第10戦「ぬしは逃げた」
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 トイレから出た途端に階段を駆け下りる音がして、あきらはふと疑問に思う。
「サエコさん、いま圭一下りてきた?」
「ええ。あら、あきらちゃん一緒じゃなかったの」
 圭一の母は休日の昼にありがちなサスペンスドラマを見ながら答える。あきらは玄関に続く廊下を探るが、圭一の姿は既になく、愛用の靴も残っていない。
「圭一はどこだ? 出かけたのか?」
「さあ……コンビニにでも行ったのかしらね」
 あきらはむうと口を結んだ。さっきまで共に過ごしていたと言うのにこれは一体どういうことか。急いで部屋に戻ってみても、元勇者は竹刀すら置いたまま跡形もなく消えている。あきらは不満を浮かべて叫んだ。
「我は何も聞いてないぞー!」

           ※ ※ ※

 よく晴れているせいで暑いほどに暖かく、まだ四月なのに夏を感じて嫌になる。だがそれ以上に浮き立つような爽快感が俺の足を駆けさせていた。考えてみれば簡単なことだったのだ。毎日毎日付きまとわれて腹を立てるぐらいなら、自分の足でこうやって奴を撒いてしまえばいい。気づいてみれば今までの俺はなんだったのかというぐらい人生が楽に思えた。
 そう、戦士にも休日は必要だ。何しろ今日は日曜日なのだから。
 ひとまずはあきらが思いつかないところに行こうと考えて、いつものジョギングコースからは大きく外れた道を行く。脱出したはいいものの、そういえば特に行きたい場所もないのだった。とりあえず公園にでも行こうか。この近くに大きなものがあったはずだ。見つからないよう気をつけて移動しよう。
 ただ散歩に出ただけなのに、逃げているという感覚が離れないのは何故だろう。たしかにあきらには無断だが、元はといえば奴が毎日押しかけてくる方がおかしいのだ。
 勇者として生きた前世は魔王を探して戦う日々、今度は今度でつきまとう魔王に抗う日々。まったく、心の休まる暇がない。俺はどうして前の世界で勇者になってしまったのか。ただの一般人として生きていれば、こんなにも苦労をすることはなかったのに。
 そう考えて、どういうわけだか不安を覚えた。
 ……どうして勇者になった? 何故つらく苦しい旅をしてまで魔王を倒しに行ったんだ?
 不思議なことに記憶にもやがかかったようで、どうしても思い出せなかった。考えれば考えるほどひやりとした感覚が腹の底を撫でていく。考えてはいけない、触れてはいけない。そう、何かが頭で囁く。考えてはいけない、そちらに触れては……。
「長谷川君?」
 近くから戸惑うような声がして、俺は現実に引き戻された。一瞬、自分が何をしていたのか解らなくて不安げに周囲を窺う。するとアンティーク風の赤い自転車が目に入る。それを支えて立っている、見覚えのある顔も。
「長谷川君、だよね? どうしたの、こんなところで」
「た、高橋……?」
 そこには確かに元クラスメイトの高橋美加子が立っていて、俺は幻でも見るかのようにまじまじと彼女を見つめた。



「でもホント、びっくりした。何年ぶり?」
 どういうわけだか俺は今公園のベンチにて、高橋と二人揃って缶コーヒーなんぞを飲んでいる。
「中学に入るまでは一緒だったけど、クラスが分かれてからは全然だったから……六年ぐらいか」
 数えながら自分でも驚いた。そんなにも長いとは思ってもいなかったのだ。確かに時間を重ねた分だけ高橋は大人びていて、ますますお嬢様風になった。背に流した長い髪、同じように長い水色のワンピース。絵に描いたような清楚さが逆にどこか非現実的で、少し古いドラマの中から飛び出してきたかのようだ。弾けるような若さだとか流行だとか、そういうものから一歩離れた別の世界の人に思えて、目に慣れず落ち着かない。
「もうそんなになるの? すごいなあ。でもクラスが同じ時でもあまり話さなかったよね。特にあの後は」
「あ、ああ」
 俺は特に飲みたくもなかったコーヒーの缶を見つめた。ついさっき思い出していたからだろうか、告白された時のことがずっと頭を駆けている。気まずさに息が詰まりそうだ。なぜならあの後高橋には。
「……ごめんね。あの時、酷いことしちゃって」
 俺は驚いて顔を上げた。高橋は今時誰もしていないだろうと言いたくなるカチューシャを指でたどる。
「ずっと謝らなきゃって思ってたの。最近は、特に思い出すことが多くて。だから今日出会えて本当にびっくりした。想いが通じちゃったのかな」
「……別に、謝らなくていいよ」
 嘘ではなく心からそう思っていた。告白を受けた次の日、俺は誤解を解くために高橋を中庭に呼び出したのだ。そして何故俺がいつもあきらと一緒にいるか、その理由を全て喋った。そう、俺が勇者の生まれ変わりであることも、前世で魔王を倒したことも。小学生らしい馬鹿な行為と言うしかない。俺は案の定ふざけないでと怒られて、一発頬に平手を喰らった。
 確かに頬も痛かったし、それ以上に自分の存在を全面的に否定されてショックだったが、高橋が謝ることなどない。この世界においてはそれが真っ当な反応なのだから。
「俺の方こそ悪かった。子どもらしい妄想だよな、勇者の生まれ変わりだとかさ。懐かしいよ。そういえばそんな設定も作ってたな」
「いいのよ、もう誤魔化さなくても」
 わざとらしい空笑いは真剣な声に掻き消えた。
「……勇者なんでしょ。長谷川君」
 リスのようなくるりとした目が、まっすぐに俺を見ている。あの頃を思い出してどきりとした。
「な、に言ってんだよ、お前もう高校生だろ? そんなファンタジーみたいな……」
「わたしには嘘つかなくてもいいの。だってもうバレてるんだから。そりゃあの時はそんな馬鹿なことって思ったけど、でも長谷川君とあきらちゃんを見てて、二人が話してるのを聞いて、他にも色んなことを知って。それで解っちゃったの。長谷川君が、勇者の生まれ変わりなんだって」
 ぴくりとも逸らさない真剣なまなざし。俺は完全に意気を呑まれ、高橋の小さな口が紡ぎだすことを聞く。どれだけ見つめ返してみても、薄ら笑いを浮かべてみても、高橋の顔は変わらない。揺るぎなく、じっと俺を見つめ続ける。――本気の目だ。
 ばれてしまったのだ。もう、白状するしかない。俺はかすかな息をついた。
「……ああ。実はそうなんだ」
「やっぱり!」
 高橋の顔は途端に華やぐ。嬉しそうにえくぼを作り、叫ぶような声で言った。

