第5戦「ほう、それが正体か」
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 視界は赤に、嗅覚は錆びた臭いに埋められていた。目に見える場所全てが血に染められている。魔王はぬめる床に倒れたまま人間の男を見上げた。血を浴びた黒髪の剣士。人に、勇者と呼ばれる男。
 部屋中に広がる血は勇者自身のものではない。全て魔獣と呼ばれる生き物の血液だった。魔王の、同胞の身から噴き出たものだ。
「ほう、それが正体か。魔王というからもっと巨大なものかと思っていたが、存外に小さいな」
 幾多の魔獣を殺した男は魔王に剣を突きつける。蔑みに冷える視線が手負いの魔王の体をなめた。怒りに我を忘れていても反撃する力はない。魔王はただ体を縮め、腹に刺さる矢を握る。塗られた毒が痺れを起こして引き抜くことすら叶わない。薄白く霞む目で勇者の顔を睨みつけた。威嚇のために口を開くと腐れた息が部屋に広がる。勇者は鼻をつまんで吐き捨てた。
「汚らわしい……なんと醜い。その穢れた手で神の祠に触れたのか、魔獣め!」
 罵りのままに剣を振り、魔王の左腕を切り裂く。血と肉と黒い毛が乱雑に飛び散った。激痛に叫びながら床を転がると、全身を覆う毛は同胞の血にまみれる。汚れるのではない、彼らの命に包まれるのだ。そう感じる魔王の目には、汚れることを厭う勇者が滑稽なものに見える。全身を魔獣の血に染められてひどく気分が悪そうだ。彼はいかにも不潔と言わんばかりに魔王の体を見下した。魔王もまた血を流す己を見つめる。
 全身を包む剛毛は、沼の泥に覆われてすえた異臭を放っている。だが泥は体温を調節するためのものだ。干からびて死なないために必要なのだ、少しばかり臭いはするが魔獣たちが生きていくには欠かせないものだった。
 それを、人間は穢れの証と嘲笑う。
 深い沼を神に見放された場所と決めつけ、そこに住まう魔獣たちを汚らわしい種族と罵る。
「我らがリジィア神の聖地を占拠した罪は重い。滅亡をもって償え」
 ――なにが罪だ。
 魔王は勇者を睨みつける。山の火に沼地を追われ、なんとか生きていくために逃げ込んだ場所だった。その森が人間たちの聖地だとは思いもしていなかったのだ。炎から逃れるために同胞を連れてたどり着いた地だ。我らはもはやそこでしか生きることができなかった。それなのに、お前たち人間は。
「魔王よ」
 厳かな宣告に腹の底が煮えたぎる。
 それはお前たちがつけた名だ。我はただ逃げ惑う同胞をひととき統率したに過ぎない。
「神に選ばれし勇者の手にかけられることを誇りに思え」
 ――何が魔王だ。何が神だ。
 魔獣と呼ばれ、魔王と見なされ、そうして命を奪われる。
 我らはただ無事に暮らしていける場所を求めているだけなのに。
 せめて一矢報いようと伸ばした手が勇者の靴の先に触れた。勇者の顔が激情に赤く染まり、罵声と共に魔王の手の甲を踏む。
「汚らわしい、汚らわしい! 私に触るな、化け物めが!」
 そのまま骨が潰れるほどに踏まれ、剣を突き刺された。勇者は荒ぐ息を鎮め、汚れた剣を持参した水で洗う。脂は取れないはずなのに、執拗にそれを繰り返した。
「感謝しろ。とどめは禊の元に行なってやる。……神殿の長から賜った聖水だ」
 聖水は少しずつこぼされては静かに刃を伝っていく。人間たちはその武器を伝説の剣と呼んでいた。だが匂いで察する限りはただの水とただの鉄。彼の行為を嘲笑うとそれが不気味に見えたのか、勇者は不快に顔を歪めた。
「汚らわしい」
 彼は侮蔑の視線と共にただそればかりを繰り返す。近づくことも視線すらも拒絶する否定の言葉。まばたきすらしない目は、魔獣ごときが人間に近寄るなと、生存するなと訴えていた。
 その視線が魔王の指を密かに動かす。呪いの術図を床に書かせる。
 ――このままで終わるものか。こんな、惨めな終わりを許すものか。
 魔王は勇者に気づかれないよう自らの血で、同胞の血で、乾いた石に呪いを描いた。
 勇者は水に濡れた刃を魔王の胸に突き立てる。
 魔王は己の吐いた血で呪いの図を完成させる。
「我はまた蘇る……新たな生にて、必ずお前に復讐してみせる……」
 魔王は憎しみに赤く染まる目で勇者を強く見据えながら、呪いの言葉を吐き捨てた。
 そうして人に魔王と呼ばれた沼の獣は死に絶えた。





