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「やっぱりなあ。二百年だめだったものが、放っておいて良くなるわけないんだよなあ」
 一時間の格闘の末に出された言葉がそれなので、シグマは抱えたスケッチブックを放り投げたい気持ちになった。カリアラは「だめだなあ」とくりかえしては、疲れたように息をつく。彼の画用紙がどうなっているのか知りたくて、覗き込むと逃げられた。
「見るぐらいいいじゃないすか。これだけ巻き込んだんだから」
「俺の自尊心を保つため。そしてお前の横腹を守るために、これは封印することに決めた」
「そんなに笑える絵なのか」
 冷ややかなミハルの声。楽しくもなさそうなのは当然だろう。描かれているのは彼女の姿のはずなのだから。わざわざ呼び出されて、いきなり絵のモデルになれと命令されて一時間。腰かけたミハルはいつも通りの無表情だが、機嫌がよくないのだろう。なんとなく暖色を乗せていく気になれなかった。彩色まで終えたシグマの絵を、カリアラが取り上げる。
「いいなあ。お前は上手くて」
「自分は見せないくせに……別に上手くないっすよ。それぐらい学校で習ってれば普通です」
「グイエン。教えられてもできない生徒もいるんだぞ?」
 そう例えばこことかに。と自分とミハルを交互にさすので、ミハルはさらに嫌そうな顔をする。実際に見たことはないが、彼女の画力もカリアラと並ぶほど笑いを誘うものらしい。両方とも見てみたいな、と考えながらシグマは絵の具を片付け始めた。
「しっかし、画材って物持ちいいっすね。もう十年は経つってのに使えたじゃないすか。懐かしいな」
 しわがれた絵の具をつまむ。もういくらも残っていない中身は、ほとんど固形と化していた。それでもまだ皮を破れば中身を取り出すことができる。シグマは、学生時代を思い出して苦笑した。
「最後の授業の時、先生に言われたんすよ。『多分、君たちはもう絵を描くことなんてないだろう』って。たしかにそうっすよねえ。画家になろうとしてる人は、もっと専門的な学校に行くだろうし。趣味で描くことなんてそうそうありませんもん」
「お前は、描きたくなる時ってないのか?」
「カリアラさんはあるんですか?」
 訊き返せば、彼はうなずく。何を当たり前のことを。と言外に告げられたような気がして不思議になった。少なくとも、シグマには自主的に絵を描いた記憶がないので。カリアラは自分の絵をちらりと見て、まずいものを食べたようにしかめた顔でそれを伏せた。
「何年かに一度、あるんだ。きれいなものを見たり、普段から見かけてるものを急に面白く感じたり。そういう時に、俺の目にはどう見えたか、感じたかを描きたくなる。絵は写真とは違ってそのままじゃないから。だから、現実とは違う、俺にしか見えないものを、形として残せるような気がするんだ。でも実際には見たとおりに描けないから、すぐにいやになってやめる。その繰り返し」
「で、何年かしたらまた描けるような気がしてくる、と」
「そう。現実が見えてないんだな。昔からずっとそうだ」
 カリアラはため息をつくと、シグマの絵を改めて見た。
「やっぱりな。写真だとこうはいかないだろう」
 掲げて示した紙の中では、どこか遠くを見つめるミハルの横顔があった。淡い線で構成されたそこには、やわらかな表情が描かれている。つまらなさそうに、だがわずかに遊びを楽しむようでもある微妙な色合い。時間を置いて見返せば、たしかに現実のミハルよりも表情が豊かである。写真でそのまま切り取ればこういう画にはならないだろう。
「お前にはこう見えてたんだな。いいよな、ちゃんと形にできるやつは」
「……まあ、そうかもしれませんけど」
 カリアラが絵をミハルに渡したので、奪い取りたい気持ちになる。だが身を乗り出した姿勢は、ミハルの反応を見て落ちついた。わずかに照れくさそうな顔つきを、今こそ描きたいと思う。彼女の表情はいつも一瞬で消えてしまうので、そうして紙の上に残して。
「カリアラ。長々と待たせたんだ、本人にぐらい見せてくれてもいいだろう」
 ミハルが求める手を伸ばす。だがカリアラは困った顔で自分の紙を胸に寄せた。
「だから、俺は絵が下手なんだ」
「下手でもいいっすよ。俺にも見せてくださいよ」
「だめだ。俺は下手だから、見えているように描けない。だからすぐ嫌になるんだ。せっかく綺麗なモデルなのに、俺が描くと変になるから台無しで勿体ない」
 そのまま映せば綺麗になるはずなのに。と呟いたところで、ミハルがかすかに赤くなる。本当に、一瞬だけの微妙な変化。だがそれを見逃すようなシグマたちではない。カリアラはぴくりと反応すると、心得たようにすらすらと言葉を紡いだ。
「お前は綺麗だからつい描きたくなったんだ。でも嫌だな、俺が描くと上手く行かない。やっぱり本物が一番だ」
「……馬鹿なことばかり言うな。ほら、もういいだろう。片付けろ」
 率先して絵具を集めるミハルの頬は、またほのかに温かそうで、シグマは負けた気分になる。先ほどの表情とは赤さの度合いが違うのだ。当然その奥にある感情の揺れも。楽しげに彼女を見つめるカリアラを、シグマは覗くようににらんだ。
「……ムカついてもいいですか」
「存分に」
 口元がにやりと笑う。カリアラは鼻歌まじりに自作の絵を丸めると、ポケットに押し込んだ。


“照れ”


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