――これで最後だ。 質の悪い皿を手に、彼は深く言い聞かせる。もうこれ以上こんなことを続けるわけにはいかなかった。そう、わかってはいるのだが、実行は難しい。 彼は拾ってきたばかりの仔犬の前に、残飯を置いてやる。 「いいか、今はこうして食わせてやるが、明日になったら……」 だが空腹の動物が耳を貸すはずもなく、彼の言葉は虚しくも咀嚼の音に消えてしまう。ため息をつこうとして諦めた。目の前で、振り切れそうなほどに尾を振られれば口元は緩んでしまう。頭を撫でたいところだが、餌にがっつく邪魔をするのも悪いので、代わりとして煙草を取った。 だが火をつける前に彼の体は巨大なものに押し倒される。 「てめぇのはさっきやっただろうが! 駄目だ今日はもう……あっ、てめえも食うんじゃねえ! だから離れろお前らーっ!!」 大小合わせて五匹の犬に囲まれて、彼は一人声を荒げた。 独り立ちをすれば、動物を飼うことができる。そう初めて気づいたときは、嬉しくてしかたがなくて、誰にも見られない場所で小さく歓喜を叫んだものだ。 だが、故郷を出て半年もしないうちに犬が五匹。家の中に入りはしないが、猫に至っては馴染みのものだけでも四匹、気まぐれに寄るものも入れれば十近くは通ってくる。常に動物の臭いが消えない彼の家は、近所からも仲間からも動物屋敷と呼ばれていた。 実際のところは、屋敷などとは程遠い古びた下宿の一室で、さらには家賃も長らく滞納しているところだ。大家の咳払いには悪意が滲み、今すぐに追い出されても文句を言える立場ではない。ついでに言えば犬猫にばかり食わせているので、彼自身の食事は減るばかりだ。 それなのに、拾ってしまう。 (なんか呪いでもかけられてんのか、俺は) 恨まれる心当たりは山ほどあるが、わざわざこんな馬鹿な呪いを仕掛ける者はいないだろう。わかってはいる。逃避から考えてみただけだ。捨て犬を放っておけないのは、彼の性格と、幼少時の思い出のせいである。 故郷はこの国との境界にあり、さまざまなものが行き来する街道を抱えていた。動物は時に旅の友となるが、家を持たない根無し草はその子までは連れて行けない。彼の家の近くには、生まれたばかりの犬猫が当たり前に捨てられていた。 何十年も昔から続けられてきたことだ。その度に面倒を見ていては、暮らしていくことができない。動物を拾うことは許されなかった。たとえ、それが見る間にぬくもりを失っていく弱り果てたこどもでも。 あのとき食べ物を与えていれば。彼の中にはそんな悔いが数えきれないほどにある。せめて自分の毛布だけでも分けてやることができれば、あの犬もあの猫も生きていけたかもしれない。朝の庭よりも冷たくなった体を、いくつ葬っただろう。目を閉じる必要もなく、彼はそれを思い出すことができる。 (だからって、どっかでやめなきゃキリがねぇよ) 癪ではあるが、親の言い分は正しかったと嫌というほど実感している。何匹か捨ててしまうか。いや、いっそ諦めてすべて山に置いてくるか。そう考えてはみるが、実行できる自信はない。切なげに鼻を鳴らされるだけでこちらまで哀しくなるのだ。そんなことができるのなら、初めから拾っていない。 「あれだな、見上げられるのがいけねぇんだ。奴らみんな低い位置からじいっと俺を見やがるんだ。何かくれー。何かくれー、ってな」 行きつけの店で愚痴をもらすと、すぐさま合いの手が飛んだ。 「そりゃお前が旨そうな顔してっからだよ」 「こんな骨しかねえのが?」 栄養の足りない頬をわざとらしく撫でてみせると、仕事仲間は苦く笑う。 「そうじゃなくて、動物ってのは餌をくれる奴かどうかを見極めるって言うじゃねえか。お前のその汚ねえ顔も、奴らからすりゃ食い物をくれるカモだってばればれなんだよ」 「そうそう。俺なんてちっとも寄り付かれねえぞー」 「そんなに出てるもんかねえ」 嫌われる性質ではないのは少なからず嬉しいが、そのおかげで苦しめられては喜んでいるわけにもいかない。次こそは目を見ない、と彼は決意を新たにしている。動物なんて所詮表情に乏しいものだ。深く考えさえしなければ、通り過ぎることが、できる。 「ついでに人にも気をつけとけ。お前がその動物臭ぷんぷんさせてるおかげで、西の奴らが取引覗かれたって血眼になってるらしい」 「げっ」 練習からたちまちに現実へと引き戻される。