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 実家から送られてきたダンボールには、お内裏とおひなさまの他には、ひもうせんという赤色の敷き布と母からのメモ書きしか入っていなかった。本来は七段飾りなのだが、さすがに全部を送っても飾りきれないからだろう。手紙というにはあまりにも簡素すぎる紙には、ひとり暮らしで寂しいでしょうがこれで部屋を飾りなさい、と普段ならばありがたいが現状ではうなだれてしまいたくなる一文のみ。お母さん、あたしひとり暮らしなのに毎日が賑やかすぎて、そろそろ耳が割れそうです。
 そんなため息を知ってか知らずか、スピーカーのごとくにやかましい《道祖神》ミチカタとユニクロ装束のお内裏は、ふわふわと宙に浮いてあたしの隣を飛んでいる。あたしは耳をふさぎたいのをこらえつつ、二柱の神を連れて人のまばらな平日の商店街を歩いた。
「ハイハイハイ道祖神の道案内でございますー! お客さん、どこに行きたい?」
「ふむ。せっかく現代風になったのじゃから、若いぎゃるとお知り合いになりたいのう」
「自分の顔を見て考えてくれませんかマロさん」
 いくら現代服といっても、顔は平安的な人形のままだし頭には烏帽子である。寒そうだからってついコートを着せてしまったが、顔だけすげ替えた合成写真かしかけ絵本のようで、違和感の塊である。たった今からマロと呼ぶことにしたお内裏は、白塗りに映える丸眉を不愉快げに持ち上げた。
「マロとはなんじゃ! ええい、そちは昔から無闇に名をつけすぎる。よその犬にもタロだのクロだの……」
「あー、澄香ってそんな感じだよね。つうかオイラも勝手にミチカタって呼ばれてるし」
「あんたはもともと《満潟の道祖神》なんだからいいでしょー。マロもマロっぽいからマロなの!」
 あんまりな理屈だとはわかっているが、このままではマロが昔のあたしについてどこまでも暴露しそうなので、あわてて話を切りあげる。何しろあたしが生まれる前から我が家にいた人形なのだ。おばあちゃんの家にいた家神よりも、あたしについて詳しいだろう。
「おおそうじゃ澄香よ。ぎゃるをなんぱする時の言葉はどのようなものがべすとなのじゃ?」
 その平安顔からナンパとかベストとか出てくるとちょっと引いてしまうのですがお内裏さま。あたしが悩む前に、ミチカタが脊髄反射のごとくに挙手する。
「はーいはいはい! やっぱ『カノジョーお茶しなーい?』が定番だと思いまーす!」
「どこの古代語よ。そんなのフィクションの世界でしか聞いたことがないっての」
 第一どうやってお茶をするつもりなのか。神さまたちの飲食は、あくまでもお供え物として本体の前に置くのが精一杯である。一応、マロを移動させるために鞄には厳重に包んだお内裏人形を入れてあるのだが、カフェの席に向かい合わせてコーヒーなんて供えた日には人の目が恐ろしすぎる。そもそもナンパという時点でむちゃくちゃな話なのだが。
 道祖神はまっ黄色のパーカーを前後に揺すって抗議する。
「じゃあなんて言うのが今風なんだよー」
「そういうのに今風とかあるの? えー、あたしもちょっとしか経験ないけど、その時は『ねえどこ行くの?』とか『いまちょっと時間ある?』とかで……」
「ほうほう、そう言えばいいのじゃな。おお! あそこのぎゃるはまろの好みじゃ! ゆくぞ澄香!」
「ちょ、行くって……マロ!?」
 コートの背がいきなり前へ飛び出したので、あたしはあわてて後を追った。ちょっと待ってよどうやって人間に姿を見せるつもり!? そう質問するより早く、マロは両手を広げて前へ叫んだ。
「カノジョお茶しなーいどこ行くの時間あるー!?」
「全部言ったー!」
 バカだ。こいつ絶対バカだ。
 しかもあたし以外の人間には見えないし聞こえないのに、一体どうするつもりなのか。
 その疑問は、マロが飛びついた先を見て一瞬で氷解した。
 商店街のおもちゃ屋の店頭。そこに並べられたリカちゃん人形たちに、マロはフォーリンラブしていた。
「……なんかトイ・ストーリーみたいになってきた」
 ていうかやっぱお前も所詮は人形かよ。てっきり生身の人間を求めていると思っていたあたしが呆れていると、遠くからミチカタの声。
