←前へ 「ただいまー」 「道祖神も帰ったよー!」 どうして部屋の主よりも大声なのか道祖神。あたしはミチカタとマロを連れて、お馴染みのワンルームへと戻ってきた。ら、いきなり酒の匂いがして思わず一歩退いてしまう。 「なにやってんの家神……」 部屋の中央では十二単のおひなさまが、酒を呑みすぎたのか赤い顔でふらついている。その傍でお相伴をする家神もまたほのかに耳を染めていた。おいこら何杯飲んだんだ。うっかりと朝から酒をお供えしたのがこんな結果を招くとは。家神は酔っぱらいらしくふらつく動きであたしを手招く。 「おお、帰ったか。ひな殿があまりにも嘆くのでな、相手をしておったのだよ」 「それでなんで酒盛りになるのか二十字以内で答えてください」 「女の哀愁には酒がつきものだからだ」 「単純明快!」 わかりやすすぎるというか、パターン化されすぎているというか。あたしは一日の疲れがどっと肩に来て、十二単の裾の手前に座りこんだ。しかし、とりあえずこれだけは、と鞄を開ける。取り出したのはお内裏人形。 「ほら、マロ」 「そう呼ぶでない。わかっておるわ」 なんだ、外では呼ばれても平気そうだったのに、妻の前では恥ずかしいのか。 マロが現れたとたん、おひなさまはふいと顔をそむけてしまう。あたしはマロの背を押した。マロは緊張しているのか、ためらいながら声をかける。 「……おまえ」 「わたくしはもう貴方さまのおまえではございませぬ」 背を向けた彼女の袖に、そっと触れる淡いいろ。 マロが差し出したのは、一枝の桃の花だった。 「土産じゃ」 見開いた彼女の目が桃色の造花を見て、マロを見る。涙の後を残す頬が、やわらかく微笑んだ。 「あら、あら」 「別に……これを買いに行ったわけではない。たまたま、そこにあっただけじゃ」 マロは目元まで赤くして壁ばかり向いている。おひなさまはくすくすと笑った。 「ええ、わかっています。素敵なお花……澄香さんがお払いになったのでしょう? ありがとうございます」 「あ、いえいえ。やっぱお花がないと寂しいしね」 「そうですわ。まったく、風情がわからないひとなんだから」 やばい口論再発か、と身構えるが、おひなさまは恥ずかしそうに笑って続ける。 「本当はね、『桃の花がなくて寂しいけれど、あなたがいれば平気です』と言うつもりだったのですよ。それを、あなたが官女の話でさえぎるから……」 「そ、そうか。そうじゃったか。いや、うん、そうか……」 「そうですよ。もう、せっかちなんだから」 うふふふふ、あはははは、と人形店で見たのと遜色ないほどのラブオーラが放出されて、あたしは家神のところまでにじにじと移動する。 「なんかもうお腹いっぱいっていうか……」 「夫婦げんかと仲睦まじきは猫もまたぐに違いないな」 「賛成」 ミチカタだけはひとり五人囃子と化してヒューヒューなどとやっているが、こっちは一日の疲れもあってもはやぐったりするしかない。あたしは桃の花の本体を指でもてあそびながら、だらりと壁にもたれかかった。お供えとして具現化した方の花は、仲良し夫婦が二人でいじりまわしているところ。 「そうだ。澄香はなんと傷のことを覚えてなかったそうじゃ。だが傷があっても気にならないと言っておったぞ。そうじゃろう澄香よ?」 「え、うん。そのぐらいの傷だったら全然気にならないよ。でも、本人がそうしたいっていうなら、修復してもらってもいいけど」 「まあ」 こちらを見たおひなさまの瞳が、感極まったようにうるむのであたしは驚いてしまう。 「いいえ、澄香さんが気になさらないのなら、わたくしはよいのです。ああ、これでようやくお役目をつとめることができますわね、あなた」 「ああ。よいことじゃ」 「え、なに、何の話?」 「なんだ、ひな人形のお役目も知らんのか」 家神は呆れたように笑うと、いつものごとく解説をはじめた。 「ひな祭りとは、もとは子どもが無病息災でいられるようにと形代を作っていた習俗と、女子がする人形遊びの習慣が一緒になったものなのだ。ひな殿たちにとっては、美しく華やぎ、女子たちにもてはやされることこそが仕事のひとつ。