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 ちり、とかすかな音がした。続けざまに猫の声。ああと言ってピィスが戸を開けに立ち、小さな黒猫を連れて戻って来たころにはもう、カリアラは部屋の隅に避難している。丸まる背は、おれは壁の一部だと言わんばかりに縮まっていて見るからに情けない。ピィスは呆れた息をつき、飼い猫を抱き上げた。
「お前さー。いい加減慣れろよ」
「おれは壁だからしゃべれないんだ。だから猫もこないんだ」
「お兄さんこの子いつのまにか形態模写取得してますよ」
 呼びかけるとサフィギシルは企みめいた笑みを浮かべる。ピィスは隣のシラを見た。彼女が不満そうにしているということは、どうやらカリアラの行動はサフィギシルの入れ知恵らしい。
「サフィ、どうだ? おれ壁になれてるか?」
「そうだなー。もうちょっとぺったりした方がいいかも」
「こうか? これでちゃんとぺったりしたか?」
「こういう時のお前の笑顔はどうしてそんなににこやかなんだ」
 普段はふてくされてるくせに、と、愛猫の前脚で叩くと、サフィギシルは今さらながらに気まずげな顔をした。いつもは愛想がないくせに、彼はカリアラで遊ぶときだけ妙にほがらかなのだ。ピィスは彼とは逆に不機嫌となったシラを気にしつつ、黒猫を床に下ろす。軽やかに着地して首輪の鈴がちりりと鳴った。
 今でこそ無害な小動物だが、この猫型細工は数ヶ月前街の一部を破壊している。巨大化してカリアラの手で壊された後、それでも生き残った魂を、サフィギシルがごく普通の猫細工として新たに作り直したのだ。ペシフィロの魔力によって妙な変化が起きないように、と内部から外縁までしっかりと対策も施され、元々無実の魂は平穏な日々を過ごしている。
 だがその代わり、頻繁にピィス宅に出入りしていたカリアラは、彼自身が持つ極度の猫嫌いと葛藤するはめになっていた。何しろ、黒猫には殺されかけたことがあるのだ。街中の別種の猫でもたまらず逃げ出すほどなのに、よりによって以前苦しめられた魂の猫である。打ち解けられるはずがない。
 それなのに、スズと名付けられたその猫は、カリアラをいたく気に入っていた。今もまた壁になりきった彼のところへ一直線に駆けつけて、にゃあ、と甘える声を出す。カリアラはそれがまるで化け物の声といわんばかりに飛び跳ねた。
「違う! おれは壁だ! 壁だから食えないんだ!」
「わー、こんな元気な壁見たことなーい。大丈夫、食べられるわけないだろ」
「じゃあなんで舐めるんだ!?」
 カリアラはスズにじゃれつかれ、ざらりとした舌で舐められて蒼白になっている。反撃すればピィスやサフィギシルに怒られるのがわかっているので、振り払うこともできない。固まった膝の上でスズはカリアラに遊べと鳴く。カリアラはむりだむりだとか細く嘆く。
「こいつおれを食おうとしてる! おれ、食われる!」
「だーから、こんなに小さい体で、お前なんかが……」
 やれやれとスズを回収しに来たところで、ピィスはぴたりと足を止める。よく見れば愛猫はカリアラの腕をがっぷりと口に入れ、嬉しそうに噛み付いては手足をばたばたさせていた。死にそうなカリアラの目が助けてくれと訴える。ピィスは引きつる口を押さえた。
「……あれー?」
「噛まれてるじゃないですかっ!」
 事態を見つけたシラが飛びついて、カリアラから猫を剥がした。スズはなぜ邪魔をするのかとでも言いたそうに尻尾を太らせている。シラが今にも食いかからんばかりの顔をしたので、サフィギシルがスズを保護した。黒い毛並みを慣れた手つきで落ち着かせるようになでる。ピィスもまた慣れた調子でシラの怒りを落ち着かせる。カリアラは死地から這い上がった顔で、ぜえはあと息をしていた。
「く、くわれるところだった……」
「いや、ええと、ほら、多分あれだよ。甘噛み。そんなに痛くなかったろ?」
「しっかりと歯形がついてるじゃないですか! 本気で食べるつもりでしたよ!」
「なんだろうな、魚の匂いでも残ってるのか?」
 なあスズー。などと話しかける声は甘く、猫をいじるサフィギシルの様子はいつになく嬉しそうだ。彼はこの猫型細工を作って以来、愛着が湧いたらしい。シラが口をとがらせる。
「サフィさんはカリアラさんとその猫、どっちが大切なんですか!」
「なんだよ。別に比べなくてもいいだろ? 両方共存していけば」
「実際に食べられかけてるじゃないですか。もうっ、どうにかならないの?」
「魚を食いたがるのは猫の習性だもんなー。しょうがないよなー」
「お前相当さみしい人みたいになってるぞ」
 猫に話しかける姿は傍からすれば哀れに見える。サフィギシルは恥ずかしそうに顔をそむけた。
「じゃあおれは食われなきゃだめなのか? おれはエサにされるのか?」
「そういう意味じゃなくて。食われそうになるのは、ようするに格下と見なされてるってことだろ? そうじゃなくて、俺は猫のお前より強くて偉いんだから食いつくな。ってところを見せればいいんじゃないか?」
「おれ、猫より強いか? えらいか?」
 カリアラのすがるような視線を受けて、サフィギシルは黙りこんだ。
「……どうだろう」
「お前はなんでそんなに猫が大事なんだ!?」
 嘆くカリアラをシラが抱え込んでなでる。サフィギシルは悩み顔で猫をなで、その口に指を入れた。
「とりあえず、噛まれ慣れしてみるか?」