「わたしもなの!!」

 その甲高い大声に、俺はしばし固まった。
「……はい?」
「安心して、他にもたくさん仲間がいるのよ! みんな記憶を取り戻したの! ほらこれ名刺っ。受け取って!」
 どこまでも明るい笑顔で差し出されたのは言われたとおりの名刺だった。明らかにインクジェットプリンターで印刷されたきめの粗いフルカラー。毒々しいほど派手なそこには明朝体で「ペグフリッドの魔王城にて没した光の戦士の会」と記されている。
「た、高橋」
「長谷川君が最後の一人なのよ! みんな……炎のジャハーンも、氷結のレイニィエムも、始めは敵だったのに途中からティバーン様に心を浄化されて仲間になったデーリーズだっているわ! あの人今は大学のサークルで詩を書いているんですって! 信じられる? あのデーリーズがよ!?」
 信じるも信じないも、お前は一体何を聞いて何を知って何を思い出したんだ。誰だよデーリーズって。どこなんだよペグフリッドって。だが高橋は俺を置き去りにしたまま彼方へと突っ走る。口角から小さな泡が輝いて飛び散った。
「でもまだ油断はできないわ……敵がこの地球にまで迫ってきている。今こそわたしたちが立つ時なのよ! 気をつけて、敵はどこにでもいるわ! ガラスの中の自分と目を合わせてはだめ。魂に邪が乗り移ってしまう……そうなったらここに電話して! すぐに浄化してあげるからっ。大丈夫、わたしが話をつけてあるからタダで受けられるわ」
 日常的には有料なのかと言う前に、高橋は俺の手を熱く握りしめる。
「一緒に世界を救いましょう、デヴァリウス四世!」
 誰だよ。
 俺は高橋の袖から覘く怪しげな天然石のブレスレットへと目を逸らし、どうやってこの場を逃げるか全速力で考え始めた。



 暮れてしまった日差しの中、俺はこれほどなく疲労してなんとか家まで辿り着いた。頭の中は不可解な理論と伝説とカタカナの固有名詞でいっぱいになっている。あんなのがあと七人もいるというのだからこの世というのは恐ろしい。どうか出会いませんように、と真剣に念じながら部屋に入ると、巨大な茶色の塊が目に飛び込んだ。
「ど。どーもどーもー……なのだ」
 やわらかく揺れるのは、特大のどーも君抱きぐるみ。俺が密かに欲しいと願っていたブツだ。興奮してくちびるを震わせていると、どーも君の顔の上にひょっこりと元魔王。あきらは上目遣いでこちらを覗く。
「圭一、我が悪かったのだ……だからこれをやるのだ! 存分に抱くがいい!」
「おっ、おおおおお前お前これっ、バ、バッカじゃねーの!? お、おおお俺はこんなやわらかくて気持ち良さそうな茶色の塊……」
「いいのだ! 受け取ってくれなのだ!!」
 全力で抑圧する俺の理性を壊すように、あきらはどーも君の抱き枕を俺に向かって押し出してくる。
「どうしてもか」
「どうしてもだ!」
 きっぱりと言い切られて、おそるおそる手を伸ばした。
「……しょうがねーなー、そこまで言うなら後で使ってやるよ」
 受け取ると気絶しそうなほどにやわらかく、可愛らしい。肌触りの良いタオル生地……ふっくらと詰まった綿……まん丸い黒目も、赤く四角く広がる口も、ちょっと凶暴なニュアンスがまた可愛らしいキバでさえも、しっかりと縫い付けられている。全長は一メートル以上だろうか。指のない手がまたいい。いつまでもふにふにと握ったり離したりしていたい。
 満面の笑顔で抱きぐるみを叩いていると、あきらは嬉しそうに言う。
「機嫌直ったな、圭一! それで許して、もう置いていかないでくれ!」
「ま、まあ考えてやらんこともないかな。ったく、勇者に賄賂を贈る魔王なんて聞いたこともない」
 言いながら高橋のことを思い出す。彼女が語った戯れ言や仲間の話、執拗に続く勧誘。
 そのどぎつさを考えると、俺の今の状態は。
「……魔王がお前で良かったよ……」
「え? なんなのだ?」
 あきらは俺が戻ってきたのがよほど嬉しいのだろう、にこにこと笑いながらどーも君の背中を殴る。俺はその動きをやめさせながら、ほんの少し笑みを浮かべた。


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