「澄香! オイラこの娘がいい!」
「ペコちゃんじゃん!」
 ケーキ屋の看板娘にすがりつくやつのことは、ひとまず無視することにする。
「おお、そなたらは美しいのう。その髪は染めておるのか? なんと勿体ない」
「いやクォーターだからでしょ」
「名はなんと申すのじゃ? 順に述べよ」
「いや全員香山リカだから」
「澄香よ、なぜおぬしが答える」
 不服そうに振り向くマロの顔に冗談らしきものはなく、本気でこの人形たちを口説こうとしているらしい。だがマロが何を言ってもリカちゃんたちは答えない。やはりまだ持ち主がいないから、神として具現化する力がないのだろうか。生まれたてのリカちゃんたちは、つるりとした顔立ちをピンク色の箱に収めて買われるのを待っている。
「やっぱ人の信仰がないからまだ妻にはできないよ。ねっ」
「……ではそちが買えばよかろう」
 おちょぼ口をさらにすぼめて、マロは人形の箱に取りつく。
「まろの隣に置いて飾るがいい。そうすればいずれ我らは夫婦となる」
「あんた、自分の頭身考えて言いなさいね。リカちゃんは正座できないのよ? 不恰好だし、そもそも着せ替え人形としての役目をまっとうできないじゃない。こういう人形は子どもに遊ばれてナンボなんだから。あとペコちゃんもカーネルおじさんも看板役が仕事なんだから、ミチカタ! あんたも諦めなさい!」
「やだやだオイラペコちゃんと暮らすぅ」
 だだをこねてすがりつく人形から、ぼわりと奇妙な音がした。
「えー、アタシもうカレシいるしー」
「ペコちゃん出てきた!」
 人形そのままの姿をした《ペコちゃん人形の神》は、気だるげにため息をつく。妙にスレた大人の女に見えるのは、毎日毎日通行人に頭を叩かれたり、酔っ払いに拉致監禁されたりもする身の上のせいなのだろうか。ペコちゃんは懐の深い笑みでミチカタの額を突いた。
「どうしてもって言うなら、アタシが引退するときまで待っててね。ボウヤ」
 とてつもなくかっこいいのは何故なのだろう。ミチカタはつんと触れられた額を押さえて、ゆるゆるととろけそうに笑いながらこちらまで戻ってくる。
「ペコ様……」
「ペコ様!?」
 たしかにそう呼びたくなるようなオトナっぷりだったけど。このペコちゃんは、もう随分と長い間この町にいたのかもしれない。そしてペコ様のお話で思い出したんだけど。
「リカちゃんにも彼氏がいるんだよね、そういえば」
「なんと! まことであるか澄香よ」
「うん。だからもう設定上の恋人がいるわけですよ彼女には。マロが立ち入る隙はないの」
「そうだよマロ。オイラといっしょに新しい恋を探そうぜ……」
 副業は夫婦和合じゃなかったのかこのネアカ道祖神。ミチカタは落ち込んだマロの肩を抱いて前を指さす。
「よーし、あんたにぴったりな女の子がたくさんいる町に行こう。そしてオイラも彼女をゲットだ!」
 神さまがゲットとか言わないでくれますか。だがあたしの蔑む目に気づきもせずに、二人は揃って前を指す。
「おお、ミチカタ。まろはそなたを誤解していた。共に行こうではないか」
「そうこなくっちゃ! で、どんなのが好みよ? オイラは石仏とか超好み」
「石材屋にでも弟子入りすれば」
 もうこの神々はなんなのか聞くたびにわからなくなる。そういえばやつらの会話はあたしにしか聞こえないし、姿も見えないのだった。ぎくりとして見回すが、ちょうどあたしの一人コントを発見した人はない……と、思いたい。このままでは独り言の多い変人になってしまうので、今からはできるだけ小声でいこうとあたしは決意を胸にした。



「……で、こんな遠出ですか」
「イエーイ! 人形町とうちゃっくー!」
 うるせえよ道祖神。あたしは電車を乗り継いでやってきた、古くから日本人形の店が並ぶ一角を見て不可解に眉を寄せる。
「あんた、この辺は管轄外じゃないの? ってか道祖神が地域を離れて大丈夫なの?」
 お内裏は本体となる人形を運んでいるからわかるものの、ミチカタだってあたしが住む地域のどこかに本体があるはずだ。あたしはまだそれを見たことはないのだが、地域の道祖神というものは大抵石で作られていて、そう簡単に電車で十五分の距離を移動できるとは思えないのだが。ミチカタは深く被ったフードの下で、にやりと笑う。