そしてその女子に愛されながら、病気や怪我をしないよう、美しい女に育つようにと願うのが彼女らのお役目なのだよ」 ひな人形夫妻はそうそうとうなずいている。家神はにやりとしてあたしの耳元で囁く。 「のう澄香。お前は大方お下がりのひな人形など嫌だとわめいたのではないか?」 びく、と肩がはねたのは、いきなり近くなった声に驚いたからだけではない。まうごうことなき図星だったからだ。あたしはひな人形がお母さんのお下がりだなんて嫌で、友だちのピカピカしたおひなさまだとか、名前を書いてもらえるオルゴールや金色の冠が羨ましくてしかたがなかった。傷がついていると言われて泣きわめいたのも、ここでだだをこねれば新しい自分だけのおひなさまを買ってもらえると思ったからだ。 あたしは昔の自分の行動が恥ずかしくて、下を向く。 「まあ確かに新しいのはよいことでもあるが、何を言うかと思うのう。このひな殿たちはお前のものだ。母殿への役目を終えて、今はお前を善き娘にするために懸命に働いておる。お前が生まれた時からずっと、守ってくれているのだよ」 家神があたしの顔を上げさせる。目の前には優しく微笑むお雛さまにお内裏に、鏡の神にかまどの神にペンの神に、と数えきれないほどのやおよろずの神々がいて、あたしは不覚にも泣きそうになる。あたしが使ってきたたくさんのものたち。 「ありがとう」 うわずる声で呟くと、家神が頭をなでてくれた。 「ああ、善い子だ。我らは願われてはじめて幸を与えることができる。人の祈りを受けて我らは生まれ、そして生きて人に幸を返していくのだ。想いもなく想われることがあるはずはない。またひとつ満たされた祈りの形に、今宵は祝おうではないか」 あまりの手には酒の入った杯がしっかりとつままれている。 「……なんだかんだで、ただ呑みたいだけじゃないの?」 「そう言うな。ほれ、賑やかに行こうじゃないか」 呆れるあたしの肩を抱いて、八畳間の家神は楽しげに笑いだす。そこら中の神々が一斉に騒ぎだした。 「一番! 《満潟の道祖神》歌いまーす!」 「いよっ、待ってましたあ!」 「あたしはちっとも待ってなーい!」 結局こうなるのかよ! そう叫んでも、いまさらこの陽気なノリがおさまってくれるはずもなく。 あたしたちは新顔のひな人形たちを交えて、夜更けまで楽しんだ。 「昨日で終わっとけば、いい話で済んだんだけどね……」 あたしは家神の本体である小石をポッケに忍ばせて、玄関前に立ちつくしている。こうしなければ家神は部屋の外には出られないので。あたしは足元に並ぶダンボール箱をどうするべきかと見下ろしていた。送り主は実家の住所。内容物は「ひな人形(追加)」と記されている。そしてまだ開封もしていない箱たちから響くのは。 「どうしたのかしら? 早くご主人様に逢いたいわ」 「やはり奥方殿を見なければ春は始まりませんな! あの美しいお姿……ああ心が乱されます」 「なんと! そなたらはまだそんなことを言っておるのか。ご夫婦に手を出すなど言語道断じゃ!」 「相変わらず頭の硬いことで。ぽっくりと逝ってしまわれるのも時間の問題ですなぁ」 「なんじゃと! もう一度言ってみよ!」 もう触るのも嫌なぐらいに波乱を予感させる、人形たちの声だった。 「やっぱり二人じゃ寂しいから、残りの人形も送りますっておかーさーん……」 「これも娘がきちんと育つようにという、母の愛だな」 「その愛で三角関係四角関係の争いに巻き込まれちゃたまんないよ!」 本気で泣きたくなってくるが、家神はいつも通り楽しそうに笑うだけ。 「ま、たまには試練もいいだろう。三週間も飾るんだ、乗り越えるべき嵐の中でこそ絆を深くするのが、夫婦というものだ」 「三週間も続くのか……」 「しまい忘れて行き遅れる心配がなくてよかったなあ」 あっはっは、と笑うこいつは本当にちゃんと仕事をする気があるのだろうか。そう反論すれば「おまえの愛が足りないのだ」などと言われてしまいそうなので、口にするのはやめにする。あたしはいつまでも終わりの見えないこの生活に、がっくりと肩を落とした。 ←前へ へいじつや |