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 ぱん、と目の前で手を叩くとカリアラはびくりと怯える。両眼を丸く見開いた元ピラニアは一体何が起こったのか理解できていないようで、きょときょとと唐突な衝撃の原因を探っていた。にんまりと笑うサフィギシルを見て不可解に首をかしげる。だが向かい合う彼が音の原因とはまだ気づいていないようだ。
 サフィギシルの目にいたずらめいた色が浮かび、ぱん、ともう一度手を叩くとカリアラはびくりと素早く後に退く。まるで水槽を小突かれた魚のような動きが楽しくて、サフィギシルは赤子のような笑みを見せると傍にあった濡れ布巾を手に取った。
 カリアラは鋭敏な感覚を持つが認知がそれに追いつかず、いつもこうして生活に疲れたサフィギシルの手ごろな遊び道具にされる。普段はシラかピィスが止めに入るのだが、今は近くにいないはずだ。これでは無邪気だけれど残酷な幼児の傍に、アリの行列とコップ一杯の水を用意したようなもの。もしくは水揚げされた小魚と鋭い石を並べて置いたことに等しい。サフィギシルは普段他の者が見たことのないほど楽しげな顔をして、まだ音の原因を探しているカリアラの顔面に濡れ布巾を叩きつけた。
 カリアラは痙攣と震動と衝撃をひとまとめにした次の瞬間後ろへと飛びすさる。だが勢いあまって壁に頭を打ち付けて、さらにキョトキョトと混乱して首を振ったところで顔面を覆う布巾が外れるわけもない。カリアラはどうして突然真っ暗になったのか、なんで冷たくて臭いのだろう、どうして顔が重いのだろうと全身を疑問でいっぱいにして魚のようにびちびちと跳ね始める。サフィギシルがその腹を踏みつけると、カリアラはびくりと一度震えた後で死体のように静止した。顔にかかる布巾を取れば限界まで目と口を見開いている。あまりに間抜けなそれを見て、サフィギシルはとうとう声を上げて笑い出した。
「なんだ!? なんで笑ってんだ!?」
 ここまでやっても理解できない彼に向かって、ばーかばーかと繰り返す。それでもカリアラは困惑気味に首をかしげて顔面をこするばかり。いつだって同じことだ。サフィギシルが何をしてもカリアラは怒らない。腹を立てるのも叱るのもシラの仕事だ。カリアラは、どんなに悪いことをしても……。
 サフィギシルはもう一度カリアラの目の前で手を叩く。カリアラはびくりと震え、その後で。

 サフィギシルの肩を掴んだ。

 濡れているかのように重く冷えた手のひら。カリアラはサフィギシルを静かに見つめる。わずかな揺らぎも見られない水を張ったような表情。カリアラは感情の見えない真顔で低く告げる。
「大人しくしてるからって、いつまでも黙ってると思うなよ」
 ぞくりと胃の腑を掴まれたような気分でサフィギシルは息を呑んだ。




「サフィー。サフィー、朝だ。起きろー」
 ひんやりとした手を肩に感じて、サフィギシルは飛び上がる勢いでのけぞった。がばりといういかにもな音を立てて掛け布団が舞い上がる。白く広がるそれを見て、サフィギシルは自分の置かれた状況に気がついた。朝だ。自分の部屋のベッドの上だ。
 ということは、あれは夢だったのだろうか。だが動悸は夢の中より激しくて呼吸すら苦しめている。サフィギシルは幻覚を祓うように肩を叩いた。あれは夢だ。だがそれにしては肩を掴まれた感覚が生々しいのはなぜだろう。ああそうかカリアラが起こしにきて、本当にここを掴んで……。
 ようやく思い至ったところで魚の同居人を見やると、彼は唐突なサフィギシルの行動に驚いて飛びすさって壁に頭をぶつけたようで、くらりくらりと首を回しているところである。サフィギシルはいつもと変わらぬ光景に、肺の息を一気に出した。こわばっていた肩肘がゆるゆるとほぐれていく。大丈夫、カリアラはいつも通りだ。第一いくら苛立っている時でも、あそこまで執拗に彼を苛めたことなんて。
「…………」
 絶対ないとは言いきれないことに気づいて、サフィギシルは怯えと不審の混じる目でカリアラを見た。
「なんだ? どうしたんだ?」
 頭の悪い元ピラニアは、投げつけられたシーツをくるくると巻き取って“彼なりに”たたんだ姿勢できょとんとしてサフィギシルを見返す。つい逸らしたくなるほどにまっすぐな目は相変わらず透明で、不純なものなど見つからない。サフィギシルは大きな大きな息をついた。
「……お前はいつまでもそのままでいてくれよ……」
「うん。それ、シラにも言われる」
 まあそれはそうだろうな、と聞かせるでもなく呟いて、サフィギシルは床に下りる。不器用にまとめられたシーツを取りあげて、へたりこんでいたカリアラの腕を掴んで立ち上がらせた。
「……朝飯、何か食いたいものあるか?」
 なんでもいいから言ってみろ。そう告げるとカリアラは珍しく優しい言葉に驚いて、だがすぐにその後で「魚!」と元気に答える。「生がいい」と定番の注釈をつけるのも忘れない。わかったよと了承するとカリアラはますます驚き、これから世界が終わるのではないだろうかという顔でサフィギシルを見回した。
 サフィギシルは台所へと向かいながら、せめて今日だけでもカリアラで遊ぶのをやめようと誓う。
 だが昼ごろにはまた再開しているだろうな、とも頭の隅で考えていた。


“怒り”


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