「大丈夫。最近は近代化やらなんやらで道祖神が減っててさー。ここの手前までは地域神の少ない土地になってんだ。てことで、オイラはこのへんまではちょくちょく遊びに飛んでくるから、ここらの道祖神とも顔見知り。さっき挨拶しといたよん」
「いつの間に……」
「フフフ。オイラの仕事は澄香には見えないほど速いのだ」
 それが本当かどうかはわからないが、確かにこのあたりの手前はオフィス街になっていた。ミチカタによれば、ビルの合間にはまだ古い家や祠が残されていたりもするが、そういうものの数が少なければ、テリトリーを侵食しても逆に歓迎されるという。
「やっぱみんな、数が減ってきてて寂しがってんだよねー」
 なんだか神さまもいろいろと大変で、しかもそれが人間のせいだと思うと心が痛くもあるのだが。
「おお、あのものなどとても雅だぞ澄香。どうじゃ?」
 ナンパ目的で日本人形店を歩かされるはめとなっては、罪悪感も吹き飛びそうだ。
「あたしそろそろ信仰心なくしそう……」
「最初からあったと言えるのか?」
「ゼロ値から底割れしそうなのよ」
 頼むからもう少し厳かとか、そこまでではなくてもせめてありがたみというものを味わいたい。何しろここに来るまでに、ディープなおもちゃ屋でアニメアニメしたフィギュアに惚れこんで、ことごとく振られたりしているのだ。結局のところは日本人形へと落ち着いたが、あちこち連れまわされてあたしはもうくたくただった。
「やはり女子は着物じゃの。ふぃぎゅあは肌を出しすぎていて風情がない」
 よく言うよ鼻血吹きそうになってたくせに。ミチカタにいたっては、カワイイ系のマスコットフィギュアに骨抜きにされていた。
「澄香……オイラもしかしたらキティラーかもしれない」
「黙れ神々」
 あんたがかわいいものに弱いのはもう十分にわかりましたから。
 こんなのにどう信仰心を抱けばいいのか誰かに教えてほしいぐらいだ。あたしはいやに人間くさい神々と、老舗の人形店を巡る。時期が時期なだけあって、店頭にはあふれんばかりにひな段が並び、道端にもピンク色の造花や同色ののぼりがはためいている。人形町は赤やピンクに染められていやというほど華やかだった。
 だが、歩くにつれてマロの肩は沈んでいく。原因は問うよりも早く明らかだった。
「……まあ、新婚みたいなもんだしねえ」
 店頭に並ぶおひなさまは、職人が魂を込めているだけあってか具現化しているものが多い。だがどれもこれもお内裏さまとおひなさまはことごとくイチャついているのだ。作られた時代を反映してか、熱くて見ていられないほど堂々とべたついているものもある。三人官女は呆れながらも彼らを祝福しているし、五人囃子にいたっては終始楽を奏でながら大騒ぎしているのだ。まるで結婚式でヒューヒューと囃し立てる新郎新婦の友人たちを見ているようで、楽しそうなのはいいことだが、そんな祝福ムードの中をひとりで歩く別居男はどんなに虚しいことだろう。マロは烏帽子の先がアスファルトにつきそうなほど深々とうつむいた。
「……ええの。まろはうらやましゅうてかなわぬ」
「ひな人形ってバラ売りしてないんだねえ」
 お店の人に訊いてはみたが、ひな人形というものはセットとして売るもので、今は基本的には単品での販売はしていないそうなのだ。昔、このあたりに雛市が立っていたころにはバラ売りもしていたというが、今でなければ意味はない。どちらにしろひな人形なんて高価なもの、自腹を切ってまで買ってやる気はないのだが。あたしはずらりと並ぶ値札を見て、かなり腰が引けていた。まさかひな人形がここまで高価いものだとは。
「ここからはちょっと遠いけど、骨董屋には単品であるかもよ? ただし古ーいものだから少々値が張ったり、傷物だったりするかもだけど。それに澄香にはちょっときっつい場所かもねー」
「キツイって、何が?」
「何しろ大昔のものが山ほどある店だから、そこに宿る想いの量も尋常ではないってことで、澄香の家の何倍もの神々がひしめいているわけだ。しかもそういうところの片割れ雛ってのはさー、未亡人みたいなもんだから、しくしくと嘆いてるのとかが多くて」
「なるほど。そりゃ勘弁してもらいたいわ」
「かわいそーだよねー。捨てられた奥方たちの涙の合唱。ああ哀しや哀しや」
