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 それは風の強い夜のことで、家の中はしのび寄る嵐の気配に重く静まっていた。
 幼い頭でいつもと違うと感じたのは、真夜中だというのに母に呼び出されたこと、彼女の声が細く消え入りそうなこと、ここしばらくは寂しげだった微笑みが落ち着いた色を取り戻していることなどだった。だが一番の異変は、見知らぬ生き物がベッドの脇に佇んでいることだ。
 黒く、ぐにゃりと歪んだ泥のような身体。母の傍に立つそれは、目を凝らせば人の形をしていた。ピィスはそれが何なのか分からなくて、恐ろしさに凍りつく。体中の肌という肌が硬化したようだった。
 黒い生き物は母に請われて頭に被る布を外す。ほのかな明かりに晒されたのはひどく白い肌と、今まで見たこともない顔つき、そして短く刈られた黒髪だった。そんな人間は初めて見る。怖れるピィスの目の前で母は彼に何事かを囁いて、そっとその頭を撫でた。
 それがある種の儀式であったと気づくのはまだ先のこと。わからないピィスが見つめる先で、黒髪の人は、ほろほろと涙をこぼした。顔をゆがめることもせず、ただ川の水が流れるように、赤らんだ目のふちからいくつもの水を落とした。
 頼んだわ。そう言って母は微笑う。黒髪の人は頷かなかった。
 母はピィスを引き寄せて、いくつもの話をした。今よりももっと幼かったころのことからつい昨日のことまでも。そして最後には同じ言葉を繰り返すようになった。
 ――あなたは、おとうさんのところにいくのよ。
 囁けば真実になるとでも言うかのように、何度も、何度も、震える声で絞り出す。
 最期のひと時まで、母はそれを繰り返した。

 彼女が目を閉じた後、黒髪の人はそっとピィスの手を取った。ああ連れられていくのだ。そう考えて、おとうさんのところに行くのと尋ねると、触れ合う手はぴくりと揺れる。随分と湿っていたのは汗をかいていたからに違いない。黒い人、かつてピィスが架空の犬と思い込んでいたななと呼ばれる生き物は、かすかに口を動かした。
 それは風の強い日のことで、彼の声はあまりにも小さかったから、彼女は何を言われたのか耳にすることができなかった。ななは手を引いていく。止まることが恐ろしいとでも言うかのように。幼いピィスはただそれに連れられる。彼が何を決意しているのかも分からないまま、ふたりは外の世界へ向かった。




 窓の外は吹く雪にまみれてまだら色になっていた。ピィスは細く覗いたカーテンを、慎重にまた閉じる。あまり長い時間開いていると彼が弱ってしまうから。ため息をつくことも知らない彼女はうす暗い部屋に戻り、大きな独り言を吐く。
「おなかがすいたよ」
 部屋の隅で白いものがぴくりと揺れた。ピィスはそちらを見ないように、廃墟のような色をした天井に声をかける。
「ねえ、なにが食べたい?」
 答えはない。ひやりとした安宿の一室が、さらに冷めたような気がした。静けさはまるで雪の中にいるようで、ピィスは震えてしまわないように明るい春の歌を歌う。目の端には揺れる白色。
「そっちに行ってもいい?」
 きっと隣で歌ったほうがいい気分になるはずだから。提案しても答えはない。ピィスは泣きたい気もちをこらえて膝を抱いた。寒いのに汗ばむそこは随分と震えていて、治まれと念じながら、決心して壁の隅に目をやった。
「ねえ、なな」
 彼はうすぼけた色のシーツを被り、部屋の隅に縮まっている。顔は見えない。今までのような黒布のかわりにシーツで全身を覆い隠し、かたかたと、音を立てて震えている。
 長く暮らした家を出てもうひと月は経つだろうか。彼ははじめ服を捨てた。全身を隠していた闇色の衣装を脱いで、誰もが着る平凡な服に着替えた。そうして陽の光の下で暮らそうと考えていたはずだ。事実、ピィスはそう告げられていたのだから。
 影として生きるのをやめることにした。彼はそう言った。
 だがその決意が保たれたのは、ほんの短い間でしかなかった。
「……なな。あそぼう」
 大きな布の塊と化した彼は、部屋の隅から動かない。呼びかけられてもますます大きく震えるばかり。今の彼がどんなに臆病な生き物なのか、彼女は身をもって知っていた。廊下を歩く足音にも反応する。風の音も街の音も、部屋に届くすべての気配は彼の敵。日を追うごとに彼は弱り、動かなくなっていく。
「ななぁ……」
 申し訳ございません、と消え入る声。ななは壊れた玩具のようにそればかりを繰り返した。申し訳ございません。申し訳ございません。申し訳ございません…………。
 使影という生き物は、主人の命令に従うよう徹底的に教育されている。それは意志とは関わりなく心の深くに刻まれていて、命令にそむくほどに彼らは精神を切り裂かれ、思考力を失って、最終的には無惨なまでに壊された。今のななもまた、逆らうことのできないおぞましさに爪先から脳の奥まで深く蝕まれている。
 ピィスはそんなことなど知らない。だが彼がひどく追いつめられていることと、怯えていること、そして母の命令に逆らっていることだけは理解していた。ななは父のところに連れて行こうとしてくれない。ただ離れるのが嫌だと告げて、渡したくないと言って、この世のすべてのものから逃げるように頼りなくさまよっている。あてのない我侭に振り回されて、ピィスは疲れきっていた。明日、どうなるのかもわからない。縋るべき唯一の大人は部屋の隅でシーツを被る。
「なな……」
 申し訳ございません、と言って彼は震える。泣いているのだろうか、だが布越しにはどんな顔をしているのか確かめることはできなかった。申し訳ございません。彼はまた繰り返す。きっと歪むその声と同じ顔をしているに違いない。ピィスはうつろに彼を見つめた。そうしているととてつもなく泣きたい気分になったけれど、彼がまた怯えるので、大きく深呼吸をした。


“恐怖”


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