(何寝てんの) サフィギシルは掴んだ本を投げつけたい気分になって、苦々しく顔をしかめる。重い事典をわざわざ返しに来たというのに、渡すべき持ち主は身体をベッドに放り出してすうすう寝息を立てている。その緑色の長髪も、小柄な手足もやわらかな午後の光を薄く浴びて楽々と伸びていた。表情も、またしかり。ペシフィロはこの世の幸福をひとりじめでもするかのように、幸せそうに眠っている。 (よくもまあ、こんな無防備に) 客人がすぐ傍まで来ているのにぴくりとも動かない。通りに面した窓は開き、ゆるゆるとした風がカーテンをなびかせている。いくら二階とは言え、この土地は安全な田舎町などではなかったはずだが。そもそも下宿屋の一室といえども鍵ぐらい掛けたほうがいいに決まっている。サフィギシルは入ってきたばかりの扉を見た。今も固く閉ざしたままの、自分の部屋を思い浮かべた。 ペシフィロはいつも鍵をかけないでいる。彼の留守中、ジーナが勝手に部屋の中を物色しては物を借りていくのを見たとき本当に驚いたものだ。彼女によればいつからかそれが当たり前になったという。この家の女将も、昔馴染みの住民も彼の部屋には自由に出入りしているし、分かち合いたいものがあればそっと置いていくらしい。 (……信じられない) 知らないうちに自分の領域に立ち入られるなど、想像しただけで寒気がする。もし自分自身が彼のように昼寝をしている時に誰かが傍に立っていたら。サフィギシルは身震いをした。嫌悪感が爪先まで響いていくようだった。 サフィギシルにはペシフィロという人があまりにも遠すぎて、ひどく理解しがたかった。もしあらゆる人間たちを一筋の線に並べたとすれば、その片端にサフィギシルが、そしてその逆端にペシフィロが立っているに違いないとさえ思う。それほどまでに、彼は遠い。 戯れに、暗がりの葉の色をした彼の髪に指を寄せたが、漂う魔力に引き下がる。消毒のように自分の白い髪に触れた。変色者と、魔力無し。土地の力を増幅させて放出する身体と、世界中のあらゆる魔力を拒絶して生きる身体。器の性質が相反すれば中身までもがこうも違うものなのだろうか。嘲笑が、口を歪める。 これから何があろうとも、サフィギシルはペシフィロのようになれないことを知っていた。だからこそ苦しいのだ。ペシフィロはどこまでも優しい。それなのに打たれても崩れない確かな軸を持っている。外側がどんなにやわらかくともその軸が折れない限り彼は生きていけるだろう。だが、サフィギシルにはそれがない。打たれればそこで終わりだ。だからこそ誰よりも臆病に己の身を鎧で包み、強固な壁を作り上げる。笑顔であれ偽善的な行為であれ、それが守りに繋がるのならなんであろうと続けてきた。優しい人ねと言われることは失笑の素でしかない。人当たりの良い鎧の中で蔑みの目を向けてきた。同時に、そんな惨めな己の姿を遠巻きに見つめては、重くうめいた。 ペシフィロと並ぶのは嫌だ。作り上げた偽善の皮は、本物を傍に置けばすぐさまばれてしまうものだ。粗悪な偽物は本物と比べるほどに無様で、惨めで、生きてることすら恥ずかしくあまりにも居たたまれない。試行錯誤をしたところで真のものにはかなわないのだと打ち据えられる。 だからサフィギシルはペシフィロの優しさを知るたびに苦しくて仕方がなかった。身体の内側をざわりと暗い感情が這いずり回るのを感じた。 こんな性分は異常なのだと考える。彼を嫌う人間を、サフィギシルは見たことがない。ジーナなどは言うまでもなく、あれほど考えの読めないハクトルですらペシフィロには素直に従う。近しいものも、街の住民も、そしてあのビジスでさえも。彼を憎く思うのはこの世で自分一人だけではないかと思うたび、サフィギシルは底知れない不安に襲われた。 (現に、今だって) 穏やかに眠る姿が憎らしくて仕方がないのだ。 これは嫉妬だ。どうしてもたどり着けない場所にいる彼への妬みだ。 サフィギシルは唇をきつく噛んだ。 ペシフィロは気持ちよさそうに眠っている。だらしなく伸びた顔はどこを見ても隙しかない。力なく投げ出された手のひらの指の先まで隙だらけだ。近づいても触れるまで目覚めないに違いない。きっと、何をしても。 冷めた視線が仰向けたペシフィロの喉をたどる。ああ、ここも隙しかない。一息に衝くだけですべてが終わってしまうのに、この人はどうしてこんなに無防備に眠るのだろう。ささやかな寝息が癪に障る。いっそ止めてしまおうか。そしたらきっと楽になる。彼を知るほとんどの人間は泣いてしまうだろうけど。彼女も彼もあの人もあの人もあの人も悲しみに暮れるだろう。 (……本当に?) 脳裏で一人の男が笑った。悲しみも怒りも見せない常に余裕を湛える老人。 もし殺してしまったら、あの人はどんな顔をするだろうか。 恐怖とも悦びともつかない悪寒が背筋を昇り首筋から脳へと渡る。ざわざわと広がるそれはまた全身に伝わって、指先まで震わせた。 (見たい) 思考を支配するのは純粋な衝動。 (今、ここで力を込めれば) ただ一息に首を絞めるだけで願いは叶う。乗り上げて体重をかけてしまえばこちらのものだ。もはやそれ以外の考えはなく、サフィギシルは手を伸ばす。ペシフィロは穏やかに眠っている。隙だらけで。今置かれた状況に気づくこともなく。喉を晒して。 (泣くかな) この人の死体を見て彼は何と言うだろう。 (それよりも怒るかな) 憎しみの目を向けるだろうか。絶望に打ちひしがれるなら是非とも目にしてみたい。 簡単なことだ。ただ力を加えるだけで。ほらもうこんなに近くなった。あと少し。あと少し……。 突然強い風が吹いて窓が音を立てて閉まり、サフィギシルは心臓ごと飛び跳ねた。開け放していたドアがさらに開いて余韻に揺れる。ペシフィロがくぐもった声を上げて寝返りを打つ。そのまま、ぼんやりとサフィギシルを見た。 「……あれ」 身体が痺れて動かなかった。氷を詰め込まれたようにサフィギシルの全身は気味悪く冷えている。ペシフィロは机に置かれた本を見て、恥ずかしそうに微笑んだ。 「ああ、返しにきたんですか。すみません、つい眠ってしまって」 どうしました? と問われるが言葉は根から失われて口を動かすことすらできない。 首を、横に振る。かすかなそれはすぐに強い否定となって、サフィギシルは力いっぱい首を振った。心配そうなペシフィロの目が恐ろしくて泣きたくて抜けかけた腰で走り出す。足は作り物にでもなったのだろうか、感覚が伝わらずに転がるように外に出た。 建物の壁にすがってへたりこむ。照らす陽は暖かいはずなのに体は冷えていくばかりで、誰かに揺すられているかのごとくに震えた。心臓はそれよりも速く駆けている。彼の首に触れかけた手のひらがざわざわと痺れていく。 (今、何を) もう少しで喉を掴むところだった。 (しようと、していた?) 罪の無い人間を戯れに殺すところだった。 (僕は、あんな) ただ可能だというだけで。 (あんな、ことで) あの人の動揺を見てみたいというだけで。 サフィギシルは崩れ落ちた。あのひととき、自分はどんな顔をしていただろう。表情筋は動かなかった。目は静かで見開きもせず、いつもと変わりのない形。笑いもなく、恐れもなく、まるで卵を割るかのように平然と人間を殺しかけて……。 (どうしよう) 足元は暗い闇に包まれて今にも引きずりこまれそうだ。もう、腰まで冷たい手が回っている。 (どうしよう……) サフィギシルは震えた。ただ愕然と怯え続けた。 “冷酷” |