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 どんな仕事にも忙しい時期というものがあって、ペシフィロにとっては今がまさにそれにあたる。彼は今夜も大量の書類にもみくちゃにされてよろめきながら帰宅した。どんなに遅くなっても必ず家まで戻るのは、忙しい中でもせめて朝食の時間ぐらいは我が子と共に過ごそうと決めているためだった。防犯の点で言えばなながついているのだから心配することはない。だが、まだ新しい生活に戸惑うピィスをあまりひとりにしたくなかった。
 そういう理由でペシフィロは真夜中を随分と回っているこの時刻に玄関に飛び込んだのである。ビジスの無茶も相まって全身は石のごとくに硬く、動かすたびに折れるような音がする。扉を開けて、なんとか中に入ったところで彼はふらりと倒れてしまった。起きなければ。そう考えるが床に伏せてしまったせいで眠気がまぶたを押していく。ペシフィロは、ああ風邪を引く、こんなところで眠ったら明日はひどいことになる、とぼやけた意識で考えながら、だんだんと眠りの世界に引きずり込まれた。


 ようやく帰宅したかと思えばペシフィロは玄関に倒れて起き上がる気配がない。どうやらよほど疲れきっているようだ。眠るのか眠らないのか曖昧な顔をして、目を閉じたり開いたりと微妙な動きを繰り返す。ななは部屋の隅に隠れた姿勢で家主の眠りを観察した。
 肩にかけた荷物すら下ろさないので大きな鞄にのしかかられて、潰されそうになっている。それでも払う気力すらないのだろう。ペシフィロは歩いていたそのままの姿でうつ伏せになっている。服がずれて腹が出ていた。今夜は冷える。このままでは腹痛を起こすに違いない。
 ペシフィロはいつもこうだ。眠るときに警戒だとか、慎重さだとかいうものが昔からかけらもない。怪我をしてななの小屋に居座っていた時も、夜更けによく寝台から転げ落ちることがあった。何をどうすればそんな器用なことができるのか、ななにはさっぱりわからない。
 ななはそろりとペシフィロに近づいて、また退いた。人間に介入するのは使影の本意ではない。あくまでもななの主人は母国にいる旦那様だ。こちらにいる間も、仮の主人はピィスの方でペシフィロに尽くす義理はない。使影は必要以上に人間と接するわけにはいかない。ましてや彼のように究極的に人の良い相手には。
 だが、このままでは腹を壊してしまう。
 ペシフィロは変色者らしく身体の弱いところがあるので、また風邪を引くかもしれない。
 彼は生きてきた環境に反して恐ろしく無防備なので、よく頭の悪い病気をするのだ。昔から薬草摘みについてきては川に落ちて熱を出したり、かと思えば不注意で焼けた鍋を掴んで火傷をしてしまったり……。その度に主人から治療を請われて仕方なく治してきたが、ななとしてはいい加減にしろ、ぐらいは言ってやりたい気分だった。
 真暗に染まる部屋の中で、ななは静かに考えた。このまま彼に毛布をかけてやるのは使影としてどうなのか。全身を隠す黒い布は顔のほとんどを覆い隠しているが、たとえあらわにされていても心境は読みとることができないだろう。彼は眉一つ、口元ひとつ動かさず、かすかな寝息を繰り返すペシフィロを見下ろした。助けたことが相手に知れれば面倒なことになる。彼は嬉しそうに笑いながら、互いの距離が縮まったと勘違いをすることだろう。それは避けなくてはいけない。
 だが、このままでは腹を壊してしまう。板の上に転がるせいで、全身も痛むだろう。
 ななは到底血の通っているようには見えない面持ちで彼を見下ろした。さあ、どうする。
 ななはこう考えた。
 ペシフィロは現在ピィスの保護者である。ピィスはななにとっての仮の主人で、尊びながら最大限に敬わなければいけない人だ。ペシフィロが体調を崩せばピィスの生活に支障が出る。そうなればピィスは苦労を強いられることになる。だから回避しなければいけない。そのため今やるべきことは。
 ななは懐から睡眠薬を取り出してペシフィロに嗅がせ、完全に彼を眠りに落とした。ぐったりとしたペシフィロを担いで部屋に運ぶ。そのまま、彼を絨毯の上に投げ飛ばした。ペシフィロは壊れた人形のように奇妙な姿勢で横たわるが、目覚めない。ななは台所で湯を沸かし、煮え立つほどに熱い蒸しタオルを用意すると、うつ伏せの姿勢に直したペシフィロの服を剥ぎ、さらけだした背中に思いきり叩きつけ。
 彼の凝りをほぐし始めた。
 ななは表情もなく黙々とペシフィロの疲れをほどく。強制的に眠らされた本人の反応はないが、医者としての長年の勘が凝り固まった全身を的確にやわらげた。頭から足の裏まで徹底的に、闇の中で作業を続ける。さらに針を取り出してツボというツボに刺していく。出来うる限りの力を尽くした時には、夢の世界でうなされていたペシフィロの表情も幸せそうにほぐれていた。
 ななは元通りに服を着せ、荷物を肩に負わせるとペシフィロを玄関まで運んでいく。そして彼が倒れたそのままの姿勢に戻した頃には朝日が顔を見せていた。ななは光から逃げるように屋根裏へと戻っていく。残されたペシフィロは帰宅時のままにも見えるが、腹のあたりはきちんと直されていた。



「……不思議ですねえ」
 朝食のパンをかじりながら、ペシフィロは呟いた。同じものを食べるピィスがきょとんと見上げる。
「なにが?」
「いえ、部屋に戻る力がなくて玄関で寝てしまったんですが……なぜか、ベッドで眠るときより身体の調子がいいんですよ」
 目覚めてみればあれだけ硬くなっていた肩も腰もやけに軽くなっている。まるで何日も健やかな暮らしをしたかのような……。変ですねえ、と繰り返しながらペシフィロは首をかしげた。
 彼が真実に気づくのは、睡眠薬に耐性がつく十年後のことである。


“悩む”


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