とうとう、この動物憑きが災いに転じたか。今さらながらに服を払ってみるが、それで臭いや確執が消えていくはずもない。 「ただでさえビジスに目ぇかけられてんだ。潰されないよう気をつけろよ」 「そりゃ俺のせいじゃねえだろうがよ……」 呟くと、いくつもの苦笑いを向けられる。その顔に助けてくれる色合いはなく、そりゃ動物にも嫌われるさと吐き捨てて店を出た。 「ふっ、ざけんじゃ、ねえぞおお!」 全力疾走しながらでも怒鳴りたいのは危険が迫っているからだろうか。彼は路地裏を駆けながら武器を探る。刃物は相手に投げてしまい、手に当たるのは空となった鞘だけだった。その他のめぼしい道具は、生憎と数日前食うに困って売ったばかりだ。 (ちきしょう、助けた犬に殺されるんじゃ笑い話にもなんねえよ!) 犬の臭いで目星をつけられ、さらに犬で所在がばれた。動物屋敷として有名になれば、家の場所など隠しようがなかったのだ。散々くたびれた上に家にまで見張りをつけられ、戻ろうとした足はまた逃亡を余儀なくされる。 たとえ犬たちが腹を空かせていようとも、帰るわけにはいかなかった。捕まれば命の保障はない。こんな、あらゆる人が集まる街では、自分ごときが消えたところで事件にもならないのだ。彼は明け方の海に浮かぶ己の死体を想像して青ざめた。 入り組んだ路地の突き当たりに、見覚えのある男がいた。彼は悲鳴を上げる間もなく全力で踵を返す。こっちだと怒鳴る声。複数の足音がそれに続き、向かいかけた前方からも同じく人の気配がする。彼は汗をかくのも忘れて周囲を見回す。薄暗い日暮れの裏町。逃げ込める扉はない。 神に縋る目が抱えるほどの木箱を見つける。ごみを溜めておくためのものに違いなく、悪臭が鼻をついたが迷っている暇はない。彼はふたを飛ばすと同時にその中に飛び込んで、なにか、やわらかいものを踏んだ。 見開かれた青い瞳があった。くせの強い金髪がその回りに張りついている。泥を塗りたくったかのような細い体も、息を呑む表情も驚きにこわばって今にも張り裂けてしまいそうで……。 とっさに女の口を押さえるのと彼女が悲鳴を上げたのは、かろうじて同時だった。甲高い危険信号は彼の指に消えていく。めいいっぱいに暴れる女を全力で抱え込み、彼はなんとかふたをした。 「悪ぃ、何もしねぇから。だからちょっと静かにしてくれ」 殺気立った追っ手の声が頭上から降ってくる。頼む、頼む、と震えながら耳元で囁くと、羽交い絞めにした女の体は動かなくなった。その代わり、口を塞ぐ手のひらに涙の粒がこぼれ落ちる。 がらの悪い罵声がして箱を蹴られる。一瞬、死を覚悟したが相手は中身に気がついていないようで、ただ唾を吐くにとどまる。何人もの悪意に満ちた気配が箱の上を通り過ぎ、やがて誰もいなくなった。 しゃくり上げる喉の震えが腕を揺らす。彼はそこで初めて女を抱きしめていることに気づいた。 怖かったのだ。このまま、簡単に殺されてしまう気がして、傍にある熱に縋らずにはいられなかった。 「……ごめんな。大丈夫か」 手を離すと、女は崩れ落ちるようにして泣き始める。縮まり、ごみに埋もれる格好で震える体はひどく痩せ細っていた。わめく元気もないのだろう、汚れた顔をこすりながらかすかに喉を鳴らしている。 ふたを上げ、女の色を確かめる。くすんではいるが、間違いなく金髪だ。どこからか流れ着いて、食うに困った移民だろうか。よく見ればこのごみ箱は彼女の住処のようだった。 「ゴ、ゴハン……」 「は?」 泣きじゃくる合間に、たどたどしい言葉が聞こえた。耳を寄せると、異国なまりの喋りが続く。 「ゴハン、ダメ。たべる、デキた。でも、ダメ」 ああ、と息をついたのは、彼女の手に潰れたパンを見つけたからだ。随分と悪くなったものなのだろう。乾ききった、いかにも硬そうなそれは足跡に潰されている。彼女は靴を履いていない。彼が踏んでしまったのだ。 「まさか、久しぶりの飯だったのか? どのくらいだ」 彼女が指を三つ立てるので、ひっと息を詰めてしまう。 「わ、悪い。本当に悪かった。ああ、だから泣いてんのか。ごめん、ごめんな」 恐ろしさからかと思えば、原因は食べ物である。図太いのか、それともそれほど空腹がひどいのか。