 いやに強調するので何かと思えば、ミチカタはあたしに向かって軽く片目をつむってみせた、ような気がした。相変わらずフードの陰に隠れがちでよくは見えなかったのだけど。その瞬間、あたしはやつの企みを直感で理解する。なるほど、そういうわけか。あたしは乗ることにした。
「でもさ、もしマロが離婚しちゃったら、うちのおひなさまもそっちに売られる可能性が……」
「な、ならん! それはならんぞ!」
 予想通り、マロは素早く顔を上げて真剣に抗議する。ミチカタがにやにやとそれを煽った。
「いやいや、でも案外元気でやってくかもよ? 売られた先で新しい旦那とイチャイチャらぶらぶ……」
「そうねー。最近の女は強いから、新たな人生を楽しんでいけるかも。若い恋人作ってもう一度新婚気分とかー」
「な、な、な……ならん! そんなのはまろが許さぬっ!」
 マロは白塗りの顔すら赤く染めて、激昂した。
 その後で彼が見たのはにまりと笑うあたしとミチカタ。ハッと気まずそうにうつむく肩を、ミチカタが気さくに叩く。
「もー、なんだかんだ言ってまだ未練たらたらなんじゃーん」
「ま、まろは、まろはそのようなことは……」
「何言ってんの。あんたたちだってセットで売られてきたんでしょうが。昔はあんな風にラブラブだったんでしょー?」
 あたしはそこら中でイチャついている新婚人形たちを示した。マロは当時を思い出しているのか遠い目をしていたが、すぐに下を向いてしまう。
「……もう昔のようにはいかぬわ」
 だが薄暗い表情は、かつてを恋しく思うようでもあった。
 マロは憂鬱に靴をはいた足元を見ていたが、弾かれたように顔を上げる。
「澄香。ここは人形の店であろう? 職人はおらぬのか」
「え、まあいるんじゃないの。奥の方とかに」
「ではあれの傷を直すことはできぬか。職人であれば可能であろう!」
 いきなり肩を揺すられて何がなんだかわからない。とりあえず思い出したのは、おひなさまの首に走る痛々しい傷の痕。職人に依頼すれば、もしかすると直してもらえるかもしれないが、なぜここでその話が出るのだろう。
「どうしたのいきなり。なに、あの傷になにかあるの? ってかなんでついたの、あれ」
「なんでと申すか。あれはおぬしの母がつけたものじゃ。律子め、子どもの頃に我らで遊ぼうとして、一番上から落としよった。まろの目の前で、あれは段を転がり、畳にたたきつけられたのじゃ……」
 伏せられたマロの目は痛ましげに歪んでいる。まるで今ここで妻が怪我をしたかのように。
「まろは、ただの人形じゃ。いとしき女が傷つこうとも何もしてやることができぬ。律子の手つきを見て、このままでは落ちるとわかっていながら防ぐこともできなかった。……我らは片割れが傷つこうとも何もできぬ」
 静かな語り。いつも騒がしいミチカタでさえ、黙り込んでマロを見つめる。マロは哀しげなままに続けた。
「しかしせめて傷物であろうと、最後まで連れ添うのが主としての責任であろう。だからまろはこれまで長い間、傷物となったあやつと共に役目をまっとうして……」
 ぴく、と異物が心にひっかかった。
「……は?」
 あたしは思わず顔をしかめてマロに指を突きつける。
「あんたねえ、何様のつもり? お内裏さま? それはわかってんのよ。どうしてそんなに偉そうなのかって訊いてんの」
「そりゃお内裏さまだからじゃ……」
「ミチカタは黙ってて。傷物傷物って勝手に決めつけて連呼して、それで責任だから連れ添った? だから今こそ離婚するって? なにそれ、なんで勝手にあのこの価値下げてんの」
 思い出すのはおひなさまの華やかな姿。たしかに、最新のひな人形に比べれば、古風で地味な部分もあるかもしれないけれど、そんなものには負けない魅力が彼女にはあったのだ。はらはらと涙を流す慎ましい姿が、お内裏の発言と重なってとてつもなく腹立たしくなる。
「今のままでも十分すぎるぐらい綺麗じゃない! 傷だって全然気にならないし、雅な女性がいいならあんな雅な娘はいないでしょ。それなのにあんたは勝手に傷物ってけなして見下して、そんで自由な夫婦構成? 今までオレは我慢してきた、でも今からは若い女の子ひっかけて再婚するぜ? 自分の嫁の価値も理解できないやつが何言ってんだか!」
「な、な、な……」
