と対峙した時にもルパートはあきらの役に立ってくれた。口こそ悪いが出来のいい仲間なのだ。誰よりも早く人間の言葉を覚え、本や文化を盗んできては敵の研究に役立ってくれた。人間が生み出した呪術に長けていたから、こうしていつか連絡が取れるのではないかと思っていたが、まさか飼い犬としてやってくるとは。 そこまで考えて、あきらはハッと腕を離す。 「犬の助は!? ルパート、殺したのか!?」 『まさか。ワンちゃんは中で眠っておりますよ。波長は上手く合いましたが、この体を借りていられるのもせいぜい一日。慣れていないので、今回は半日も持つかどうかもわかりません。ですがここまでの道は確保しておりますので、これからは向こうの様子を見ながら飛んできます』 ルパートは抱かれていた箇所を払うように、前脚で毛並みを直す。あきらの声は自然と沈んだ。 「あっちは……まだ、酷いのか」 『まあまあですね。ずっとあなぐら生活ですよ。人間たちも相変わらずです』 平然と言いきって、ルパートはあきらを見上げる。 『勇者はどうしていますか』 「け、圭一は……普通に、学校に行ったりとか」 『復讐は』 黙りこんだあきらを見て彼はぴちゃりと音を立てる。 『……人間に甘いのは相変わらずですな、このど腐れ珍獣』 「ルパート、なんか今変な音が」 『すみませんね舌打ちも下手ですよ犬だから。手間をかけさせないでください。明日、わたくしが彼奴めのところに参りましょう』 ため息のような音を出して、ルパートは力強く顔を上げた。 『わたくしの出番ですね。彼奴らへの復讐を成し遂げてみせましょう』 憎しみに燃える声とは裏腹に、長く伸びた頬の毛がふさふさと可愛く揺れた。 ※ ※ ※ 翌日の早朝、あきらはルパートを抱いて圭一を待ち構えていた。そろそろ彼が登校前のジョギングに行く頃だ。ルパートはその可愛らしい外見で勇者を騙し、取り入って油断させたところで痛い目に合わせてみせるという。一人と一匹は慎重に期を窺った。 「来たっ」 隣の家の玄関から圭一が現れる。ルパートは赤いリードをくわえて自ら彼に駆け寄った。 「お? どうした犬の助ー」 ルパートを抱き上げる勇者の顔は、既に甘くゆるんでいる。この男は根っからの犬好きなのだ。あきらは植え込みに姿を隠して彼を見つめる。圭一はルパートが散歩の紐をくわえていることに気づき、嬉しげに頬をゆるめた。 「なんだ、散歩に連れてって欲しいのかー。しょうがねえなあ、一緒に行くか? ん?」 あきらに見られていることも知らずに満面の笑顔を浮かべ、ルパートの頭を撫でる。それだけでは足りないのか、庭に下ろして全身をくまなく撫でさすった。わしゃわしゃと、毛並みを逆立ててしまうほどに力いっぱい撫でくりまわす。ルパートはたまらないといったように千切れるほどに尻尾を振った。 「あ、ああああ……いいなあルパート。いいなあああ……」 見つめるあきらも嬉しそうな彼らの様子に獣の血が落ち着かない。ルパートは気持ち良さそうにくうんと鳴いて、勇者の腹に鼻面を押し付けた。勇者は笑ってルパートのあごの下を掻く。幸せそうに目を閉じたルパートは、さらに強く尻尾を振った。 「よし、行くか! 今日は公園コースだ!」 ワン、と嬉しげに一声し、ルパートは勇者に引かれて走り出す。 「いいなああああ……」 楽しそうなそれを見て、あきらは悔しげに涙ぐんだ。 はあ、はあ、はあ……苦しみとも興奮ともつかない呼吸が近づいてくる。散歩から帰ってきたルパートは、あきらの元に辿り着くなり息も荒く言いきった。 『恐ろしい敵です……ああ、なんと恐ろしい……』 「お前だけずるいのだ! 我も遊んで欲しいのだー!」 『だまらっしゃい!!』 絶叫に脳を鳴らされて、あきらは頭を抱えてしゃがむ。ルパートはその膝に両足を乗せて騒いだ。 『いいですか盟主様。あの男がわたくしに何をしたかご存知で!?』 「し、知らない」 『落ちていたボールを投げて“取って来い”ですよ!? ドロドロに汚れた臭い球を拾ってきたら“よくやった”と全身を撫でるのですよ!? 