 赤い記憶が消えた後は薄暗い闇とほこりの匂い。あきらはいつもと同じように押入れの上段で、うたた寝から目を覚ました。まだ、夢の中身がそこら中に漂っているような気がする。ともすれば血の臭いすら体にこびりついていそうで、不安になって腕を嗅ぐ。血の色とは違う赤のジャージをめくると、つるりとした細い腕が暗がりの中に白く見えた。触れても毛は感じない。体毛はまめに処理をしている。鼻を近づけてみると、獣より鈍い鼻でも石鹸の香りを感じた。
 何気なく指を見て、爪が伸びていることに気づく。肉色と白の境目には垢がこびりついていた。
 ――汚らわしい。
 耳の奥に忘れられない声が響く。嫌悪と侮蔑に染められた何よりも憎らしい音。
「圭一、爪切り貸してくれー」
 彼の部屋のふすまに触れて境界を開け放つ。戸の端に添えた指先を見て、勉強中の圭一を見る。
「爪切り。お前がそれを持っているのは我にはお見通しなのだ!」
「見通さなくても貸してやるよ。ていうかお前また寝てたのかよ。言っとくがここは俺の部屋だぞ?」
 ほらよ、と投げられた爪切りを受け取って、呟いた。
「知ってる」
 口元だけでかすかに笑う。元勇者はあの頃と同じように気づきもせずに紙を取る。
「飛ばすなよ。切った爪はちゃんとこの紙にまとめて包んで捨てろ」
「ふふん、我の爪切り技術も甘く見られたものだな。今日こそは完璧にやり遂げてやる!」
「そう言って毎回毎回カーペットの上に散らすじゃねーか!」
 潔癖な彼は彼女が爪を飛ばすたびに掃除機をかけるはめに陥っている。あきらは動揺を隠すように言った。
「そ、それもまた復讐の一環なのだ。全ては我の計画通り!」
「何が計画だ馬鹿魔王。復讐とか言って、具体的にはどうするか考えてねーくせに。殺人は駄目なんだろ? 暴力もしないときた。じゃあ魔王様の復讐ってのは例えばどんなものなんですかー?」
 明らかに馬鹿にした語調にもあきらは負けないめげもしない。ふふんといつもの笑みを浮かべて力強く言い切った。
「お前をぎゃふんと言わせてごめんなさいと謝らせたい!」
「一生無理」
 圭一もまたきっぱりと言い放つ。魔王はそれでもさらに続ける。
「お前が我のことを馬鹿にするのを金輪際やめさせる!」
「馬鹿を馬鹿と呼ばずになんと呼ぶ」
「お前の安住の地を取り上げて占領してやるのだ!」
 冷ややかな合いの手はそこでぴたりと止んでしまった。現状として置かれている状況を見て、圭一は不愉快そうに眉を寄せる。彼の部屋は今やほとんどあきらとの共同生活状態にまで陥っていた。
「あとは……」
 あきらはそんな彼を見て、笑いながら口を開く。
「お前が、我のことを……」
 だが言いかけた言葉も笑みもそこで止んだ。あきらは考える顔をして、そのまま黙り込んでしまう。
「なんだよ、俺がお前になんだって?」
「なんでもない。とにかく我は絶対にお前をぎゃふんと言わせるのだ!」
 誤魔化すように大きく声を張り上げると、渡された紙を敷いて伸びた爪を切り始めた。不潔なそれをひとつひとつ慎重に飛ばしていく。耳の奥に響くのは忘れられない憎い声。存在を否定する言葉。あきらはそれすら払うように、黒く汚れた爪たちを体から切り離していった。

 復讐へと繋がる思いの正体が変化してきていることに、彼女はまだ気づいていない。


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