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 綺麗ね。と母は言った。
 いつものように娘の頬を優しく包み、その緑の瞳を見つめる。透き通る湖を覗き込むように。どこまでも続く水の深さを調べでもするかのように、母は娘の特異な色を確かめた。外の世界を知らないピィスはその言葉を素直に受ける。幼子らしい無邪気な顔で笑いかけると、母もまた同じ顔立ちで微笑んだ。
 あなたの色は、とても綺麗。
 その言葉はまるで瞳に話しかけているようで、ピィスはそんな時どこを見ているべきなのか分からなくなってしまう。母が見つめているのはこの場所ではなく、もっと遠いどこかのように思えるのだ。ピィスは母の持つ鳶色を見た。母娘とも同じ形をしているのに、色だけが違う瞳を。
 本当に、綺麗よ。
 母の目が泣きそうに歪む。愛しげな笑顔に落ちた不安な粒。水面に起きた波紋のように微笑みは揺らされて広がって、今にも涙がこぼれそうな危うい色へと変わっていく。土に触れたこともない清潔な手が娘の赤い髪を梳き、こめかみに触れ、縋るように頬を撫でた。
 おかあさん?
 ピィスはいつも、彼女がどうして泣きそうなのか分からなくて、わずかに寄せられた母の眉や、震える睫毛をじっと見つめる。微笑みを湛えていたくちびるが一息に結ばれると、嗚咽のような息を吐いて、母は彼女を抱き寄せる。愛しているわ。と囁くのでピィスもまた同じ言葉を繰り返すと母はとうとう泣き出して、小さな娘を苦しいほどに抱きしめた。



 母を思い出そうとすると、ピィスの頭にはまずその顔が浮かび上がる。今もまた泣きそうな母の顔を記憶から引きずり出してすぐ傍に置きながら、鏡の中の自分を見つめた。洗面台に向かうのは、あの頃の母よりもずっと幼い少女でしかない。だが誰が見比べても母子だと証明できるほど、顔立ちには面影が貼り付いている。
 ただひとつ、瞳の色を除いては。ピィスは鏡の中の緑を見つめて、ぱん、と平手で顔を叩いた。
 瓶を開け、洗いたての清潔な肌に化粧を塗りこんでいく。想定するのは肖像画に描かれた正装の母の顔。ほのかに色を湛えたそれに少しでも近づけるように、筆を動かす。
 女らしいことをするのは好きだった。だがその度に、必ず母を思い出す。あの愛しく緩む甘い視線を。喉に痛みを抱えたような、揺れていく微笑みを。
 一通りの行程を終えたところで服を替え、髪型を整える。耳飾りをつけて香水を振りかけると知らずうちに胸が弾んだ。女らしさのかけらもない部屋の中で異彩を放つ宝石箱を物色する。ずっと緩いままだった指輪もようやく合うようになった。腕輪をつけながら昔との違いに笑う。肉を削ぎ落として骨だけにしたようだったのに、今となっては健康的な丸みを持つ。アーレルに来てどれだけ楽になったのかあからさまに現れていて、これを見せたら祖母はどんな顔をするだろうか、と想像してまた笑う。
 部屋を変えて、全身を映す鏡を見る。しつけられた通りしゃんと背を伸ばして立つのは小さいけれど間違いのない女の子で、いつもの彼女とはまるで別の人間だ。成功、と口の中で呟いて、思わずにやりと笑った後でこれは違うと慌てて直す。やわらかく微笑むと、肖像画の母と同じような顔になった。これでいい。
 宮殿に向かうような足取りで階段を下りる。古びたそこは父が掃除をしてはいるが輝くにはあまりに古く、一歩足を乗せるごとにやたらと軋んだ音がする。だがそれでも背を張って、あごを上げて下を見ないようにして父の待つ居間へ行く。
 黒い影が扉を開けて、ピィスはいっそう微笑みを強くした。
「できたよ」
 振り向いたペシフィロが息を呑むので、声を立てて笑いたくなる。だが固まった彼の顔を見て、微笑みがすうと消えた。夢を見ているかのようなぼんやりと浮つく表情。見開いた目が見つめるのは晴れ姿の娘ではなく。
「おとうさん」
 わざと、幼い声で言うとペシフィロは水をかけられたようにハッとして、詰めていた息を吐いた。ああ、と驚きとも失望とも取れる声を出す。感情の行き場がないようでうろたえて余所を見つめた後で、ようやく、娘へと視線を戻す。
 だがその緑色の瞳は愛しさに甘く緩み、顔つきはわずかだが痛ましく歪んでいる。
 あの時の母と同じ顔だ。彼もまた、見つめるのは娘ではなくその奥に佇む相手。
 こんな時ピィスはいつもどうしていいか分からなくなる。色々と話し掛けられているのは確かに自分のはずなのに、今本当に彼と話をするべきなのは別の人のような気がして落ち着かない。
 だから、少しだけ、母の気持ちになってみる。
「……どう?」
 ねえあなた、と心の中で呼びかける。ペシフィロは嬉しそうに笑う。
「うん。綺麗だ」
 父はふいに言葉遣いを変えてくるのでずるいと思う。ピィスはなんだか彼の顔を見ていられなくてうつむいた。そろりと視線を戻せばペシフィロは何も気づいてなくて、ただにこにこと笑っているのでコノヤロウと言いたいがこの格好ではままならない。ピィスは代わりに息をついて、じゃあ行こう、と呟いた。
 ペシフィロが手を差し出す。淑女の気持ちでそれに従う。触れ合う肌がいつもより熱いのはなぜだろう。むずがゆくて心臓がうるさくて、全力で駆け出したくなるのを押さえてはしずしずと歩いていく。見上げれば見返してくる父の瞳は全く同じ緑色で、母の顔を思い出してはピィスは泣きたい気持ちを堪えた。自分の顔が、波紋のように揺らいでいくのを静かに感じた。


“切ない”


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