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 魔術技師協会で行われる歌の練習ではカリアラに迷惑をかけられ、それが終わったかと思えば今度は伯父に振り回される。あわただしく心労のかかる一日を終えて、ピィスは足取り弱く家へと戻った。ペシフィロはまだ帰宅できる状態ではなく、ただいまと言ったところで答えてくれるものはない。部屋の中は、ただ闇ばかりを見せている。足元も危うい夜の色が空気すら覆い隠し、このままでは何もかも暗く包んでしまいそうだ。
 ピィスは嫌になりかけた気分を弾くように、えいっ、と床に向かって後ろ向きに飛び込んだ。何もないその場所ではひどく背中を打つはずだ。それでも痛ましい物音が立つことはなく、無防備に投げ出されたピィスの体はやわらかく闇に浮いた。それが嬉しくて、つい笑う。
「ありがとう」
 なな、とかすかな声で呼ぶ。返答はないが男の腕はしっかりと彼女を支えている。
 ピィスはそこにいるはずの彼に繰り返し呼びかけた。幼いころから何度も続けてきたことだ。彼女が彼の名前を呼べば、はい、と小さな声が返ってきた。子どもの戯れで執拗に呼び重ねても、彼はそのつど律儀に答えをくれていたのだ。
 それなのに今の彼は決して返事をしてくれない。彼女がどんなに甘えても、ただ命のない物のように息も薄く在るだけだ。変わらないその態度に腹を立てて、ピィスは暗がりの中で彼を叩いた。拳に返る感触は厚い服のもので、その下に生きた人間の肌があるのかも確かにはわからない。目を閉じているかのように黒々とした世界では、どこを攻撃しているのかも、本当に相手がそこにいるのかも定かではなくなっていく。
 諦めと疲れの中で、ピィスは彼の形をした椅子にもたれた。もう憶えていない赤子のころから、彼の膝に座っている。ここがどんなに安全な場所か彼女はよく知っていた。今はもう昔のように返事をしてはくれないけれど、それでもここだけは、ずっと変わらないまま存在している。
 いつものように、そばにある彼の手を取る。黒い布に阻まれて肌の熱は感じられない。それでも手の形をしたそれを、ゆっくりと指でなぞる。硬く、重い、遊びの道具。彼の体はすべて彼女のためだけにあり、何をしても構わない唯一のものだった。
 ピィスは徐々に重くなる体を彼に預けた。まぶたが下りているのだろう、もうひとつの暗がりがとろとろと広がっていく。眠りゆく中で彼の手のひらを抱え、言い聞かせるように呟いた。
「オレのななだよ」



 寝息を立てはじめた主が目を覚まさないように、ななはそっと立ち上がる。ピィスはかすかに反応したが、護られていることを夢の中でも知っているのか、満足そうにまた深く眠り込んだ。まるで笑っているかのように吐いた息が、まだそこらに漂っている。ななは少しの間彼女の寝顔を見ていたが、気を取り直して二階に上がった。
 ベッドの上に横たえて、真夜中に蹴ってしまわないよう厳重に毛布をかける。まだ温もっていない布の感触が嫌なのか、かすかにむずがる声がもれた。それでも幼いころのように泣き喚くことはない。もう、昔のように、彼女を背負って落ちつくまで歩き回る必要もない。
 また、小さくうめいて彼女の腕が毛布を出る。無造作に投げ出されたそれを元にしまおうと手が伸びる。だがそれは中途で止まり、何事かを思うように毛布の端に添えられた。ためらいにも似た軌道を描いて、また空に戻される。厚い布で覆い隠した彼の手は、夜の中では人の目に見えないほど暗く沈む。その、切り取った影のような指で、彼は彼女の手のひらに触れた。
 赤子のころのように、もうそのやわらかな指は彼の手を掴み返したりはしない。
 彼女はただ手のひらを上に向けたまま、何らかの夢に溺れている。
 一度でも目を醒ませば、彼女は今の彼がどんな顔をしているのか見ることができただろう。決して人に表すことのない、彼自身も気づいてはいない色づきが、あらわにした顔立ちをわずかにだか動かしている。
 ななはピィスの手に指を絡める。それでも応えは返ってこない。当たり前のことにわずかな安堵を憶えながら、彼は彼女の手をそっと包んだ。

※ ※ ※

 一人だけ“補習”に残されていたカリアラが、よろめいて部屋に戻る。そのままどこかにもたれかかってしまいたいのに、丁度いい壁や家具がない。もう眠さも限界なのだろう。少しでも気を抜くと崩れ落ちてしまいそうな顔で、彼は不安にあたりを見回している。
「カリアラさん」
 キュイ、と人魚の声で呼んでやると、カリアラは嬉しそうに顔を上げてシラの膝に飛び込んだ。魚だったころとは違って今の彼の体は重く、シラは鈍い痛みを覚える。カリアラはそれにも気づかず彼女の服の裾を掴み、たちまちに眠りこけてしまった。以前はあまり吐かなかった寝息が、静かな部屋にこぼれていく。
「お疲れさま」
 膝に乗った彼の頭をやわらかく撫でてやる。カリアラはわずかに反応したが、それよりも疲労が勝つのだろう、またすぐに深く夢へと落ちた。
 野生のくせが抜けない彼は、いまだひとり何もない場所でゆっくりと休むことができない。部屋の中に家具を集めて洞窟の真似事をする。ベッドの上に布団を積んで水草のようにする。体どころか顔までも隠さなくては、心から落ちつくことができないのだ。たとえ敵となる大きな魚がいない陸に上がっても、習性というものは簡単には変わらない。
 そんな彼も、シラのいるところでは安心することができた。どんなに荒れた空気の中でも、寒い日でもうるさい場所でも、シラの手が、彼女の髪がそばにあれば眠りにつける。
 密着した喉の揺れが、彼の寝息を教えてくれる。シラはそれを感じながら、無防備に体を預けるカリアラを見た。
 こうしていると、まるで昔に戻ったようだ。姿形は随分と変わってしまったけれど、今ここにある場所だけは、何ひとつ違わない。このまま目覚めなければいいのに、と呟いて、シラは苦く笑みを含んだ。
 眠りから醒めれば、彼はまたすぐに前へと進んでしまうだろう。取り残された場所でシラがどんな顔をしているか、思い出すこともなく、次へ次へと人になる階段を上がってしまう。
 彼女には、それを止めることはできない。止めようとすら思えない。
 どんなに優しく温めても、どんなに強く焦がれても、最後にはどうせどこかに行ってしまう。
「どうして、ずっと一緒にはいられないのかしらね」
 恋をしても無駄なのだと初めからわかっている。
 想いを抱えるだけ苦しいことも知っている。
 だからせめて、今だけは。

 ひどいひと、と呟いてみる。それが誰のことを指しているのかわからなくなって、心の中で取り消した。カリアラはおだやかに眠っている。今はただそれを見ていることしかできなくて、シラはわずかに目を細めた。


“どうして”


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