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 扉を開けると、ビジスがいた。
 ペシフィロはすぐに閉じようとするが、年老いた長い指が扉を掴んで離さない。相当の力を込めて引いても粗末な扉はびくともせず、ただビジスの意志でのみ動く忠実な僕となったようだ。全体重をかけて取りつくペシフィロを笑うかのように、ビジスは悠々とその扉を開けてみせた。
 ペシフィロはへたりこむ。ああ、入れてはいけない人を入れてしまった。
 打ちひしがれる彼に構わず、ビジスはその白い部屋を見回して、いとも楽しそうに笑った。
「いい夢じゃないか。お前らしくもない」
「いい夢なんですよ。あなたさえいなければ」
 手をついた床も、見上げたビジスの背景も、白一色。単純で飾り気のない、これ以上なくいい夢だ。それなのにどうしてこの男がやってくるのだろう。ペシフィロは、自分の夢の中でうなだれた。
「寝ているときぐらい、遊ばないでくださいよ……」
 私で。僕で。彼と対峙したときの一人称は時々に変わるが、どちらも同じペシフィロだ。
 同じように息をして、同じように食事をし、同じようにビジス・ガートンに遊ばれる。
 目下、悪夢の原因となった男は純白のソファを作り、我が物顔で腰掛ける。
「白いなァ、どれも白い。目が痛くならないか」
「いいじゃないですか、どんな部屋でも。どうせ夢なんですから」
 睡眠の中で見る景色にまで口を挟まれるいわれはない。これは、上等の夢なのだ。悪い夢は恐ろしい。良い夢は目覚めが虚しい。過剰な空想は疲れてしまうし、あまりにも日常的な光景では、現実との区別がつかなくなってしまう。だから、何もないのが一番なのだ。
 それなのに、どうしてビジスが現れるのだろう。心穏やかに眠っていたいのに。
「もう、十日は過ぎただろう」
 ビジスはペシフィロの疑問を見越したかのように言う。
「お前がいないと退屈でなァ。久しぶりに顔を見たくなったんだ」
「十日ですよ。たった十日。遠征はひと月続くんでしょう」
 さる国の王位継承の儀に呼ばれ、何人かの共を連れて出かけたのが十日前。いつもならペシフィロも付いていくところだが、この度ビジスを呼んだ国は魔術師を嫌っていた。見るからに魔力の塊である変色者がそばにいるわけにはいかない。公式に呼ばれていく行事で、ビジスがペシフィロを伴わないのは初めてのことだった。
「着いて早々、豪勢なもてなしでなァ。お前にも食わせてやりたかったよ」
「顔面に投げつけたいの間違いじゃありませんか」
 いつの間にかビジスはこんがりと焼けた鶏の足を食べている。白いソファの周りには、丸焼きにされた鶏が何皿も並んでいた。それらを見下ろすビジスの目つきは、からかいに緩んでいる。
「なるほど、これがお前の“ご馳走”か」
「……想像力に乏しくてすみませんね」
 宴で出された本当のもてなしは、こんなものではないのだろう。ペシフィロには夢にも描くことができない。
 ビジスは骨に染み付いた味まできれいに舐め取ると、鶏の足を放り投げた。
「今回は山を越えて行ったんだが、途中の崖から見た景色が見事でなァ。お前がいたらと心底悔やんだよ。今度は一緒に見に行こう」
「……なんであなたと一緒に絶景を見なきゃならないんですか」
 ビジスは当然の顔で答える。
「あんなにも高く切り立った崖に、お前を吊るさないでどうする。さて腰を縛るか、それとも足からさかさまにするか……」
「嫌ですよー! 高いところを見つける度に吊るすのはやめてください!」
 城の屋根から吊り下げられ、海辺の貨物用倉庫から吊り下げられ、時計塔から吊り下げられる。
 いい加減慣れてはきたが、嫌なことに変わりはない。
「もう、静かに寝かせてくださいよ。せっかくあなたと離れているのに、どうして夢に出てくるんですか」
「呼び寄せたのはお前だろう? そもそも、これはお前が見ている夢じゃないか」
 ペシフィロは顔を上げる。ビジスはゆったりとソファに体を沈めていた。
「今ここにいるわしも、お前が作り上げた夢だ。お前の中にあるわしの印象が、現実を真似ているだけに過ぎない。それなのにどうしてわしのせいにできる? 全てはお前の意識なのに」
 堂々と振舞う姿はまるで王のようで、ソファの背は白いままみるみると伸びていく。硬く引き締まったそれは玉座だ。気がつけばペシフィロは白いけれど赤く見える、錯覚の絨毯に膝をついていた。
 その頭に王冠を載せたビジスは、古典的に装飾された杖をペシフィロに向ける。
「全てはお前が望んだことだ。わしに逢いに来て欲しい。顔を見たくなったと言って欲しい。……そうだろう?」
「違う!」
 立ち上がるペシフィロの服は汚く擦り切れている。王は哀れな乞食を前に、慈悲の言葉を与えていく。
「恥じることはない。いいじゃないか、もう十日だ。逢いたくなって何が悪い。逢いたいと、言って欲しくて何が悪い?」
「違う、違う! 想ってなんか……」
 果たして言い切れるだろうか。遠征に置いていかれるとわかったとき、つまらなく思わなかったか。ビジスの一行が出発した日、そしてそれから十日の間、一度たりとも寂しさを感じなかったと言えるだろうか。睨む目から力が抜ける。頬が熱くなっていく。
「……何が目的ですか」
「言っている意味がわからないな」
「どうせまたからかってるんだ。言えばいいんでしょう、逢いたかったって。あなたを求めていたと言わせたいんだ。いつだってそうだ。あなたはそうして服従させる……」
「わしは求めた覚えなどないが? お前が自ら望んでわしに跪いているだけだろう」
「させたのはあなただ」
「責任転嫁だな、ペシフィロ」
 ビジスは笑っている。顔を上げなくてもよくわかる。いつだって彼はそうして挑発的に見下ろしてくるのだ。屈辱に耐えて震えるペシフィロを見て愉しんでいる。まるで無力な虫を靴先でもてあそぶかのように。
「夢の中でまで、こんな遊びはたくさんです。出て行ってください」
「入れたのはお前だろう。お前が動いてくれないとなァ」
 部屋が一瞬にして赤く染まる。すぐに白景に戻ったが、心のうちは煮えたぎるままだった。
「じゃあ私が出て行きます! 僕の夢だ、僕の好きにしてみせる」
 言葉はいつしか母国語に変わっていく。嘘偽りのない生の言葉が体を動かす。
 ペシフィロは床を引き上げて階段を作り、踏み鳴らして上がっていく。どこまでもどこまでも昇り詰めればビジスの気配も消えるだろうか。天井は既に無く、向かう先には星空が見えている。吸い込まれるような闇と、小さな点と化した光。
 いけないと心が騒ぐ。そちらは駄目だ、それでは逃げる意味がない。
「ペシフィロ」
 ビジスの声。振り向けば階段は白く小高い山と化し、木々が枝を伸ばしていた。純白の木立の奥で、ビジスは狩人の姿をしている。彼は弓に金色の矢をつがえると、ペシフィロに焦点を向け……いつも通りの笑みを浮かべた。
「おやすみ、坊や」