怒る元気もないのだろう、やせぎすの体から水がなくなりそうなほどに泣くので、彼はその涙を拭った。 「俺がなんか食わせてやるから。だから泣くな。な?」 「ゴ、ゴハン、ゴハン」 「おお。ごはん食わせてやる」 意味を理解するための間を置いて、女の顔が上げられる。たちまちに頬が染まり、彼女は感動にふるえる瞳で彼の腕に縋りついた。 「ずっと?」 見上げてくる視線。純粋に、期待だけを向けるそれは何度も経験したものだ。彼は弱々しい彼女の手を振り払うことができなくて、硬直したまま息を詰める。 「いや、それは……」 口にした瞬間、彼女は冷水を浴びせられたかのようにこわばった。こちらを向く青の目は愕然と萎れている。喜びに照らされていた頬が見る間に色を消していき、そのまま、命さえ尽つきかねない顔色に落ちたので、彼は思わず彼女を掴んだ。 「ずっと!」 骨のような体を揺さぶり、叩き込む勢いで言う。 「ずっと飯食わせてやるから。だから元気出せ!」 このままではあの犬や猫たちのように、死んでしまう予感がした。 誰にも看取られず、ひとりきりで冷たくなって、二度と息をしなくなる。 泣きそうな顔をしているに違いなかった。情けないと思いながらも、顔を作る余裕はない。 彼女は呆然と彼を見上げていたが、剥きだしとなった膝を寄せると、彼の胸に頭を落とす。ぎこちない動きで「甘えているのだ」と言わんばかりに額を彼に擦りつけると、こぼれる笑顔で宣言した。 「オヨメサン!」 「…………え?」 やっとのことで答えても、彼女はただにこにこと笑いながら抱きつくばかり。 彼は一生ものの拾い物を腕にして、もう一度「え?」と呟いた。 「ニナ! てめえ、また拾ってきやがって!」 幾度となく怒鳴った言葉をまたしても吐きながら、コウエンは娘の髪を力いっぱいかき混ぜる。母親には似ない、くせのない黒髪が乱れてはまた元に戻った。痛い痛いと騒ぐのを確かめてそこでやめる。 「何匹目だと思ってんだ、ああ? ろくすっぽ世話もできねえくせに、無責任なことしてんじゃねえ!」 「だ、だって、だってこのままじゃ死んじゃうもん」 「バカヤロー捨て犬も捨て猫も性根の部分は図太いんだよ。てめえが心配しなくても十分一人で生きられるんだ。母さんを見ろ、あれは俺がいなくてもどこでもやっていけるタマだ」 「お、お母さんは人間だもん。かんけーないもん!」 「関係あるんだよおおいによ!」 指差した先では、昔の面影などなくなった妻がのんびりと昼寝をしている。最近では子離れもまだだと言うのに、一人旅がしたいだとか、実はへそくりがあるのだとか図々しいことこのうえない。あの時拾わなくとも生きていけたに違いない、と思わずにはいられない。 「ったく……いいか、ニナ。お前には必要なことだから言っておく」 「な、なに?」 涙ぐむ娘の肩に手を添えて、コウエンは深く言い聞かせた。 「犬猫ならまだいい。だがな、男には気をつけろ。こういう見捨てられない性分の奴は、人間だって頼られちゃ捨てられねえもんなんだ。いつかお前が大人になって、どうしようもないろくでなしに頼られたとしても、泣きそうな顔をされても、絶対に拾うんじゃねえ。捨てられなかったら俺んとこにつれてこい。遠慮なくぶん殴ってやらぁ」 「お、男の子は拾わないよ」 「犬猫ならまだ見捨てられても、人間は表情がつきやがるんだ。今にも死にそうな顔をされたら、そうそう捨てられるもんじゃねえ。いいか、俺は人生の話をしてるんだ。大事な、一生もんの話をな」 「なんで人生の話なの?」 「お前が俺に似てるからだよ」 聞いた途端、娘は火をつけられたように泣きだした。コウエンは傷心を隠しきれず娘を揺する。 「あっ、てめっ、なんだその態度! 何が嫌なんだ!」 「ふぁーよく寝た。お父さーん。お水ちょうだーい」 「知るかぁ! てめえで汲んでこい!」 遠くの妻は「なによもう」と言いながらあくびをし、ひなたに眠る動物のようにゆっくりと身を丸める。その隣では通いの猫が長く伸び、十匹近い犬たちも気持ちよさげに目を閉じる。動物屋敷と呼ばれる家には、さらに三人の子どもも加わって大所帯このうえない。 「いいか、お前はこんな風になるんじゃねえぞ!」 娘は涙を流しながら、わけもわからずうなずいている。 コウエンは泣きやまない彼女の背中を撫でながら、苦労の滲む息をついた。 “絶望” |