 木製の猫を眠らせて改造するのにたいした時間はかからなかった。サフィギシルはピィスの工具を借りて、あっさりとスズの歯と爪を外してしまう。完全に無くしてしまえば生活が危ういので、カリアラが猫に慣れるための練習の間だけ、黒猫は無害な小動物と化した。
「逆療法。まあ、延々と遊んでりゃ慣れるだろ」
 サフィギシルは仔猫用の遊び道具でスズと戯れながら言う。カリアラは部屋の中央に座り込んで待機していた。顔色が悪い。まるで死刑宣告を待つ囚人のごとく、彼は口を結んでいる。その緊張を見たサフィギシルがにやりと笑った。そしておもむろに、じゃれつかせていたおもちゃをカリアラに投げつけた。
 スズは飛びかからんばかりの勢いで、おもちゃに、そしてカリアラに突進する。カリアラの全身が大きく震え上がるがスズはそれを気にもせず、膝の中でおもちゃで遊ぶ。ふと、気がついたようにカリアラを見てにゃあと鳴いた。これほどなく嬉しそうに。猫語などわからないものにも一瞬で意味がつかめるほどに。そして同じだけわかりやすい顔でカリアラは絶望した。
「言っとくけどうちの猫だからな。いじめたり振り飛ばしたりすると怒るよ」
「その猫がうちのカリアラさんに噛みつくのは平気なんですか」
「いやほら猫に慣らすためだし。特別許可ってことで」
 ピィスたちは遠巻きにカリアラを囲んでいる。カリアラとスズはその中央で、恋人同士も裸足で逃げ出す熱い光景を繰り広げていた。ただし、カリアラが一方的に愛されているだけではあるが。カリアラは腕を食まれ足を舐められ、爪のない前脚でひたすらに胸を裂かれながら小刻みに震えている。今、額をつけば簡単に真後ろに転がるだろう。それほどまでに彼は固く凍っていた。噛み付きこそあれ、じゃれている猫としてはあくまでも懐いているのに、迎える男が怯えているのは不恰好で間が抜けている。死にそうな形相のカリアラを見て、サフィギシルが吹き出した。
「なんで笑うんだ!?」
 信じられないといった風にカリアラが顔を上げる。おれは食われているんだぞ、と見開いた目で訴えるとそれがまたおかしくて、サフィギシルは口を塞いだ。
「なんで笑うんだ!? おれ食われそうなのに! なんでだ!? なんで笑うんだ!」
「それはな、今のお前がものすごくかわいいからだぞ」
 笑いをこらえるサフィギシルの背を叩きつつ、ピィスが優しい笑顔を向けた。
「かわいいってなんだ!? おれ今どうなってるんだ、どこにいるんだ!?」
「相当追いつめられてんな」
 カリアラは彼よりもずっと小さな生き物に甘えられて、口から泡を吹いている。逃げたそうにシラを見るが、調子に乗ったサフィギシルが「もっと頑張れ!」と応援するのでふにゃりと顔の部品を歪めてそのままとろけそうになる。だが、死んでたまるかとばかりに表情を引き締めて、引き締めて、ぎゅうと千切れそうなほどに顔面に力をこめた。ぐ、と歯を噛みしめて膝を持つ。その甲をスズの舌がなめていく。カリアラはそのたびにびくりびくりと揺らぎながら、必死に歯を食いしばった。だが細かな震えが、猫に触れる部分から、胸へと首へと這っていく。それが頬をなでて頭まで伝わったところで、カリアラはこらえきれずに絶叫した。
「わん!!」
 スズがびくりと首を引く。カリアラは泣きそうな顔で叫んだ。
「わん! わんわん! わんわんわん!!」
 外野の者はわけがわからずぽかんとしてそれを見る。カリアラはひたすらに、わんわんだのグルルルなどと不思議な言葉を繰り返す。ピィスがぽんと膝を打った。
「そうか。犬の方が猫よりも強いもんな」
 両隣で盛大に吹き出す音。見回せば、サフィギシルとシラがそれぞれに口を押さえて体を曲げて、ふるふると震えている。堪えているのにカリアラはわんわんとさらに咆える。ふたりの耳が染まっていく。
「……じゃあこっちも耐久競争ー。声上げたひとが負けー」
 ひとり、取り残された気持ちでピィスが言っても反応はない。ふたりはただひたすらに頬も赤く震えている。カリアラは動じなくなった猫に向かって、わんきゃんとわめき続ける。必死な彼らを眺めつつ、ピィスは深く嘆息した。


“我慢”


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