 息を呑んでペシフィロは飛び起きる。まるで全力疾走したかのように心臓が駆けていた。荒い呼吸もそのままに、慌てて胸を確認する。矢は、刺さっていない。あれは夢だったのだ。
 そう、夢だ。部屋に朝が訪れているのを見て、ペシフィロは息をつく。あまりにも生々しい夢だった。まるで現実にあったかのような。まだぼんやりとしたまま体を探る。矢は、どこに刺さっただろう。痛みは感じなかったが、ビジスなら確実に仕留めたはずだ。
 違う。夢だ。あれは全て夢の中。傷を負ったわけではないし、痛みもない。ただ心が騒ぐだけ。
 だが、現れたビジスも完全に夢の産物なのだろうか。あの男には、他人の夢に潜り込むのも容易いことなのかもしれない。ペシフィロは魔術と夢に関する本を取った。タイトルはそのまま『他者の夢に侵入する方法』だ。白い表紙のそれをめくって捜してみるが、どういうわけだろうか、見たこともない言語で記されていて、まるで読めない。
「つまらないなァ。本なんかに頼るとは」
 耳元で低く囁く声。取り落とした本は、白い床と同化した。
「書物の知識は嘘ばかりだ。わしは嘘を読むのが好きだが、お前にはもっと必要なものがあるだろう?」
 ああ、悪い夢を見ている。狩人だった男は、今度は司書の制服を着込んでいた。
 ビジスは白い空間に立っている。ペシフィロと対峙して。
「お前は答えを知っているはずだろう? 目を背けるのは時間の無駄だ」
「何の答えですか。どんな疑問ですか。要りませんよ、あなたがいなければそれでいい」
「そう食いつくな……じっくりと愉しませてくれてもいいだろう」
「いつまでこんなことを続けるつもりですか。嫌です、目覚めます」
 果たして朝は来るのだろうか。永遠に閉じ込められたまま、夢を繰り返すのかもしれない。それは絶望でしかない。もしくは死と同じことだ。
「あなたなんか見たくもない。早くいなくなってください!」
「逃げたところで解決などないというのになァ。わめくだけなら子にもできる」
「意味がわかりません。何の話をしてるんですか」
「お前の望みはなんだ。わしに逢うことか。いいや、それでは答えに足りない。さて考えてみよう、お前は何を求めている? ……何を、恐れている?」
 耳を裂く悲鳴が聞こえる。地の底から噴出すようなそれは断末魔だ。気がつけばペシフィロの体は血に染まっていた。火薬の爆ぜる音がする。住居からは火が上がり、幼い悲鳴が熱波に呑まれて消えていく。じりじりと肌を焼くのは炎だろうか。それとも己が身をも滅ぼそうとする忌々しい力だろうか。
 死んでいく人々を背に彼は問う。
「見たくないものは何だ。隠したいことは何だ。わしは蓋であり避雷針だ。わかっているだろう?」
 ペシフィロは今や完全に理解していた。何故ビジスを呼んだのか。どうして彼ばかり出てくるのか。
 本当に見たくないものは、他にあるのだ。
 ペシフィロの気を紛らわすためにビジスは遊ぶ。からかって意識を逸らしてくれる。
「あなたは」
 言葉が止まる。それ以上、口にする必要はない。
 部屋はまた、ビジスの触れる箇所から順に白く清められていた。ビジスは炎や熱をひとつずつ背後に押し込めていく。まるで悪夢を食べる獏だ。そういえばどこか動物的な口元は、優しい笑みを湛えている。
「さて、そろそろ朝が来る。わしの仕事はこれで終わりだ」
 ぽっかりと開いた窓からは、眩しい光が差していた。目を細めた景色に影が落ちる。ビジスが大きな手を伸ばし、そっと頭を撫でてくれた。
 まるで、母がしてくれていたように。
 誰だかわからない声が、優しく意識を包み込んだ。
「おやすみ、坊や」



