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 昨日までは平気だったものが突然に許せなくなるというのは、誰にでもあることなのだろうか。
 ハクトルは答えにたどりつかない問いを転がしながら、酒の入ったグラスを掴む。そのまま、対面で潰れている男の顔面を厚い底で殴りたい衝動にかられるが、さすがに実行するほどには酔いが回っていなかった。
(こりゃ相当イライラしてんな)
 自分を冷静に観察できているだけ余裕があるとも感じるが、その思考自体がすでに歪んでいるのかもしれない。呼気はゆるみ、顔が赤らんでいるのが熱でわかる。深酒をするなど滅多にないことなのにどうしたのかと考えれば、こちらの答えは簡単に目前に転がっている。
 ハクトルは、酒場の机に伏せるサフィギシルを見下ろした。ちらりと覘く耳の端は、見るからに熱そうな色をしている。安らかな寝息は聞こえないふりをした。彼が幸せな夢を見ているかもしれないと思っただけで、また苛立ちが募っていくのだ。
 今日の自分はあまりにも腹が立ちすぎていると自覚したハクトルは、サフィギシルの身を守るために、大量の酒を勧めた。無理に呑ませたと言っていい。この肌も髪も声ですらも白く感じる男が、正常に笑い、喋り、動いているのを見ただけで反射的に掴みかかってしまいそうで、ハクトルは彼のグラスに酒を注いだ。
 酔いの熱に霞む目が、サフィギシルの指を見る。汚れた机上をだらしなく這う白いそれ。清潔に切りそろえられた爪の奥に、赤らむ女の肌が見えた。昼間嫌というほど凝視した、姉の首だ。
 珍しく下ろされた黒髪の奥には、首を絞められた痕があった。
 痛ましげに笑う彼女がこの男に何をされたのか察した瞬間、ハクトルは世界中の音が不気味に濁るのを聴いた。騒がしく、不吉に、夏の夜の木々のざわめきのような気配で音は耳の奥を膨らせる。その感覚に囚われるあまり彼は何も言えなくなった。どうして、とただ一言彼女に問いかけることすら。
(なんでかなあ)
 半日を置いてみれば、姉の口から聞きたいことはいくらでも上げられる。だが些末なそれらは根本的な疑問に集約された。
 どうしてこんな男といつまでも付き合っているのか。
 本当に知りたいことは、結局のところそれだけなのだ。ハクトルは、今にも姉の代わりに彼の首を絞めたがる己の手を握りしめた。
(なんでだろうなあ)
 サフィギシルはあまり酒に強いとは言えない。軽く酔いが回っただけで極端に愚痴が増え、完全に呑まれた頃にはもう毒しか吐かなくなる。延々と、言ってもしかたがないような世の中への不平をもらし、さらに酒の量が増せば今度は急に涙を流す。今にも首を吊りそうな雰囲気で、どこまでも自分を追いつめはじめるのだ。その湿り気を走り抜けたところで、ようやく彼は眠りに落ちる。
 ここまで一緒に酒を呑んで楽しくない相手も珍しい。だがハクトルは酔いによる彼の変化が愉快で、暇をみては行きつけの店へと連れまわした。だが今日は真面目な話をするつもりで、酒などは一滴も入れるものかと考えていたのだが。
 思い出しただけで苛々として、ハクトルは舌を打った。
 サフィギシルは「どうしようもない」と言ったのだ。自分を深く絡め取ろうとする闇にのまれて、わけがわからなくなるのだと。ただ彼女を他の者に取られたくないという思いだけが先に立ち、気がつけば、隣に眠る彼女の首を絞めようと手を伸ばす。止められない。いけないことだとわかりながらも、それをやめることができない。
 冗談じゃないと罵りたくなる。それは俺の姉だ。お前が毎夜殺しかけているその女は、この世にたったひとりきりの、大切な俺の姉ちゃんなのだと怒りのままに叫びたい。だがそうすれば、すでに限界近くまで脆く崩れかけたサフィギシルを壊すことになるのだと、彼の周囲の人間たちは皆承知している。
 だからこそ、姉も彼を突き放さない。叱ることすらできないまま、ただ静かに寄り添っている。

 どうして、こんな男といつまでも付き合っているのか。

(なんで)
 答えなどとうに知っている。だがそれは何の救いも生み出さない。だからハクトルは問い続ける。
(なんでなんだ)
 疑問は酔いに導かれて遠くまで伸びていく。彼をここまで追いつめた理由にも、その根本にある男のことにも同じ問いを投げかける。答えは四年前に出ている。ハクトルは、身をもって知っている。
 だがそれは何の救いも生み出さない。誰一人楽にはなれない。
 ハクトルは眼の下に描かれた蛇を歪め、うつ伏せるサフィギシルの頭を眺めた。
 そしてまた、答えを見ないようにして、同じ疑問を転がした。


“どうして”


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