 マロは顔を真っ赤に染めてぱくぱくと口を動かす。図星ゆえの動揺かと考えて、あたしがふふんと笑ったとたん。
「何を言うか! おぬしが傷物は嫌だと泣きわめいたのではないかっ!!」
 予想外の罵倒を浴びせられた。
「……え?」
「覚えておらぬのか!? 幼稚園の頃、友だちを呼んでひな祭り会をしたところ、さっちゃんが我らを見て傷があると騒いだじゃろう。それでおぬしはあれに傷がついていることに気づいて、こんなおひなさまは嫌だと大泣きしてしまったではないか!」
 え、え、え、ちょっと待ってちょっと待って。たしかに地元にはさっちゃんという友だちがいるし、幼稚園時代からの幼なじみでもあるんだけど。
「そんなこと、あったっけ……?」
「あったのじゃ! おぬしが泣きやまぬからひな祭り会は中止となってしまったじゃろうが! 着物の裾が乱れるぐらいばたばたと暴れおって、女子のくせにはしたないことこの上なかったわ。おぬしが、こんなおひなさまはいらないなどと騒ぐから、律子はあれの首に包帯を巻こうとして……」
「思い出したあっ!」
 そうだ、たしかにそういうことがあった! 包帯を巻いたら首が顔ぐらい太くなってしまったから、お母さんは仕方なくおひなさまの傷にガーゼを貼ったのだ。今日はがした、あの茶色い布はそれだったのか。ああ、そうだそうだ! たしかにそんなことがあった!
「うわー、ごめんなさーい!」
「今さら謝られても遅いわ! 我らがあれからどれだけ落ち込んだと思っておるのじゃ!」
 うわあうわあ本当にごめんなさい。あたしはいてもたってもいられない申し訳なさで、へこへこと頭を下げた。往来で行なうにはあまりにも奇妙だが、通行人の視線すら忘れるほどに心が痛い。
「あれは今日、おぬしに誉められて本当に嬉しそうじゃった……長年傷つきであることを気に病んでいたからな。それなのに、そもそも覚えていなかったとは……なんと嘆かわしい」
「ごめんなさい本当ごめんなさい。ああ、だから泣いちゃったのか」
「そうじゃ。まったく、粗忽ではあるがここまでとは思わなかった」
 偉そうに言われても何も言うことができない。あたしは全身全霊でマロに向かって頭を下げ、せめて先に気持ちだけでもと、心の中でおひなさまに謝った。しかし、それではあたしは今まで勘違いをしていたということになる。
「ねえ、じゃあ離婚騒動の原因って、何だったの? てっきり傷物が嫌だとか、古女房に飽きたとか言って口論になったのかと」
「まろがそのような無体なことを申すわけがなかろう。おぬしが気にせぬのなら傷などはどうでもよいのだ。争いごととなった原因は……この度はまろとあやつだけがおぬしの元に送られたじゃろう?」
「うん」
「それで、あやつが桃の花がないのは寂しいと愚痴をこぼして。何をつまらぬことをと思って、まろはつい『それよりも官女どもがおらぬのは華やぎがなくて寂しいのう』と言ってしまったのじゃ。するとあやつは急に怒りだして……」
「……で、『はしたない』ってことになったのか。なるほど」
 みるみると恥ずかしさに染まっていくマロを見て、あたしとミチカタは呆れ顔を見合わせる。まあミチカタの場合は本当にそんな顔なのかよくわからないのだけど。
「んじゃ結局のところ、嫉妬からくる痴話げんかってことですか」
「そんで勢いあまって家出までしちゃったってかー。いいねえ夫婦って」
 ミチカタはふむふむと腕を組む。あたしは三人官女に嫉妬するおひなさまを想像して、なんだかほんわかしてしまった。本人からすれば重大なことなのだろうけど、傍から見れば彼女の物腰もあいまって非常にかわいらしいではないか。
「いい奥さんじゃん?」
「当たり前じゃ。おぬしに言われとうないわ」
 吐き捨てるその耳があまりにも赤いので、あたしは笑みが止まらない。
「じゃあ、そのいい奥さんと仲直りするためにはどうすればいいですかね、夫婦和合の神さま?」
「そりゃー、やっぱり……ねえ」
 無言のままうなずいて、あたしたちはマロを連れて人形店へ駆け込んだ。

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へいじつや
やおろず《雛の段》
作者:古戸マチコ
掲載:へいじつや
製作:2005年3月