ラジオをお聞きのみなさまおはようございます。突如響いた明るい声にシグマはびくりと飛び起きた。驚きのまま目をやれば、小型の機械を前にして背筋を伸ばす男がひとり。 「おはようございます!」 カリアラはこれほどなく清々しい目で打ち抜くような挙手をした。新品のラジオからはいっそ笑ってしまうほどに爽やかな音楽が流れだす。健康な朝を謳うそれにあわせてカリアラも歌い始めたので、シグマは枕を投げつけた。 「やめてください」 「ん?」 カリアラは造作もなく弾きながらシグマを見る。なんだ起きたのか、と顔で言って、そのまま目で「何がいけないんだ?」と問いかけた。ミハルよりはわかりやすいが、どうして言葉で伝えないんだろうとシグマは心の中でぼやいてみる。 「朝ですから。近所迷惑なんで音落としてください。ここ壁薄いんすよ」 「そうか。わかった」 素直に言うことを受け入れるのは彼の美徳のひとつだろう。だが早朝から堂々と不法侵入をした上ではあまり誉める気にもなれない。シグマは眠り足りない体を再び寝床に横たえて、布団を被った。せっかくの休日だというのに、こんな空気も冷たい時間に起きるなんてとんでもない。カリアラは呼気にも似たか細い声で切々と健康を歌っている。あまり、耳にいいものではないがこの程度なら二度寝を邪魔することもない。だが大あくびをして目を閉じようとしたところで、ラジオから非常に不吉な声がした。 それでは元気よく朝の体操をはじめましょう。 「はじめます!」 いやなんで立つんすか。訊くまでもなくカリアラは柱のごとくに直立し、まっすぐにラジオを見つめる。そのまま流れた小気味よい音楽と指示にあわせて力いっぱい腕を振った。いち、に、さん、し。にいに、さん、し。次は腕を引いて前へ回しましょう――。 「わかりました!」 「…………」 なんでいちいち元気にお返事してるんだろう、この人。シグマは優しさと呆れの入り混じる目で観察するが、カリアラは気にもせずひたすらに体操をする。その目つきはきりりと冷えて、まるで失敗を許されない仕事をしているかのようだ。口元はきつく引き締められて、ラジオの声に答える度に、ぱ、ぱ、と力いっぱい開いてはまた閉じる。体の方もそれと同じく全力で出しては引いてを繰り返し、もはや何かの拳法でもしているかのようだ。こんなにも真剣に体操をする人を、シグマは初めて目撃している。 だがしかし、カリアラの動きはシグマの知る体操の振り付けとは確実に異なっていた。 ラジオから切り口のいい指示が飛ぶ。 手を戻して今度は回転の運動――はい! 「はい!」 カリアラさんそれ前転するところじゃありません。そう言う前にカリアラは部屋の隅までごろごろと転がっていく。手首足首を回すだけでいいのだが、予備知識がないので上手く伝わらないのだろう。子どものころ学校で教わったシグマはともかく、カリアラは誰かの体操を見たこともないはずだった。 (……音楽と合うのが不思議だよなあ) でたらめな動きをしているのになぜだかリズムはぴたりと合うのだ。お決まりの深呼吸までたどり着いて、カリアラはやり遂げた顔で体操を終了した。ふう、と満足そうに息をつくとそのままラジオの前に座る。至近距離で向かい合う姿は仲の良い人と人のようだ。シグマは完全に疎外された気分で尋ねた。 「あの。何しに来たんすか」 「ラジオ聞きに。俺の家だと電波がうまく入らないんだ」 それでこんな朝っぱらから窓こじ開けて侵入ですか。言ってみたいが無駄なことだとわかっているので口をつぐむ。仕方ない、とりあえず放っておこう。ため息をついて腕を枕にしたところで、音楽を流していたラジオがまたもや喋りだした。 次回のすこやか体操は、国立競技場にて行います。三千人の体操にあなたも参加してみませんか? 参加は自由。みなさま、来週のこの時間は国立競技場でお逢いしましょう。 カリアラに電流が走った。少なくとも、シグマにはそう見えた。 彼はびく、と全身を引きつらせたあとで、信じられないといった顔で振り向く。 「……三千人?」 瞳孔が開いていた。 「そう言ってましたね。まあ、あそこなら広いからそれぐらい入るんじゃないすか。結構体操好きの人も多いらしいし、学校行事で連れ立って行くところもあるから、三千人っても無茶な数字じゃ……」 「三千人集まるのか」 「はい。いや、今俺言いましたよね? 聞いてました?」 カリアラは反応もせず口の中で「さんぜんにん」と呟いて、真顔で問う。 「それは本当に全部人間なのか」 「それ以外の何が参加するんすか。ホント俺の話聞いてます? ねえ」 「三千人の人間が体操をするのか。みんなで一緒に! ひとつの場所に集まって!」 「あのなんでそんなに興奮して」 「同じ動きで! 一斉に体操をするのか!!」 はあ。と肯定するとカリアラの顔面はイルミネーションを飲み込んだかのように輝いた。生身の体で言えば鳥肌が立っているのだろう、唇もまぶたも耳の端も引き上げられるように浮く。カリアラは、おお、と呟いた。そのまま顔を覆い隠す。 「どうしよう……そんな所に行ったら俺は死んでしまうかもしれない」 「えっ行くんすか。というかなんで死を覚悟」 「三千人……三千人が一緒になって……」 もはやシグマの言葉など耳に入らないのだろう。カリアラは手のひらで顔面を押さえ、外し、押さえ、外しと圧力を加えてはほどいていく。だがこうしてはいられないと考えたのか、唐突に立ち上がり、意味もなくうろうろと手を動かしてはまた座り、立ち、動きを繰り返す。その頬はほのかに赤く染まっていた。 「どうしよう。ソワソワする」 「うん。ソワソワしてますね」 これ以上のそわそわはないだろうというぐらい落ち着きがないので他に言う言葉がない。カリアラは三千人、三千人、と熱に浮かされたように呟きながら、遠い窓の向こうを見つめた。 「……俺もう何もいらない……ラジオ体操だけで生きていける……」 「…………」 何がそんなに嬉しいのかシグマには分からないが、とにかく彼には特別なことらしい。空を向くカリアラの目は三千人の体操風景を見つめているのだろう。うっとりととろけるそこに呼びかけても焦点は戻ってこない。カリアラは時おり幸福なため息をついては「さんぜんにん……」と呟いた。 完全にあちらの世界に飛んでしまった彼を見て、シグマはかすかな不安を覚える。もし二千九百九十九人の動きが同じだったとしても、残りの一人、カリアラだけ間違った体操をしてしまうのではないだろうか。そして、もし今のうちにそのことを教えてしまったら。 (一週間、正しい体操の特訓とか頼まれるんだろうな……) カリアラはまだふわふわと夢の世界をたゆたっている。シグマは幸せそうなそれを見て、今日一日を体操の指導に潰される覚悟をした。 “悦” |