目次 / →怒り


「何が聴こえる?」
 ねとりとした声が熱い耳をくすぐった。億劫に目を開ければ陽に灼かれてまた閉じる。顔を背ける余力もなく、ペシフィロはのろのろと手のひらで顔を覆った。隣にいるはずのビジスに、返事をする。
「なんの、はなし、で、すか」
 ふつふつと湧き起こる声は相変わらず楽しそうで、状況をかえりみれば怒るべきことであろうにどうでもよく感じてしまう。ペシフィロは一度は顔に上げた手を戻すことができなくて、そのままに目を閉じた。訪れるのはあくまでも仮の闇で、安らぎなど望めない。逃れきれない真昼の光がどこまでも追って眼球を灼く。口の中には砂が広がり身体は熱に侵されて、どこまでが自分自身の肌なのかすら曖昧になっている。もうしばらく見ていないが周囲には草木のない不毛の地が広がっているはずだった。わざわざ、ビジスが選び抜いた場所だ。これからどれだけこうしていても、他に人は来ないだろう。
 ビジスが、戯れに戦いを要求するのは珍しくないことだった。平和な時が長く続くとこの好戦的な老人は、いつもペシフィロに一対一の真剣勝負を叩き付ける。初めは冗談だとばかり考えていたそれが笑いどころか余裕を挟む隙もない、本当の殺し合いだと知ったのは一年ほど前だろうか。血まみれのまま意識を失い病院で目覚めた瞬間、ビジスから逃れようと逃亡の準備を始めたのも今となっては懐かしい。ペシフィロは息を吸ってみた。胸が腹が山形に膨れて沈む。聞こえるのは、わざとらしいまでの呼吸音。
 何が聴こえる、とは不思議なことを訊くものだ。ペシフィロは今さらながらにビジスの言葉を噛み砕く。こんな風も吹かない場所で、草も生えない乾いた土に転がって何を聴くというのだろう。
「わしはな、歌が聴こえるのだよ」
 回答は笑いに揺れて落ちてきた。予想外に近い距離に驚くが、瞼を開く気にはなれない。
「それもなァ、賛美歌だ。ヴィレツィイヤの第五十七章。戦っているとな、そればかりが延々と耳の中を駆けていく。百人の合唱が脳髄から湧き上がる。指先まで全て歌に満たされて、全身が震えるのだよ。それがどれだけ心地良いか、解るか」
 いいえと即座に答えるには彼の言葉は魅力的で、ペシフィロを支配していた。歌の少ない宗教を信仰してきた彼にとってその賛美歌がどのようなものなのか正確には分からなかったが、いつか旅先で耳にしたどこの宗派とも知れない厳かな音色を膨らませて耳の奥へと浸している。
 背中から持ち上げられるようにして、ペシフィロはふわりと浮かんだ。
 ビジスが歌っている。それと気づかないほどなめらかに、飽和していく意識を捕らえて高くへと連れていく。ペシフィロは言語すら特定できない歌声を目の裏にまで詰め込んで、飲み干した。高音が響く度に意識が吸い上げられていく。低音へと落ちる度に上から押さえつけられる。
 ふつ、と神経を閉ざされる気配がして全身は重く沈んだ。途端に熱が体を灼く。肺が押しつぶされるようで、まともな呼吸もままならない。
 ああ、歌を聴いていたのか。突き放されてようやく気づいた。彼の歌を聴いていたのだ。
「うた」
 胸の奥から無理やりに言葉を押し出す。
「今のうた、どんな意味、なんですか」
「人を焼き、悪行の限りを尽くした罪人に神の裁きが下る筋だ」
 彼は高らかな声を上げる。
「咎人に罪を咎人に罪を。ただそればかりが駆け抜ける。咎人はいつか裁かれる。犯した罪の酬いを受けて、苦しみながら朽ちていく。その時、神の添え人は口を揃えて歌うのさ。咎人に罪を咎人に罪を」
 伸びていく歌声は熱の中に紛れて消えて、残されたのは笑い声。ビジスは楽しげに喉を鳴らした。
「歓びの歌だ。お前と戦っている時にだけ、聴くことができるのだよ」
 彼はおのれの破滅にしか幸福を見出せない。
 そして今、彼をそちらに導くことができるのは、ただペシフィロ一人だけ。
 それを思うと口は勝手にずるいと呟く。彼の言葉は行動はいつも悔しいほどに、巧い。
 こうしてまた逃れがちな親友を、お前だけだと引き止めて特別席に据え付けるのだ。
 ペシフィロはもう一度ずるいと呟く。聞きとめたビジスが笑う。
「なァ。まだか」
「もうすぐですよ」
 剣を持つ。頬が上がる。
 胸のうちを満たすのは間違いのない幸福感。
 虚言だと自覚していても頭のどこかで本当になればいいと考えていることに驚く。
 斬りつければ彼は笑う。さァ来いと呼びかける。独り立つ彼はまだ目も眩むほどに遠いが届かないのは未熟さゆえだ。磨いて行けば、いつか、きっと。
 ペシフィロは悲鳴を上げる身体を無理に立ち上がらせる。
 もしかすると自分はこの後彼に殺されるのかもしれない。
 悔やまないはずがない。もしそうなれば泣きながら命を乞うて縋りつき、それでも受け入れられずに彼は冷たく嗤いながら斬るだろう。お前もか、と失望を形の良い口に乗せて一息に貫いて、その後はただの汚物と見下したまま未練もなく捨ててしまう。
 馬鹿なことをしている。本当に、不毛な遊びだ。
 剣を握る。口が笑みを形取る。
 胸のうちを満たすのは、それでも間違いなく純粋な。
 遠い場所でビジスが笑う。
「おいで」
「はい」
 砂の混じる熱い空気が口を渇かしていく。流れ込むのは走り出したくなるほどの昂揚感。
 ペシフィロは剣を構えてビジスへと向かっていった。

 耳の奥を歌が駆け抜けてゆく。


“幸せ”


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