 本当の、朝だった。ペシフィロはまだ信じられない思いで頬をつねる。頭を叩いてもみる。だがどちらも確かに痛かったし、開いてみた窓からは、覚醒せずにはいられないほど冷たい風が吹き込んだ。もう、すっかりと冬なのだ。
 この季節になると、戦場を思い出す。冷え込む夜に小さくなって眠っていると、必ず悪い夢を見るのだ。やまない悲鳴。鉄越しに伝わる振動。目を逸らしても隠しきれない、血の臭いと熱い触感。
 取り返しのつかない過去の景色を、何度繰り返しただろう。ペシフィロはその度に眠るのが恐くなった。特に、今は、ビジスが留守にしている。眠るのが辛いからといって、一晩中気晴らしに付き合ってくれる者はいないのだ。
 ……いないと、思っていた。
 ペシフィロは頭を抱える。あれは果たしてペシフィロの見た夢だったのだろうか。それとも、遠く離れたビジスがわざわざ手を施してくれたのか。わからない。だがとにかく、今夜からは過去の夢を見るおそれはなさそうだ。
「……毎晩ビジスってのも、どうかと……」
 うんざりとしてしまうが、戦場よりはずっといい。どうせ夢なら、普段は呑めない酒でも集めて夜通し遊びにふけようか。それはそれで楽しそうで、ペシフィロは頬をほころばせて、朝の支度をし始めた。



 さて、ひと月の遠征を終えてビジスが城に戻ってきた。同行した者たちはもう言葉もないようで、ようやく解放された喜びに涙まで流している。ビジスが行く先々でどんなことをやらかしたのか気になるが、ペシフィロにはそれよりも訊きたいことがあった。
 あの夢に出てきたビジスは、ペシフィロが勝手に見た幻影なのか。
 数々の夢で検証をしようにも、ビジスが出てきてくれたのはあの一夜きりだった。その後は、ビジスどころか恐い夢も、平和な夢も楽しい夢も、何一つ見なかったのだ。もしくは覚えていないだけか。どちらにしろ、うなされることも疲労することもない、穏やかな夜ばかりだったことに違いはない。
 これはビジスのおかげなのか。それとも自浄作用なのか。
 ペシフィロは旅支度を解くビジスに尋ねた。
「……他人の、夢の中に出入りする術、なんてあります?」
「なんだいきなり。そうだなァ、あることにはあるが、面倒だ。一晩中枕元で術を保持する必要があるし、あまり企みには使えないな。疲れるだけで意味がない」
「そうですか」
 ペシフィロは、がっかりとしている自分に驚く。ビジスの企みではない方がいいはずなのに。
「呪いたい相手でもいるのか? 他の方法を教えてやろうか」
「いえ。そうじゃなくて、夢の中にあなたが出てきて……」
 言いかけて、早くも後悔する。ビジスは面白そうに笑っていた。
「ほう?」
「お、おかしな意味じゃなくてですね! 夢の中のあなたがあまりにもあなたらしかったから、もしかしてとか、そういう……」
「そうか、思わず夢に見るほどわしがいなくて寂しかったか」
「違いますよ! そういう意味じゃないんですって!」
 ぶんぶんと手を振るほどに顔が赤くなっていく。恥ずかしさか屈辱か。おそらくその両方だ。言わなければよかったと心から後悔しつつ、ペシフィロは荷物の整理に取りかかる。
 腰を屈めた背中に、声がかかった。
「ペシフィロ」
 振り向いて硬直する。ビジスはまるで狩人のように見えない弓を構えていた。
 まるで、あのとき見た夢のように。
 ペシフィロは固まったまま動くことができない。
 ビジスは空想の矢を構え、いつものように笑ってみせた。
「おやすみ、坊や」



“意地悪”


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