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 階下からの生活音が薄暗い部屋をくすぐる。ペシフィロは眠りかけの耳で女将の声や、下宿人の足音を聴いていた。もう午後も近いというのに頭は冴えず身体は重い。まるでずぶ濡れのぬいぐるみにでもなったようで、寝返りすら息苦しさをともなった。考えるまでもなく、昨日散々ビジスにもてあそばれたのが原因だ。彼は相手が嫌がれば嫌がるほど喜んで扱いを酷くするのだから性質が悪い。だが今日は休日だ。生命線にしろと言わんばかりに与えられたのだから、素直に体を休めよう。
 そう考えてみたところで、すんなりと行くはずがないのがペシフィロの人生だった。
「ミドリー! ミドリ、ミドリーっ!」
 直球のあだ名を連呼して階段を駆け上がる足音。もはや錠をかける気力すらない戸を勢いよく跳ね開けて、ジーナが部屋に飛び込んだ。
「なに寝てんだ、起きろ! ほらっもうお昼だぞ!」
「すみません放っておいてください……」
「ほらほら起きる! いつまでも寝てちゃいけません!」
 掛け布団に隠れる体をゆっさゆっさと揺らされて、それでも我慢を続けているとジーナはヤアッと声を上げてペシフィロの上にまたがる。スカートをはいているのに裾の中など気にもせずに棒のような手と足で、布団男と化した彼を叩いては揺さぶって、弾んでは飛び乗って。容赦のない子どもの動きにペシフィロはとうとう音を上げた。
「わかった、わかったから! 起きる!」
「よーし、それでいいっ」
 イーハウ。と飽きるほどに聞いた現地語で誉められて、ペシフィロはしわくちゃの顔で彼女を見上げる。身体の肉付き以外はほとんど大人と変わりないので、女の子がそんな格好をしてはいけません、とか、見えてますよ、などと叱りたいが口を開く気力もない。ペシフィロははちきれんばかりの彼女の笑顔にげんなりと眉をしぼめた。
「お爺ちゃんみたいになってるぞ」
 ええそうですねどこぞのお爺ちゃんのおかげでね。と柄にもなく毒づきたいのは昨日のビジスがあまりに酷かったせいだ。一生あの人と付き合わなくてはいけないのか、これから何度あんな体験をさせられるのか、と考えると気絶してしまいたくなる。
 はああああ。と長い長い息と共に突っ伏すと、下りたジーナは急に不安な顔をした。
「どうしたの、具合悪い? 大丈夫? ごめんね?」
 心配そうに覗き込む黒い目が澄んでいるので罪悪感が胃を握る。大丈夫、と全然大丈夫はない声色で呟いて頭を撫でると、ジーナは嬉しそうに笑った。
「で、今日は何の用ですか」
 遊ぼうと言うのなら何があっても断ろうと身構えて尋ねると、ジーナは目を見開いて、そうだ、と窓に駆け寄った。閉ざしていたカーテンを破れんばかりに引き開ければ真昼の光が部屋を差す。ペシフィロは眩しさに目を細めた。それをこじ開けるようにジーナが彼の手を取って、窓際へと連れて行く。ぐいと頭を押し出して、指差したのは空の上。
「見ろ!」
 澄んだ天に色の橋が掛かっていた。今にも溶けていきそうな、繊細な光の帯。
 ジーナは身を乗り出して、力いっぱい指を振った。
「ほら、虹っ!」
 半円の輪は建物を越えた上空で、淡く、それでも確かな芯を持って佇んでいる。あらゆる色を並べて凝縮したような、細いけれど深い筋。ペシフィロは子どもの頃からいつもそうしているように、色と色との境界線を探してみるが、どれだけきつく見つめても回答は得られなかった。
「……すごいですね」
「うん。すごくきれい。見なきゃ損だっただろ?」
 誇らしげに笑うジーナはわざわざそれを伝えるために、近くはない自宅から急いで走ってきたのだろう。ペシフィロは改めて彼女の格好を見て吹き出した。
「どうしたの?」
「靴」
 右と左で違うものを履いている。ジーナは「あーっ!」と途端に顔を赤くした。
「だって、早くしないと消えちゃうから……っ」
「うん。ありがとう」
 微笑むと、ジーナはむぅと口を結ぶ。染まる耳を隠すように、腕を組んで胸を張った。
「親分には敬語を使う!」
「アリガトウゴザイマス」
 頭を下げると、小さくて騒がしい親分は跳ねるようにして窓枠に飛びついた。彼女の動きは唐突で、大振りで、いつも力いっぱいだ。笑うたびに頬は弾けて飛びそうになる。泣くたびに顔面が崩れてかき混ぜられそうになる。子どもらしいそれを見ていると、ペシフィロは自分が年寄りになった気がして奇妙な疲れを肩に感じた。
 だが、それでも彼女が傍にいると、自然と笑顔になってしまう。
「ねー、虹ってほんとに七色あるの?」
 ジーナは窓枠にもたれかかるとぱたぱたと足を揺らす。ペシフィロは彼女の隣に座り込む。
「七つですか? うちの故郷では十色と言われてましたが」
「えっなんで!? でも、いちにいさんしい……だめだわかんない」
「そうなんですよねえ。いつか数えたいと思っているんですが」
 二人は揃って虹に目を凝らしてみるが、光の色は滲みながら混ざるばかり。
「ビジスなら知っているかもしれませんよ」
「うーん。でも自分で数えたいんだ。ビジスはすぐに答えるからつまんない」
「ですよねえ。考えて考えて謎を解くから楽しいのに、あの人は呆気なく言ってしまうから」
 意見の一致に顔を見合わせて笑う。やけに楽しい気持ちになって、また二人で虹を見る。
「ビジスはだめだなー」
「だめですよねえ」
 この前も、あの時も、と老人に言いたいことは次々と口をつき、その度に二人で笑う。身体の疲労が浮き立つ気持ちに詰め替えられていくのを感じて、ペシフィロは何となくジーナの丸い頭を撫でた。そのまま同じ目で虹を見ながら、くだらない話を続けた。


“元気”


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