気持ちよかった! 本ッ当に気持ちよかった!! あと百回されてもいい!!』 「やっぱりうらやましいのだー! ルパートだけずるいのだー!!」 『悔しかったら犬になって……』 言いかけた言葉を止めて、ルパートは自分の体の臭いを嗅ぐ。 「どうしたのだ?」 『どうやらそろそろ時間のようです。口惜しい……わたくしの力が足りないばかりに』 うなだれた顔はあくまで犬のもので、表情は見取れない。だが声色から感情を把握して、あきらもまたうなだれた。ルパートはそんな主人を見上げて言う。 『盟主様、もう一度あやつの元に連れて行ってはくれませんか。今度こそ、我が同胞たちの意志を伝えてやるのです』 「うん、わかった。今度こそやってやるのだ!」 力強くこぶしを握ると、ルパートは答えるように一声咆えた。 ※ ※ ※ 呼び出された庭の中には赤ジャージの元魔王。あきらは何故か犬を抱いて仁王立ちになっていた。俺は朝食を邪魔されたことや、わざわざまた何か吹っかけようとしていることにうんざりとして首を掻く。犬の助はかわいいがその飼い主は相変わらずだ。どうしてあんなにいい犬が奴のペットなのだろう。 『またお逢いしましたね、勇者殿』 いきなり知らない声がして、俺は思わず竹刀を握る。だが見回してもその中性的な声の主にはぶつからない。 『ここですよ。ルパートと申します。以後お見知りおきを』 「はあ!? どうした犬の助!」 「今は犬の助じゃないのだ、我の部下のルパートなのだ!」 『あなたたちの前世の世界からやってきたのですよ。憎き勇者に復讐をするためにね……』 なんてことだ、じゃあさっきまでの犬の助は既にルパートだったというのか。俺は汚らわしき魔獣の味方を撫でて触って遊んでやって……。じんましんこそ出なかったが馬鹿なことをしたものだ。 ルパートは俺の動揺を嘲笑うかのように、二本足で立ち上がる。驚いた、そんなこともできるのか。まるで人間の直立姿勢そのままだ。俺は警戒して竹刀を構える。 「そのルパートさんが何の用だ。そこのバカ魔王みたいにこれでぶん殴られたいのか?」 『いいえ』 ルパートは静かな声で否定すると、両腕を大きく広げた。 『お撫でなさい』 ぽかんとして見下ろすと、やけに厳しい調子で続ける。 『さあわたくしをお撫でなさい! さあ、さあ!』 よくわからないが言われるがまま晒された腹を撫でてやった。ルパートは気持ち良さそうに息を吐きつつさらに声を張り上げる。 『もっと激しく! そして時に艶かしく! 噛み付いて喰らうように、獲物を舌で味わうように!』 なんだか本当にわけが解らないが、とりあえず全力で体中を撫でくりまわす。ルパートは千切れるほどに尻尾を振って嬉しげに鼻を鳴らした。抱きかかえてあごの下から腹の方までまんべんなく撫でてやる。何故だかあきらがもの欲しそうにこちらを見ていた。 一通り撫で終わると、ルパートは満足そうに鼻を鳴らす。そしてまた立ち上がり、力強く宣言した。 『よい愛玩でした!!』 「はあ……」 『次に会うときは覚えていなさい! そしてわたくしをお撫でなさい!』 その言葉を最後に、すっ、と色のようなものがルパートから消えうせて、奴は四足歩行に戻る。きょときょとと辺りを見回す姿は完全に犬のもので、どうやら中身は元の世界に帰ったらしい。さっぱり意味が飲み込めないが、とりあえずルパートではアレルギーが出ないということだけはわかった。 呆然としていた俺に、あきらが悔しそうに飛びかかる。 「ルパートばっかりずるいのだ、我のことも撫でるのだー!」 「何が!?」 竹刀で防御しながら叫ぶが元魔王は聞きやしない。ずるいずるいと騒ぎながら、俺に向かって手を伸ばす。俺はルパートや前の世界のことについて考えて頭を混乱させながら、迫る奴から逃げ続けた。 それからしばらくの間、俺はあきらの「撫でてくれ」攻撃に悩まされることになる。 |