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 あ。とふたりが口を開いた瞬間刃先は彼女の指をかすめた。身じろぎをする間をおいて流れた線に赤が滲む、と思えば途端に血があふれだす。叫んだのはシグマだった。
「痛ったああ!」
 頓狂な声に血を流すミハルの方がびくりとした。彼女は向かい合うシグマを見た後で傷の入った自分の指を確かめて、また青ざめるシグマを見る。傷口を遠巻きに窺う彼の顔は紙にでもなったのかくしゃりと歪められていて、ミハルはうねる彼の眉だとか、泣きそうにへこんだ目つきだとかを不可解に観察した。シグマは血を流す傷口を近寄りがたそうに、だがそれでも見てみたいのだと言わんばかりに引いてみたり、寄ってみたり、挙動不審な動きをする。
「うわー、うわー、ザックリ行ってますよこれ。痛あ。うわ、いたたたた」
「…………」
 どうしてお前が痛がるんだ。ミハルとしてはそう言いたいが、ぐにゃぐにゃと歪んでいく顔つきや動揺の声が面白くてさえぎるのがもったいない。シグマはいたた、いたた、とそれしか言えない者のように繰り返していたが、ようやく我に返ったのか「消毒!」と顔を上げた。
「すんません慌てちゃって。そうだ止血しないと! ええと救急箱、救急箱……おわあ!」
 混乱を自覚しながらも落ち着かないものだから、棚の上から転がり落ちた桐の箱に翻弄される。ミハルはこうしている間に自分でした方が早いだろうな、と分かりながらもシグマの動きが興味深く、目を離すのが惜しかった。とりあえず心臓より高く上げた姿勢で彼を観る。
「いたたたた、顔打った……。ええと包帯、包帯と、消毒薬。あったあった」
 何の意味があって行動をすべて口にするのだろう。そう思う間にもシグマは消毒液の瓶を取り出す。
「あっ、これしみますからね。すごく痛いっすよ。ほんとしみますから。気いつけてくださいね。はいっ。……うわっ、痛っ、痛たたたた。しみますよねしみますよね。うわー、しみたー」
 目のあたりをぎゅう、と縮めてしみたしみたと繰り返すのでミハルはとうとう耐えられなくて、ふは、と吹き出した。笑いはそのまま止まらなくて屈んだ肩を震わせる。シグマは何が起きたのかまるでわかっていない様子で恐ろしげに彼女を見て、その後で、ようやく自分が笑われていることに気づく。不審そうだった顔が一息に赤くなって、あっ、ちょっ、と言葉を詰まらせた。
「なんなんすかー! なんで笑うんすかそこでー!」
 恥ずかしげに抗議する姿すらおかしくて、ミハルの笑いは止まらずにどんどんと駆けていく。シグマは半ば引きずられて笑いながらも眉根だけはゆるく寄せて、逃げようとする彼女の手を強く掴んだ。
「だめっすよ、まだ包帯巻きますからね。ほら下向いても笑ってんの丸分かりですから! はい逃げない逃げない!」
 大笑いする顔など気恥ずかしくて間近で見られたくないというのに、シグマは手を引き寄せてわざと顔を近づける。ミハルは降参してふわふわと笑いながら彼にされるがままにした。包帯を巻きながら、シグマはひいだの痛いだのと端々に悲鳴をもらす。傷口を見る彼の眼がいかにも弱くひるんでいるので、ミハルはまたおかしくなって頬をゆるめた。


“痛み”


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